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空の論理-中観思想-




空入門 (480x640) 


 

大乗仏教においては、大乗経典をもとにして徐々に哲学的な思想体系が整理

されていったようですが、それは、中観派と瑜伽行(ゆがぎょう)派のニ大

学派によって確立されたといわれています。

 

ここでは、そのうちの中観派の「空」の思想について紹介してみたいと

思います。

 

中観派は、龍樹(ナーガールジュナ)を祖師とする学派で、「中論」を根本

聖典とし「空」の論理を明らかにしたとされています。

 

「中論」には、「行くものは行かない」とか、「見るはたらきは見ない」と

いった容易に理解しがたいような逆説的な表現がいたるところに出てくる

のですが、それが意図するところは、日常言語表現が矛盾をはらんでおり、

解体されざるを得ないことを縦横に論じて、最高の真理(勝義諦)のありか

を示そうとしたのだということです。

 

さて、中観派の思想とは、「般若経」に説かれている「空」の思想がその

根底にあり、存在するものすべてのものは、「無自性」(不変・不滅の実在

ではないこと)であるからこそ「縁起の道理」が成立するといい、部派仏教、

いわゆる小乗仏教の説一切有部という学派が、「一切のものが恒常的にある」

と説く実在論を批判するものです。

 

説一切有部は、不変・不滅の実在のことを自性、自体などと呼び、そのような

実体が多数存在すると主張したようですが、般若経や龍樹は、実体とは概念、

ことばの実体視されたものにすぎず、実在するのではない。だから、その意味

で、あらゆるものは実体をもたず、空であるとしました。

 

よって、「空」とは、無あるいは無存在ということではなく、あらゆるものが

それぞれ固有の性質(実体)をもって存在しているのではないということです。

 

つまり、存在しているものは、「仮に条件が重なったから存在している」だけで、

「もし、条件が重ならなかったら、また、条件が変化したら存在しなくなる」

ということです。

 

そして、説一切有部が説くように、「一切のものが恒常的にある」ならば、

それは変化せず、常に一定・固定したものとして存在し続けるはずです

から、釈迦が説いた「縁起」そのものが成立しないというのです。

 

ただし、この縁起については、龍樹はそれまでの否定の論理とは趣の

異なった、いわば世間的な言語習慣を一定肯定するような論理を展開

しているようであり、そのことについてはのちに触れたいと思います。

 

ともかく、龍樹は、すべての事物・事象は相互依存的に存在しているに

すぎず、恒常的に存在するのではないという我々にははなはだ分かり

にくい見解に、「般若経」の空の思想を継承発展さることによって、

理論的根拠を示したということです。

 

ところで、龍樹によって批判された説一切有部も無我と縁起を説いて

います。

 

無我については、私たちの心身は五蘊(五つの構成要素)によって仮に

生成されているものであるから、主体的な「我」は存在することが認め

られず、空であると説くようですが、法(我以外の存在するものすべて)

は有であると考えるようです。

 

また、縁起については、無明にもとづき、過去になされた行為を原因と

して、未来においてその行為の結果が表れるという因果関係が存在する

という縁起説、十二支縁起説を説いています。

 

つまり、原因となった行為は一瞬一瞬に生じては滅し、滅しては生じると

いう生滅をするが、直前に滅した行為の影響を直後に生じたものに次々と

引き渡して結果を引き起こすと考えるのだそうです。

 

このような説一切有部の説、すなわち、あらゆるものを成立させる要因が

すでに存在していて、それが縁を得て、未来から現在、現在から過去へと

一瞬一瞬現れては消えていくという十二支縁起のほうが、目の前にある

ものすべてが空であるという説明で終わるより、人々にとっては受け入れ

やすい側面があったようです。

 

そのためもあってか、あらゆるものが縁起の道理によって生じては滅すると

釈迦によって説かれたことを正しく理解しようとした場合、説一切有部が

説く実有説によっては、因と縁によって様々に変化するということに矛盾

が生じるのであり、実体論そのものは否定しながらも、龍樹は、「中論」

の中で、世間の人々が信じている十二縁起を頭から否定せず、世間的に

有意義な信条を仮説的な真理として認めるかたちで説いているという

ことです。

 

このことについて、梶山雄一氏は、「空入門」で龍樹の空の思想には、世間

の道徳・非道徳その他のよい信条や慣行を、実態はないが、空の現われと

して打ち立てなければならないという意図も含まれていたといいます。

 

なぜなら、善い行為によって未来の幸福を得、悪い行為によって未来に禍を

得る(因果応報)、そして、その行為の禍福の果報は、行為をなした当人だけ

に現れる(自業自得)ことを説く輪廻説は、インド文化圏、或いは仏教圏に

おいて、社会の倫理の根拠を与える唯一の理論であり、十二縁起は、龍樹の

当時の仏教界において、輪廻と道徳を説くもっとも重要な、そしておそらく

もっとも合理的な教説になっていたために、龍樹は、実体的に語られる十二

縁起ではなくて、空の現われとしての、仮にものではあっても有意義な業報

輪廻の教えとしての十二縁起を、世間に打ち立てようとしたのだとして

います。

 

しかし、仏教では、時代と学派の相違を問わず、業報輪廻は迷いの生存に

おける善悪の行為と禍福の果報との関係を説くものであり、それは迷いの

世界にほかならない世間の秩序を打ち立てることはできても、我々は道徳

で救われることも、輪廻を超えることはできません。

 

そこで、龍樹は、「因縁心論」という著書で、十二縁起を解説して輪廻を

説きながら、しかも輪廻を超える悟りにいたる道を説いているようです。

 

輪廻として解釈された十二縁起について、輪廻の主体としての自我は

存在しないで、ただ五蘊(心身を構成する五つの要素)のみが次々と

因果の連鎖を構成するだけである、ということは説一切有部でもいうが、

龍樹は、さらに、この世からかの世へは微塵ほどのものも移りはしないと

いい、いかなる実体も、この世で死んでかの世で生まれるわけではなく、

ただ、空にすぎないものから空にすぎないものが生じるだけであると

説くのだそうです。

 

識も有も生も何ら実体のないもので、その空なる五蘊から空なる五蘊が

生じるのがいわゆる輪廻であり、輪廻の観念は人の誤った判断にほかなら

ない。輪廻は夢のようなものであり、我々が迷いの生存を生きているかぎり、

それは事実であるが、我々がさとったとき初めて輪廻が存在しなかったこと

を知るというのです。

 

龍樹は、「中論」の冒頭で、「滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常で

もなく、同一でもなく、異なりもせず、来たりもせず、去りもしない、そして

多様な思いを超越し、至福なる縁起を、完全に悟った(ブッダ)は説いた。

その説法者のなかの最高の人に私は礼拝する。」と記しています。

 

梶山氏は、この八つの否定は、龍樹の考えている縁起が、説一切有部その他

の縁起説と違って、空の縁起であり、その空の縁起を説いたブッダに礼拝する

ということであって、大変重要な意味を持っているというのです。

 

なぜなら、生じも滅しもしない、有るのでも無いのでもない、来るのでも

去るのでもない、というように、二つの矛盾概念の両方をともに否定すると

いうことは、それによって形容される縁起が、じつは空の同義語であるという

ことを示しているからであると述べています。

 

 


 
 
 
 
 
 
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