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大乗経典の世界






大乗仏典 

最も代表的な初期大乗経典である「般若経」「華厳経」「法華経」「無量寿経」

を簡単に紹介しておきたいと思います。

 

「般若経」

般若経というのは、「般若波羅蜜(多)」を最重要と説く経典群の総称であり、

単に「般若経」という名称の経典があるわけではないようです。

 

「般若波羅蜜」とは、菩薩の基本的な修行徳目である六波羅密の修行の一つ、

智慧の修行のことであり、「般若経」は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・

智慧(般若)の六波羅密の修行のうち、特に般若波羅蜜を重視し、すべて

の波羅密は、般若波羅密(智慧の修行)をめざすものとして修されるべき

であるとしているということです。

 

数多くある「般若経」のうち、最も基本となる「般若経」は「八千頌般若経

(はっせんじゅはんにゃきょう)」で、そのほか、その内容を踏襲しつつ

分量を増やした「一万八千頌般若経」「二万五千頌般若経」「十万頌般若経」

などがあり、さらに、「金剛般若経」「般若心経」などの個別の経典がある

ようです。

 

「八千頌般若経」では、般若=智慧の究極の形態として、一切智性という

ことがいわれていて、それをめざすとき、すべての善行も意味のあるものと

なるという。つまり、一切の修行は、もとより般若に支えられての修行こそ

意味があると説く。そこには、明快な智慧の立場の重視の姿勢がうかがわれ

ます。

 

では、その般若=智慧に現れる世界とはどのようなものかというと、我々が

有ると思っているものは、そのようには存在せず、現実には存在しないという

かたちで存在しているのだという。

 

つまり、我々が有ると思っているようには存在しないということは、何もない

ということではなく、存在しないかたちで存在するということです。

 

では、どうしてそうなのかということになりますが、そのことに詳しい説明は

ないようなのです。ただ、終始一貫、一切の存在の、あらゆる分別を離れている

こと、規定し得ないこと、したがって一面的に執着すべきでないことが、

繰り返し説かれるのみであるというのです。

 

どうしてそうなのか、といっても、それが禅定(心が深く統一された状態)

に支えられた智慧において現前する事実だから、としか言いようがない

ということです。

 

ただし、無自性・空、すなわち不生・不滅の本性を縁起によって説明しよう

としている箇所もあるとしています。

 

このように一切皆空を説く「般若経」でずが、現実の人間もまた、自体・自性

ではなく、空であり、幻と同等なのだとすれば、では人を殺しても害しても、

実は殺したり害したりすることにならないのではないかという疑問が湧いて

きます。

 

「般若経」は、もちろん、そのようには説かないということです。現実の人間

は、無自性であるがゆえに、菩薩は無量・無数の人々を涅槃に導くけれども、

涅槃に入る人も、涅槃に導く人も、何ら存しないという結論に導かれると

いうのです。

 

「華厳経」

「華厳経」は、釈迦(実は毘盧舎那仏)が菩提樹下で悟りを開いて一週間後に

説かれたという経典で、そのみずからの内に証した世界(自内証という)を

そのまま表現するものであるとされています。つまり、仏陀の悟道の内なる

情景そのものが直接説かれているというのです。

 

その自内証の世界の様とは、釈迦=毘盧舎那仏が、口または顔および一つ一つ

の歯間から無数の光明を放つ。そうすると、釈迦のまわりに集う菩薩衆は、十方

に無数の世界があり、その一つ一つの世界に如来がいることを見る。そして、

世界の大菩薩が、釈迦が放つ光に触発されて、無数の菩薩を従えて釈迦のもとへ

やってきて、仏を供養し、足を組んで坐る。そこで、釈迦は、眉間から一切宝色

灯明雲光という光を放つ。その光のなかで、普賢菩薩が三昧(禅定)に入り、

やがて釈迦の神通力を受けて説法していくというものです。

 

普賢菩薩が述べる蓮華蔵世界(毘盧舎那仏の仏国土)は、たった一つの塵のなか

に、宇宙のすべてを見るという。それもどの塵においても等しいというのです。

 

「華厳経」には、こうした一即一切・一切即一といった説が頻繁に出てくるという。

一つの事象は他の無数の事象と多種多様な関係をなし、無限の関係で関係し合っ

ているという重々無尽(じゅうじゅうむじん)の縁起を明かし、個々の事象が

自由自在に交流浸透し合っているという事事無碍法界(じじむげほっかい)を

説くというけんらん、華麗なコスモロジー(宇宙観)がそこにあるのです。

 

また、「華厳経」の思想の特色として唯心思想というものがあるとしています。

それは、三界、つまり、欲界・色界・無色界は、迷いのなかの世界であり、

それらすべて、一心の描きだしたものにすぎないというものです。(一心或いは

唯心の心とは、物と心と分けた上での心ということではなく、物-心分化以前

の一真実の世界)

 

しかし、一方で、「華厳経」の主題は、実のところ、むしろ菩薩道にあるとも

いわれています。

 

では、「華厳経」の説く菩薩道とはどのようなものでしょうか?

 

菩薩道の始まりには、まず「信」が説かれるという。仏教の信とは、仏・法・

僧(三宝)への信仰ということになりますが、大乗仏教の場合は、そのような

目に見える対象への直接的な帰依とはなり得ず、その教えへの知的了解も含む

信、すなわち信解が求められたということです。

 

こうして信が定まると、「華厳経」ではまず十住の初、初発心住に入るとされ、

十住・十行・十廻向・十地と段階的に修行が説かれていく。大乗仏教では、

一般に初発心住からこれらの段階を経て仏となるまでに三大阿僧祇劫という

無限に近いような時間を要するが、「華厳経」は、信が定まって初発心柱に

入りさえすれば、仏となったと同じだというのです。

 

なぜなら、自我への執着を根本的にくつがえしたところで、こんこんと湧き

出る仏のはたらきの一分が働き出しているからであり、また、時間的に一即

一切・一切即一ということからも、つまり、現在と未来は融けあって、同時

に成立しているとの見方からもこのことは説明できるということです。

 

「法華経」

「法華経」とは、蓮華のような正しい法を説く経典という意味であるよう

です。もっとも、経典の中で蓮華にたとえられているのは菩薩であって、

菩薩は、世間の泥中にあってこれに染まらず、やがて無垢清浄の花を

咲かせるというのです。

 

この法華経の説くテーマというものは、大きく分けると、一乗思想、

久遠仏思想、菩薩の使命の三つのものがあるということです。

 

一乗思想は、能力の差により教えも分かれているとする三乗思想という

ものに対立する思想で、誰もが大乗仏教に適合するものであり、小乗

仏教も大乗へ導入していく際の方便として意味があるとするものです。

 

なお、一乗思想は、誰もが仏となり得るということであるが、それだけに

とどまらず、仏の我々に対する愛情は、種々の方便をめぐらしてまで救い

とろうとするほどに深いということを示しているということです。

 

次に、久遠仏思想ですが、久遠仏とは、久遠の昔に仏となった存在だそう

です。歴史上の釈迦、身体を所持して現れた釈迦は、実は成仏してよりこの

かた、久遠の時間を経ている仏にほかならないというのです。つまり、久遠

の釈迦牟尼仏を説くということは、無始以来、この世に仏の大悲が射し続けて

いることを説くことであり、「法華経」は、日蓮などによって、一面に戦闘的

なイメージによって彩られているが、実はひたすら仏の慈悲を説く経典である

ということです。

 

「法華経」のもう一つのテーマは、菩薩の使命を説くことであったといいます。

「勧持品」では、悪世における布教の使命が説かれ、菩薩たちは忍難布教の

誓願を立てて、このような強烈な菩薩の使命感の教えは、古来、多くの人々の

心を揺さぶってきたのです。

 

「無量寿経」

浄土三部経の一つで、浄土経の根本経典とされています。「観無量寿経」や

「阿弥陀経」が極楽浄土の様子や極楽往生の修行の方法を説くのに対し、

「無量寿経」は、阿弥陀仏の本願(修行に入る最初に将来実現すべきことを

誓う願)を明らかにする経典だということです。

 

かつて、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったころ、四十八の誓願をたて、それを成就

することで阿弥陀仏(無量寿仏)になったというのです。その阿弥陀仏がおら

れる浄土を極楽浄土といい、一切衆生を救済するために、念仏による極楽往生

を勧めているものです。

 

かの親鸞が、四十八の誓願のうち、はじめは第十九願により、次に第二十願に

より、最終的には第十八願、つまり、南無阿弥陀仏の名号を一念すれば極楽

往生できるとしたことはよく知られています。

 

かくして、「無量寿経」では、大乗仏教の仏の、その大悲の側面がもっぱら

強調され、その観点からの仏教が説かれることになります。

 

以上、代表的な大乗仏典の特徴を概観してきましたが、そこには、他の仏と

出会ってみずから仏となろうとし、願を立て、修行して仏となって、他の人々

を仏とならせていくというモチーフが流れているようです。

 

そして、その核心にあるのは、一切の人々が如来の胎児をもっている、人は

やがて如来となるべき者だ、という如来蔵思想だということです。

 

竹村牧男氏は、この如来蔵思想、人間に仏智が内在するという主張は、凡夫を

導く方便として説いたというばかりではなく、覚者の目に映った厳然とした

事実だったのではないかと述べています。

 



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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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