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神話-血の供犠-


メキシコの夢 




私の神話への関心の一つに、古代の人々は、実際に神話というものをどのよう

に受け取っていたのだろうか、ということがあります。

 

現代人が神話というものをひも解くとき、どういうふうな形でそれを読むで

しょうか。どうしても、知性というものに頼って、それを比喩的、或は、

象徴的なものとして論理的に再構成して解釈してしまうような気がします。

 

一方、古代の人々は、何の解釈も施すことなくそのまんま受け入れていたの

ではないかという推測はできるのですが、それ以上は分かりませんでした。

 

そんななか、フランスの作家、ル・クレジオの「メキシコの夢」をという古い本

を見つけ、古代ではなくて、近世においても、高度な文明を築きながら、神話と

神々の世界に生きた人たちがおり、その記録があることを知ることができました。

 

それは、16世紀になってスペイン人に滅ぼされた、今のメキシコあたりに

あったテオティワカン、マヤ、トルテカ文明などを継承したとされるアステカ

文明に生きた人々です。

 

征服者であるスペイン人記録者の記述の一端を読んで、我々、現代人とは全く

異質なその生き様、価値観に圧倒されました。彼らの思考、いや、全生活が、

神話とそこに登場する神々の意向に沿うことに向けられていたようなのです。

 

神々は、崇拝の対象でもあり、恐怖の対象でもあったようで、神々はすぐ

そばにおられ、生きることは、存在できることは神々に気に入られることで

あり、そのために、ことあるごとに祭儀を行い、神々をたたえて、幸福を

得ようとしたようです。

 

そこから、スペイン人が悪魔的な行為として嫌悪した、そして、現代人が目を

そむけたくなる残酷な生け贄の供儀や自傷による贖罪行為が生まれてくること

になったようですが、その現象だけを見て思考停止すると、神話的な世界に

生きる人々の本当の心が見えなくなるような気がします。

 

後世、その残虐性ばかりが誇張されたようですが、少なくとも、彼らの行為

は、地上的な私利私欲のためや、恨みや怒りの感情の発露とは異なったもの

だったようなのです。まさに、神に喜んでもらうため、そのことのために

行った行為だったとされています。血は、宇宙の均衡を終わらせぬために、

毎朝、太陽に戻ってきてもらうために、火や食物を与えてもらうために

流されたようなのです。

 

その行為は、現代人の理性では到底許容できませんが、彼らにとって最も

大切なものが水であり、水=血だとすると、その最も大切なものを神に

捧げる行為であったようにも思われます。

 

スペイン人記録者は、敵である彼らに対して、儀式における残虐性、或は

、勇猛な戦士の敵に対する残虐性とはあまりにも不釣り合いなもう一つの

側面、王は神の代理者として誠に謙虚であり、民衆は、徳が高く、神々に

対してとても敬虔であり、国に対して愛着が強く、互いに親切であったし、

仲間に対してはきびしいが人間味があった人々であった、と記しています。

 

その彼らが、合理主義的、物資主義的で、私的な欲望や財産への執着のため

に殺戮と強奪を行うスペイン人の滅ぼされてしまったことは、神から遠ざかる、

或は、神を観念化、抽象化する近、現代社会への変質を象徴する出来事の

ような気がします。

 

農耕民族の場合は、これとは異なる神話世界に生きたのではないかと思われ

ますし、他に資料を読めば、また異なる見解が出てくるかもしれません。

よって、一つの資料だけで結論めいたことを言うのは危険が伴うかもしれ

ません。また、アステカの人々の生き方が神々の意に沿っていたかどうかは、

私にはわかりません。そして、そのあまりにも血の贖罪にこだわる特性は、

決して古代的な感性を代表すものではないとおもわれますが、あらゆるもの、

あらゆる行為が聖なる意味を帯びており、24時間、365日、神と共に

生きる、いや、生きたいという思いは普遍的な意味を有するものではないで

しょうか。

 

彼らが殺戮や疫病だけでなく、征服者によって、神話と神々を、そして、

そこから派生する神聖なる生き方、考え方を奪われたことにより、その高度

な文明と共に滅びてしまったことは重く受け止めたいものだと思います。









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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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