FC2ブログ

イスラームにおける内面への道-シーア派、スーフィズム-

  イスラム神秘主義









イスラームの見地からすると、宗教と法、あるいは宗教と倫理とは密接に結び

ついて一体化しており、とくにスンニー派は、イスラーム即イスラーム法

(シャリーア)、つまり、宗教即法律という極端な立場をとっています。

 

この立場によると、イスラームという宗教はイスラーム法の名で知られる

整然たる法的結晶体となってはじめて完全な意味での宗教として成立する

ということになります。

 

よって、イスラームは、共同体(ウンマ)の宗教となり、イスラーム法と

いう形で固定されるに至り、外面的には実にがっしりした文化構造体を構築

しましたが、一方で、社会制度化し、政治の場となり、信仰の実存的なみず

みずしい生命力が失われて枯渇しそうになるという側面が露呈してきたと

いうことです。

 

律法主義が極端に走れば、宗教は形式に堕し、形骸化するのであるが、井筒は、

イスラームの内部には最初期から宗教のこのような形式化に真正面から反対し、

それと対決してきた精神主義の大潮流、猛烈な実存的内面主義の傾向があった

といいます。

 

今回は、その、イスラームの内面的、精神主義的傾向について紹介してみたい

と思います。

 

さて、井筒は、「コーラン」前期、すなわち、メッカ期のイスラームは、

「コーラン」後期=メディナ期の宗教形態とは異なり、人間個人個人の生々

しい宗教的実存のあり方に直接つながるものであり、己の罪悪性を自覚した

人間主体が、神の呼びかけに対してどう決断し、どう応えていくかという

問題が中心あったが、イスラームの内面のへの道をゆく人たちは、大体に

おいてこのメッカ期のイスラームの系統を引くものであると述べています。

 

そして、イスラームを外面的、社会制度的に発展させた人たちをウラマーと

いうのに対して、そのような内面への道をゆく人たち、つまり、一切のものに、

感覚や知覚や理性ではとらえることのできない隠れた次元、存在の深層を認め

て、それを探求しようとする人たちに対してウラファーという名を付したと

いうことです。

 

ウラファーとは、このように宗教を霊性的、あるいは精神的内面性において

体認しようとする人たちであり、ウラマーたちのシャリーア至上主義、すなわち

宗教としてのイスラームをそのままシャリーアと同一視し、法即宗教と考えに

反発し、これと激しく対立するに至ります。

 

それは、熾烈な対立であって、多くの命がそのために失われ、イスラームの

歴史を血に染めたということですが、血を流したのは、大抵はウラファー、

内面の道をゆく人たちであったということです。ウラマーは、時の政府の

政治力、軍事力と結びついた一大勢力であり、ウラファーは、政府に対する

反逆者として、また、「コーラン」の教えに背く背信者、異端者として迫害

され、殺戮されたということです。

 

井筒は、内面への道をゆく人々の間に生まれ育った文化パターン、とりわけ、

イラン、シーア派のイスラームに全体として、どことなく悲劇的な雰囲気、

痛切な運命的悲壮感のようなものが流れているのはそのためだとしています。

 

ところで、一般的に宗教には、顕教と密教とがあるとされていますが、イス

ラームにも顕教的なイスラームと秘教的、密教的なイスラームがあるという

ことです。

 

そのイスラームの公の顔ともいうべき顕教におけるいちばん大切な、中心的

なキーワードは、いうまでもなく「シャリーア」(イスラーム法)ですが、

イスラームの秘密の顔ともいうべき密教のほうで中心的位置を占める

キーワードはハキーカという言葉だそうです。

 

この「ハキーカ」という言葉は、「内的真理」とか「内面的実在性」という

意味であるが、「シャリーア」との関係において重要な意味を持っている

としています。

 

「ハキーカ」とは、外に現れた形の背後、あるいは奥底にあって、それを

裏から支えているリアリティー、すなわち可視なものの不可視の根底、存在

の秘密であるという。秘密ゆえに目には見えない。意識の特異な深層次元が

開けて、一種独特の形而上的機能が発動したとき、はじめてそこに見えてくる

存在のリアリティーである。とにかく、世界に見出されるあらゆるものは、

外面的、内面的の二重構造を持っているというのです。

 

つまり、シャリーアの奥には、ハキーカがある。ハキーカの自己表現である

からには、シャリーア(イスラーム法)はそれ相当の存在理由を持っているはず

であり、ウラファー、内面主義の人たちも、いちがいに否定はできないのである

が、ウラマーたちがやるように、シャリーア即宗教としてイスラームをそのまま

シャリーアに還元してしまう態度が許せないということです。

 

内面主義の人たちにとって、ハキーカのないシャリーアは生命のない抜け殻に

すぎないという主張ですが、ハキーカの重要視が過ぎると、今度は、内面主義

を極端なところまで持っていってしまうことになります。

 

そうなると、シャリーア軽視から完全な無視、そして、シャリーアを通じて社会

制度化された共同体的イスラームへのいっさいの妥協拒否という流れになり、

イスラームそのものが危機に陥ってしまうことになります。実際、イスラームは

歴史的に何度もそのような危機に陥ったようです。

 

なお、このような内面の道、あるいはハキーカ第一主義という潮流は、全部、

同じ形で、同じ方向に進んだのではなく、大別すると二つの系統に分かれると

いうことです。

 

一つはシーア派的イスラームであり、もう一つは、スーフィズム、つまり、

イスラーム神秘主義ですが、後者は別の機会に譲るとして、前者について、

少し触れておきたいと思います。

 

シーア派といってもいつかの分派があるため、井筒はイランの国教となった

「十二イマーム派」に絞って述べています。

 

まず、イスラームは徹底した聖典解釈学的であるなかで、シーア派は特に

意識的に解釈学的だといいます。なぜなら、シーア派では、「コーラン」の

テクストを普通のアラビア語の文章や語句として、アラビア語の語彙や文法

が指示し許容する範囲で、その意味を解釈するだけにとどまらず、必ずもう

一段奥に「内的意味」を探ろうとするからだというのです。

 

「内的意味」とは、秘密の意味、秘教的な意味ということであり、このような

解釈をすると、「コーラン」のテクストが、しばしば、通常のアラビア語の知識

ではとても考えることもできないような意味を持ってくるのだそうです。

 

なぜそのようなことになるのかというと、先に触れたように、すべてのもの

に、そして「コーラン」自身にも、ハキーカなるものを認めるからです。

 

そして、これこそがシーア派をしてシーア派たらしめる最も根本的な原理で

あり、シーア派の内面主義を直裁に表しているものだとしています。

 

かくして、神の言葉の内面に「秘密の意味」を認めるシーア派の人々に

とっては、「コーラン」は単なる宗教書ではなく、全編、暗号で書かれた

書物となります。

 

暗号となると、それは解読されなければなりませんが、この暗号解読、

つまり、外面的意味から内面的意味に移る解釈学的操作をシーア派独特の

言葉でタアウールというそうです。一般的には「原初に引き戻す」と

いう意味だそうですが、シーア派的には、普通の人間の言葉で表現され、

外面化された神の意志を、もとの神の意志そのもの、いわば、啓示の原点

に引き戻すことだということです。

 

そうなると、イスラームは、本来、聖俗不分、つまり、存在の聖なる次元と

世俗的な次元とを区別しないのが建前であったものが、シーア派のタアウ

ールの立場に立つと、タアウール以前に人が見ていた世界は世俗的な世界

で、タアウールのあとに現れてくる世界が聖なる世界だということに

ならざるを得ません。

 

つまり、スンニー派の構想するようなイスラーム法的世界は、宗教的世界

ではなくて、政治的権力の葛藤の場であり、まぎれもなく世俗的世界である

ということになります。

 

こうして、シーア派は、その根本的な立場において、聖と俗をはっきりと

区別するのであり、この点においてスンニー派と明確に対立するとして

います。

 

井筒は、シーア派は根本的にイラン的だとしながら、彼らにとって現世は、

タアウールによって内面化され、象徴的世界として見直されない限り、

完全に俗なる世界であり、存在の俗なる次元を代表するものとして、存在

の天上的な次元とあくまで戦うことを本性とする悪と闇の世界である、と

考えているとしています。

 

そして、そこには善と悪、光と闇の闘争という古代イランのゾロアスター教の

二元論的世界表象が、きわめて特徴ある形でイスラーム化、一元論化されて

働いていることが認められると述べています。

 

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

スポンサーサイト



テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

コメント

コメントの投稿

非公開コメント