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イスラーム神秘主義




イスラーム哲学









「ワリー」とは、宇宙の内面的真理、存在の秘密に通じた人を指す名称


だそうです。


 


スーフィー、イスラーム神秘家も、その中で特に最高の境位に達した人々は、


ワリーということになりますが、他の派のように、生まれや、血筋や、神の


選びによってワリーであるのではなく、修行によってワリーになるところに


特徴があります。


 


著者、井筒俊彦は、修行とは「最終的には神との一体化、すなわち、全存在界


の絶対的原点そのものと一体となって、その一体性を主体的事態として自覚する


ことに至ることを最終目的として行われる霊的現成のための全人的鍛錬である」


していますが、一足飛びにそのような境地には到達できないために、段階を踏む


ことになるとしています。


 


そこで、まず、自我意識の払拭から始めます。我の意識の払拭とは、単に我を


忘れるというような消極的なことではなくて、自分の内に自分ならぬものを


見出そうとする積極的な努力をすることなのだそうです。自分とか我とかいう


ものを深く、深くどこまでも掘り下げていく。その極点において、我の内面に、


我ではなく、溌剌と創造的に働く生けるハキーカ、つまり神を見出して、神に


会う。これがスーフィズムの修行の第一段階だとしています。


 


ここでの神は上から、外側から人間を支配する超越神ではなくて、むしろ、


あらゆるものの内面にあり、人間の魂の奥底に潜んでいる内在神なのです。


 


この内在神という考えは、スーフィズム特有のものではなく、「コーラン」


の中にも少なからず見出されるとしています。


 


迫りくる天地終末の日と審判のとき、己の生きざまの罪深さ、恐れといった


終末論的、実存的なメッカ期のイスラームの雰囲気。スーフィズムは、この


メッカ期の啓示の精神を、そのまま純粋に推し進めていったものであると


述べています。


 


そして、スーフィーと呼ばれる人たちは、そこから出発して徹底的に現世否定


の道を進みますが、現世否定とは、具体的には禁欲生活、苦行道の実践という


形をとります。


 


現世は、そのままでは堕落であり、悪であると感じるのはスンニー派の人たち


と異なりませんが、スーフィーたちはその悪い現世を強いて良くしようとは


しません。現世は、もう初めから根源的に悪なのであって、一刻も早く現世に


背を向け、現世的なもの一切を捨て去らなければならない。それこそ神に意志


だ、ということになります。


 


ただ一人神の前に、ただ一人で立つただ一人の実存、それがスーフィーと


すると、スーフィズムは概して反シャーリア(反イスラム法)となり、少なく


ともシャーリア軽視となります。西暦11世紀の偉大なスーフィーだとされる


アブー・サイードのように、怠れば重罪だとされるメッカ巡礼を生涯拒否する


ような人も現れることになります。


 


もっとも、このような境地に達するまでには、先に触れたような自我意識払拭


の厳しい修行の道を歩まなければなりません。


 


ところで、彼らにとって「我」というものが人間的苦しみと悪の根源であると


いうことです。スーフィーの見地からすると、自我意識、我の意識こそ、神に


対する人間の最大の悪であり、罪だというのです。


 


悪とは何か、最大の悪とは何か、このような問いは、仏教などでも意義重大な


問いですが、それに対する答えは、仏教とイスラームとではだいぶ違ってくる


ようです。


 


スーフィズムもイスラーム的神秘主義であるゆえに、人格的一神教というもの


を守り抜こうとするのです。そして、私が私の意識を持つ限り、我と神とが


対立する、それが悪だといいます。


 


人間に我の意識がある限り、人は我として、神に汝、と呼びかけなければ


ならない。或いは、神を彼と見なければならない。どこまでも人間的我と


神的汝、または人間的我と神的彼の関係であって、神だけではない。神だけ


でなければ二元論である。一神教ではない。真に実在するものは、ただ神だけ、


全存在界はただ神一色でなければならない。それでこそ純粋な一元論であり、


本当の一神教だというのです。


 


かくして、スーフィーは、その修行道において、自己否定、自我意識の払拭に


全力をつくすのですが、自己否定の道をどこまでも進んでいくうちに思いがけ


ない不思議な事態が起って来るとしています。


 


自己否定の極限において、人は己の無の底に突き当たるとき、その人間的主体性


の無の底に、スーフィーは突如として燦然と輝き出す神の顔を見るというのです。


つまり、人間の側における自我意識の虚無性が、そのまま間髪を入れず、神の


実在性の顕現に転生するというのです。


 


すなわち、スーフィーの体験的事実としての自我消滅、無我の境地とは、意識が


空虚になり、虚ろになってしまうことではなくて、むしろ逆に、神的実在から


発出してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものでも


なくなってしまうということになります。


 


そして、「自我性を完全に脱却した私は、もう私ではなくて、神そのものだ」と


いうような言葉がスーフィーの達人から吐かれるとき、これでもなおイスラーム


なのかという問いが生まれます。


 


著者は、これほどまでに純化されたイスラームは、もうイスラーム自身の歴史的


形態の否定スレスレのところまできている、或いは、イスラームの歴史的形態


の否定そのものだといった方が真実に近いかもしれないとしながらも、スーフィ


ズムが迫害に耐えながらイスラームに精神的深みと奥行きを与えることによって、


イスラーム文化に重大な寄与をなしてきたことは疑いの余地のないところである


と述べています。








 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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