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「死者との対話」-死者がひらく、生者の生き方-



死者との対話




 

著者の若松英輔氏は、批評家であり、また、一方で有機栽培の薬草を販売する

会社を経営されている方だということです。

 

また、生後40日でカトリックの洗礼を受けたキリスト教の信仰者であるという

ことです。

 

しかし、現代の宗教、あるいは宗教者の在り方を厳しく批判しています。

 

著者は、死者を語ることを暗黙のうちに封印された近代で、個別の経験を超え、

無条件に公然と死者の実在を語れるのは、いや、語らねばならなかったのは、

宗教者もしくは文学者を含む芸術家たちであったが、それを実践した者は

極めて少なかったといいます。

 

そして、「過度に乱暴な言い方をすまいと思いますが、死者を語らない宗教

など、すでに宗教の名に値しないと私は思います。宗教は、教義に道徳でも、

倫理道徳でもありません。どう生きるのが「正しい」のかを説く思想でもあり

ません。宗教とは、生者と死者がともに超越と不可分の関係にあることを示す

契機であり、伝統であり、生きる道です。」と述べています。

 

とにかく、本来なら生者と死者の間をいっそう強く結びつけるはずの宗教が、

かえってニ者の間を分断してしまうのなら不要である。生者を超える世界が

あり、私たちには知り得ない世界があって、死者はそこと私たちが暮らす

この世界とを縦横無尽に行き来しながら生きているという、元来、宗教が

持っている「常識」を説くことをやめてしまうなら、存在する意味はない

というのです。

 

また、病気の治癒など、宗教的な奇蹟について次のように述べています。

 

「宗教的な奇蹟は確かにあります。難病などが治ったりすることがあります。

・・・そういったことを信じますか、と尋ねられれば信じると答えますが、

どう思いますかと聞かれれば、そこを何か特別なことのように切り取って、

格別な意味を認めるようなことは絶対にしないと、申し上げると思います。」

 

つまり、病が癒えたということは「奇蹟」であると同時に、病む以前の状態

もまた「奇蹟」だった、日常生活そのもの、今日生きていることが「奇蹟」で

あるとしています。

 

このような著者の主張は、大いに心を動かされますが、果たして、「死者」、
著者のいう
「死者」とはどういう存在なのでしょうか。

 

読んでいくと、著者の「死者論」の重要な契機の一つとして、著者の妻の死と

いうものがあるようです。

 

著者は、自分が妻の亡骸を前に泣き叫んでいるとき、横に彼女がいて、「大丈夫、

大丈夫だよ。私はここにいる。心配いらないよ。」と声を掛け、しっかり私を

抱きしめてくれているという光景(ビジョン)を「見」たというのです。

 

そこいったことから、死者とは抽象的な概念ではなく、実在である。それは、

人間が安易に解釈することを拒むものであり、汲めども尽きぬ、何かであると

認識に至っていると思います。

 

そして、「死者は実在する、だが、死を経験した生者はいない、ということが

私の死者論の基点です。臨死は死ではありません。こちらの岸の彼方に、「彼岸」

の世界がある、そのことだけで十分ではありませんか。そこがどうなっている

かは、私たち自身が死の彼方に赴いたときに、自分で経験すればよいのですし、

そちらでどう生きるべきかは、またその場で考えるべきことだろうと思うのです。

私のいう「死者論」とは生者と死者の関係、あるいは交わりを考えることです。」

としています。

 

また、一方で、「近年、盛んな、いわゆる「スピリチュアル」な視点-死者が

存在するかいなか、死者はどこにいるのか、死者の国は、どうなっているのか

という問題とは関係ないものです。」とも述べています。

 

このような視点から、著者は、「死」はこれからも悲惨な出来事であり続ける

かもしれないが、亡骸とは異なる死者を「見る」ということをすれば、その

姿は逞しく、輝いており、死者はすでにその惨めさのなかにはいない、と言い

ます。

 

そして、「私は、死者とは何かという話をしなくてもすむ日が来るとよいと

願っています。死者が現代人の日常において、否定しがたい事実として

「生きている」のであれば、改めて論じる必要はなくなります。私はそういう

日が来ることを心から望んでいます。」と主張しています。

 

死者が決して消滅してはおらず、まさに「生きている」ということについては、

異論はありませんが、疑問に思うことがないわけではありません。

 

著者がいう死者の実在とは、個性を持った実体が存続するということでもない

ように思われます。あるいは、それはいったん不問に付そうということかもしれ

ませんが、それは一つの立場、思想としてあるとしても、死者はみじめではなく、

逞しく、輝いているというのはどういうことなのでしょうか。

 

生者は、様々な苦しみや悲しみ、そして、怒りや恨みを抱えて生きていますが、

その罪業や苦悩を抱えたまま死んでいったとしたらどうしましょうか。そして、

死後、さらに生者以上に苦しんでいるとしたら・・・。

 

あえて申すならば、そういった状況に対する解決の道筋を示すのが、本来の宗教、

つまりは、信仰や霊的な修行の果たす使命ではないかと思います。

 

私が申すまでもなく、著者も信仰者ですから、そのようなことは心のなかに

しっかりと秘めておられると思いますし、実際、異なる局面において述べて

おられるだろうと思いますが・・・。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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