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ステイトン・モーゼスの霊訓-近代スピリチュアリズムの歴史2-








モーゼスの霊訓
 霊的能力の謎






 


ステイトン・モーゼスは、初期のスピリチュアリストの中では、最も有名な


人物です。


 


モーゼスはキリスト教の牧師であると同時に霊媒であったが、この二つが


相まって、彼の代表的な著作である「霊訓」が生まれたということです。


 


モーゼスはオックスフォード大学を卒業後、聖職者としての資格をとり、


マン島で教区の牧師となったが、二度大病をして職を離れ、しばらく


個人教授をしたのち、ロンドンの大学の教員になったようです。しかし、


この仕事もまた18年後には病気のため辞めなければならなくなり、その


3年後に53歳で亡くなったということです。


 


彼の回顧談によると、幼児期から霊能の兆しがあり、学生時代に山中の


修道院で半年過ごしたことが霊的な能力の発現のきっかけになったようです。


 


もっとも、はじめのうちは、聖職者という立場からスピリチュアリズムを


まったく無視していたようですが、ロンドンの大学で職を得た翌年、つまり、


33歳のとき、彼の主治医であり親友でもある医師の奥さんの勧めで降霊会に


出席したことが発端となり、他の降霊会にも出るようになり、自分の身の上に


様々な現象が起こってくるようになったそうです。


 


初期は、重いものが動いたり、その場にない品物が突然現れたり、芳香が


漂ったり、モーゼスが空中に浮遊するなどの物理的な現象が起きたが、後には、


自動書記による哲学的なメッセージが主体になっていったということです。


 


自動書記は、1872年から5年間ほど頻繁に起こり、それからだんだんと


少なくなっていって1883年まで続いたそうです。


 


当然、それはモーゼス自身の考えが投影されたものではないかという疑問が


起こるわけですが、それについて彼は、送られてきた内容は牧師としての


自分の意志にまったく反するものであり、しばしば反対意見を述べたが、


それに対してさらに強い意見が送られてきたという。そのため、書きながら


ほかのことを考えるようにしたり、わざと難しい本を読んでみたりしたが、


それでも自分の手は動き続けたと言っています。


 


モーゼスは、「霊訓」の巻末で、人間の脳とは別個の知的存在が弛むことなく


働きかけ、そして遂に成功した事実を強調し、もしそれが理解されないならば、


その人は本書の真の意義を捉えそこなったことになると述べていますが、モー


ゼス自身が霊からの通信の信憑性について、より正確にいうと、語っているのは


霊なのかということと、霊が語っていることは正しいのかという二段構えの疑問


に強くとらわれていたようです。


 


したがって、「霊訓」は疑問、質問に対する応答、すなわち、対話体で書かれて


います。


 


「霊訓」の主要なテーマは、現存するキリスト教の錯誤や迷妄を正そうとする


ところにあり、「われわれの仕事は、イエスがユダヤ教に対してしたと同じことを、


キリスト教に対してすることである。形骸化したものを精神的なものとし、新しい


生命を吹き込むのだ」と、まさに、モーゼスのような熱心なキリスト教徒なら


びっくり仰天するような内容であったのです。


 


そして、その論調は、理性、知性、知識といった啓蒙的な用語を駆使した宗教


哲学的なものであり、既存の教会の規範や聖書の文字にとらわれることなく、


自己の良心の「光」によって判断し行動すべきであること、あらゆる行為は


絶対不変の因果律の支配を受けるがゆえに、「地獄」とは自分の行為がもたらす


魂の苦悩の状態であり、それがすなわち「罰」なのであって、神が下す復讐の


鞭などではない。日常の幸福は、神に対して、同胞に対して、自分に対して、


責務を果たすことによってもたらされるもので、その人間の持つ宗教的信条


とは関わりがないものである、などとしています。


 


さて、モーゼスの自動書記は、様々なメッセージの送り手が現れ、総数は49名


になったようですが、それを統括するのは「インペレーター」と名乗る者で


あったという。つまり、7名が一組の小霊団が7グループあって、全部で


49名の「背後霊団」がこの事業を組織的に行っていたということになります。


 


なお、最高指揮官であるインペレーターの上に更にプリセプターと名のる総監督


が控え、これが地球全体の経綸に当たる言わば地球の守護神の命令を直接受け


取り、それがインペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたという


ことです。


 


ところで、モーゼスは、この「インペレーター」と名乗る霊魂に対して、生前の


身元を執拗に問いただしています。


 


それは、彼が単なる好奇心の満足のために、霊魂の地上時代の身元を詮索しよう


としたということではなく、先に記したように、本当に霊的存在が語っている


のか、そして、それは悪霊ではなく正しいものであるかのという疑問にもとづく


ものであったのです。


 


これに対して、霊魂たちは、押しつけがましい方法で証明しようとすることは、


無益というより、混迷を大きくするだけである。関心を向けるべきは通信の内容


であり、通信者の身元でないとして、回答を控えることが多かったようです。


 


しかし、無価値で時に有害としながらも、紀元前五世紀のユダヤの預言者で旧約


聖書の“マラキ書”の編纂者マラキ初期キリスト教時代のローマの司教だった


聖ヒポリタス紀元二世紀頃のギリシャの哲学者アテノドラス“新プラトン


主義哲学”の創始者プロティノスなどの生前の名前が明かされたということです。


 


さて、以上のことなどから、モーゼスの「霊訓」というものを振り返ると、理性


や知性を前面の押し出し、理路整然とした宗教哲学的なものであるというのは、


その一面にすぎないように思われます。


 


それは膨大な記録のごく一部に過ぎず、記録全体の割合から言うとプライベート


なこと、些細なこと、他愛ないことの方が圧倒的に多かったということであり、


かつて牧師でもあったモーゼスのキリスト教的ドグマの誤謬を厳しく指摘し、


それに代わる真正なる霊的意義を納得させようとすることに多大なエネルギー


が割かれたのではないかと思われます。


 


よって、その他の一般の人間にとっての関心事、たとえば再生生まれ変り-


の問題等については、少なくとも本書に採録されたものの中には見当たらないし、


他の書物の中で言及しているものも概念的なことを述べているだけで、深入り


することを避けようとする意図が窺えるということです。


 


それでは、現在から見ると、スピリチュアリストの間で、スピリチュアリズム


史上第一級の霊界通信で“霊訓(霊の教え)中の霊訓”-“スピリチュアリズム


のバイブル”といわれるというモーゼスの「霊訓」はどのような評価がなされる


べきなのでしょうか?


 


まず、「霊訓」の翻訳者である近藤千雄氏は、「この霊界通信が単なる霊的知識


の伝授ではなく、霊媒のモーゼスと指導霊インペレーターとの壮絶とも言う


べき知的並びに人間的葛藤の物語であり、そこに両者の個性がむき出しに


なっている」と述べていますが、本ブログ何度も紹介している水波一郎氏は、


高級な霊媒現象について著書「霊能力の謎」に中で次のように述べています。


 


霊魂との深く強い信頼関係がなければ高級霊媒にはなれない。気持ちの不一致


はそのまま霊媒現象の失敗につながってしまうのである。しかし、どんな信頼


関係ができても、霊媒にも担当の霊魂にも個性がある。それがそれぞれに意見


の違いを生む。そうしたことは必ず起きる。それを両者が決裂しないように


調整して、霊媒現象のレベルを上げていく必要がある。


 


霊魂が霊媒を使用して話し始めたが、途中で霊媒の意識がそれを嫌がった。


そのように途中で霊媒の意識が拒絶反応を示すと、霊魂は霊媒を使用し


づらくなるのである。その結果、異なる二つの意識が混入して、双方の


意思とまるで違った霊言や自動書記が出てしまうのである。それでは


間違った情報が出てしまう。


 


とにかく、深くて強い信頼関係が必要である。そうしないと、霊言や自動


書記はミスだらけになってしまう、と。


 


もう一つ、モーゼスが霊魂の生前の身元を問いただしたことについて、


水波一郎氏の監修によるHP「霊をさぐる」では、次のように述べられています。


 


たとえば、霊魂の身元を調べれば、その霊魂が本物か偽者かが分かるのでは


ないか、と考えた方がいらっしゃるようです。こうした方は霊魂から生前の


出生地や名前などを聞き出し、後で実際に調べれば霊魂が本物かどうかが


分かると考えられたようです。


 


ところが、実際に高級な霊魂達に聞いてみると、それはほとんど意味がない


のでした。何しろ、霊魂として長く生きているのですから、地上にいた頃の


事はほとんど覚えていない事の方が多いというのでした。それは、死後、


時間がたった霊魂ほど顕著で、どうかすると自分の名前も思い出せない


霊魂がいるのでした。


 


ある霊魂がこう言われました。「あなたは幼児の頃遊んだ友達の名前を全て


覚えていますか。小学校の住所を覚えていますか。私たちは死後の世界へと


移転しています。霊魂が地上時代の住所など正確に覚えていると思いますか。


大まかなことしか覚えていないものなのです。」と。


 


地上の人間は常に自分の立場から霊魂を見ています。だからこそ、真実が


分からないのでした。たとえば、他界して千年以上たった霊魂は、地上時代


の自分の思想など覚えていません。地上の理念は地上でしか通用せず、環境


の違う霊魂の世界ではまるで通用しないのです。


 


そのため、人間とは全く違う思想で千年以上も生きています。仏教やキリスト教


の哲人だった霊魂でも、その教義を地上の人間ほどには記憶していないもの


なのです。地上時代に宗教家や哲学者として有名だった霊魂に、その方の説いた


宗教理念や思想についての質問をしてすら、正確な答が返らないものなのです。


正確に答えるのはむしろ、長年地上にいて人間に干渉している、あまり高級で


ない霊魂の場合が多いのです、と述べられています。


 


そして、霊魂通信の価値、信憑性についても、次のように記されています。


 


どんな歴史的な通信も時代を経ると色があせます。それは、現代の人達が


科学的な視点で物事を考えるためです。そうなると、霊魂との交信の信憑性


を科学的な視点で語る事は難しく、感性に訴える事になります。しかし、


それは、主観的であり、結局、宗教のように、信じる人は信じ、そうでない


人は信じないという結果に終わります。


 


霊魂との交信には様々なものがあります。より通信内容にミスが少なく、


より正しい通信、あるいは、ミスが多すぎて正しいとは言えないもの、また、


通信して来る霊魂が嘘をついているもの、他には、意識の未熟な霊魂では


あるが、嘘はついていない通信、その逆に、りっぱな霊魂なのに霊媒となる


人間の意識が邪魔をして、結果的に嘘をついたような形になってしまった


通信など、多様な形態の通信があります。


 


これら一つ一つの通信の正邪、正誤を地上の一般人が判断する事はできません。


結局のところ、通信のミスを実感している霊魂達やそれを感じ得る霊媒、


そういった実体験を持つ人でないと、真実を知る事はできません。


 


したがいまして、霊魂からの通信の信憑性はそれぞれの人達がご自身の霊的な


感性で判断するしかないのが実情なのです、ということです。


 


さて、モーゼスの霊訓は、第一級の霊魂通信と評価できるのでしょうか?


 


各人の霊的な感性が試されているのではないかと思います。








 
 
たましいの救い
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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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