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「イスラーム文化」2-その宗教的基底-



イスラーム生誕
 
 
一般的に世界の三大宗教というと、キリスト教、仏教、そしてイスラム教を

指しますが、イスラム教徒なら躊躇することなく、ユダヤ教、キリスト教、

イスラム教を上げるようです。

 

なぜなら、イスラームの立場からすると、(仏教は、セム的な人格一神教と

は著しく性格を異にしていて、宗教といえるかどうか疑問視されるが、)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、人類の歴史のなかでは三つの

違った形で現れたものの、根本的には同じ「永遠の宗教」だからだ

そうです。

 

永遠の宗教? 「コーラン」では、このように、歴史を超えた、あるいは

歴史以前に、一つの「永遠の宗教」がある、いわば、形而上的宗教の理念

というようなものがあるとしているようです。そして、この形而上的宗教性

は、セム的一神教の伝統に基づく宗教理念であり、厳密にいえば、上記の

三つの宗教だけに限らず、旧約聖書の認める預言者の興した宗教は全部

「永遠の宗教」の歴史的現れだということです。

 

つまり、「コーラン」によると、「永遠の宗教」が純粋な一神教として実現

したのはアブラハムの時代であり、神の世界創造以来、人類の間に現れた

預言者の中でアブラハムこそ純粋無雑な一神教徒であり、絶対的一神教の

精神の体現者だということになります。

 

その後、モーゼがユダヤ教として、次にイエスがキリスト教として同じ

「永遠の宗教」を二つの異なった歴史的形態で実現したが、イスラームに

言わせれば、残念なことに、これら二つの宗教は、もはや、かの「永遠の

宗教」をもとの純正な形では保持できなかったがために、ムハンマドが

現れて、また、もとの本源的な姿に戻そうとしたのだということになる

ようです。

 

よって、この意味ではイスラームという宗教は決して新しい宗教ではなく、

むしろ古い宗教、永遠に古い宗教だということです。

 

ところで、この「永遠の宗教」、アブラハム的宗教というものの構造を

単純化すると、それは神と人の垂直関係、タテの人格的関係という形で

提示されると著者はいいます。

 

一方の極(上)に神、他方に極(下)に人がいて、この間には無限に深い

断絶、無限に遠い距離がある。神は絶対的超越者であり、このままでは

人と神の間には何の連結もありません。しかし、連結は神の側から作られ

ます。それが「啓示」と呼ばれる現象です。神が直接人間に語りかけて

きます。人間に対するこの語りかけは、人間のなかの誰かが突然選ばれて

預言者になることから始まります。

 

それが、いわゆる預言者の召命体験であり、彼の口から断続的に、断片的

にほとばしり出る神的言語が啓示といわれるものであり、この特異な現象を

通じて神の意志が人間にも伝わり、それを通じて人間と神との間に一種の

人格的つながりが成立するとしています。

 

預言者は、いわゆる「予言者」ではなく、神の言葉を預かった人、任された

人という意味であり、預言者がさらに特定の民族に派遣されて、自分の受け

た神の言葉をその民族に伝えるという特別の使命を負わされたとき、その

預言者は神の「使徒」と呼ばれるということです。

 

イスラームを興したムハンマドは預言者であると同時に、また、神の使徒

でもあったのであり、この点でモーセやイエスとまったく同資格とされた

ということです。

 

かくして、イスラームの考え方によると、「コーラン」は神の意志の直接の

言語化、あるいは神の言葉そのものとなり、本来、断絶してまったく懸け橋

のない神と人との間をつなぐ唯一の手段として、神と人との中間にその位置を

占めるということになります。

 

なお、ここで注意しておかねければならないのは、人類創造の初めから、神は

預言者を次々に立ててきた、その連綿たる預言者系列の最終点にイスラームの

預言者ムハンマドが現れるということの意味であると著者は述べています。

 

つまり、神の啓示はそこで終了し、これからはもう神の言葉を聞くことができ

ないのであり、この考えが、後に述べられるように、後世、イスラーム思想史

で大きな問題を引き起こすことになるというのです。

 

さて、イスラームの神アッラーは、まず、何よりも生ける神、生きた人格神と

して自らを現したということです。人間が我・汝の人格的関係に入りうる神で

あり、古代インドのブラフマンのような形而上的絶対者ではありません。

 

この生きた人格神は、人間の側からすれば無限に遠い絶対的超越神であるが、

神の側からすれば、また人間に無限に近い神、つまり内在神でもあると

いうのです。

 

すなわち、超越と内在、そういう矛盾的性格を持って人間に関わる神だという

ことですが、このような矛盾的性格の神であればこそ、人間は信仰を通じて、

信仰を通じてのみ、これと人格的関係に入ることができるだとしています。

 

しかしながら、キリスト教と異なり、イスラームでは、それは父と子の親しさ

のようなものとはまったく異質なものと考えているようです。

 

人格的な関係と言っても、神はあくまで主人、絶対的権力を持つ支配者であり、

人間はその奴隷であるというのです。あくまで主人と奴隷との関係ということ

であり、この考え方がイスラームという宗教の性格を理解する上で決定的な

重要性を持っていると著者は述べています。

 

つまり、奴隷のように、奴隷が主人に対するように、何をどうされても、ただ

ひたすら相手の思いのままという絶対他力信仰的な態度を意味するということ

であり、それがイスラームという宗教の実存体験的中核をなすとしています。

 

まさに、イスラームという言葉自身が、「絶対的に帰依すること」を意味し、

ムスリムという語も「絶対的に帰依した人」を意味するということです。

 

もう一つのイスラームの神アッラーの顕著な特徴は、その絶対的唯一性にある

といいます。セム民族特有の一神教として当然かもしれませんが、キリスト教

と比較しても、イスラームでは、それが実に徹底しているようです。

 

イスラーム以前のアラビアの宗教であった多神教とその偶像崇拝はもちろん

のこと、キリスト教の三位一体の教義も偶像崇拝として激しく攻撃したという

ことです。つまり、キリストに神性を認めないのです。

 

もっとも、イスラームにおいてもイエスが大変重要な働きをすることは認める

のですが、それは神の子としてではなく、ムハンマドと同じく預言者として

であり、神の使徒であったという意味においてです。

 

ムハンマドは、後世になると神格化されますが、彼自身はもっと単純素朴な

人物であり、自分が神聖視されることを嫌い、それを警戒して、常々、自分は

「めしを食い、市場を歩きまわる」ふつうの人間だということを強調していた

ということです。

 

さらにもう一つのイスラームの神の顕著な特徴は、その絶大な力、全能性に

あるとしています。この神の全能ということは「コーラン」の始めから終り

まで、全体を流れている最も根本的なテーマであるようです。

 

イスラームの神は世界をただいっぺん創造したきりで、あとは事の成り行きに

任せるのではなしに、それ以来、ずっと、いつまでも、時々刻々と全世界を

厳格に管理し、支配している主宰者だということです。つまり、神の瞬間的

創造行為の連鎖、神のこの瞬間、瞬間の存在界への介入が歴史ということに

なります。

 

そうなると、瞬間ごとにまったく新しい世界が創造されることになるため、

全体が切れ目のない一つの流れではなくなります。とぎれとぎれの独立した

単位の連鎖だということになります。

 

かくして、歴史はつぎつぎに起る出来事のとぎれとぎれの連鎖であるという、

アラブ独特の歴史観が形成されたということです。

 

また、この考え方は、時間だけではなく空間にも適用されて、世界は互いに

内的に連絡のないバラバラなアトムの集合だとするイスラームのアトミズム

=原子論的存在論と呼ばれるものが出来上ったようです。そこでは、われわれ

の経験的な世界は、因果律そのものが成立しない世界ということになり、人間

に適用されると、人間の自由意志が完全に否定されてしまうことになります。

 

これは、人間の倫理性の問題だけではなく、絶対無力の人間が犯す悪も罪も、

すべては全能の神の責任になるということであり、神の倫理性までも危うく

なりかねないということで、初期イスラーム神学で大きな論争を巻き起こす

ことになったということです。

 

なお、このような因果律の否定を伴う非連続的存在観というものは、イスラーム

の正統派(スンニー派)の根本的な哲学であり、イラン人(ペルシャ人)の世界

認識は存在の空間的、時間的連続を特徴としており、正面からぶつかっていく

ことになるとしています。

 

(つづく)

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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