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団塊の世代と宗教嫌い-宗教か、新霊性文化か-


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私自身もその端くれなのですが、昨今、「団塊の世代」があれこれと話題に

上ることが多いようです。

 

団塊の世代とは、第二次世界大戦後の数年間の、いわゆるベビー・ブームの

間に生まれた世代のことですが、その一時期に極端に増えた人口の影響は

大きく、近年では、大量の退職者による年金制度への影響や、技能や人脈の

喪失などが問題視されてきました。

 

そんな中で、最近、高齢者の犯罪の激増や、その自殺率の高さが問題視され、

団塊の世代の未来は決して明るいと言えないようです。

 

ところが、団塊の世代は、昔であれば、老後、そこに光明を、よりどころを

見出してきたであろう宗教というものが嫌いなのです。おそらく、現代の日本

に暮らすすべての世代の中で、いちばん宗教が嫌いなのではないかと言われる

くらい嫌いのようなのです。

 

その理由として考えられることは、一つには、戦前の極端な精神主義への反発

と、経済力が弱かったから戦争に負けたという思い込みからか、経済至上主義

になったことであり、もう一つは、こういう社会のあり方に反発するところ

から、マルクス主義を信奉する人々が多く生まれことによること、つまり、

左右の唯物主義から、宗教は挟み撃ちにされ、宗教嫌いになったという

ことのようです。

 

では、団塊の世代が宗教的なものにまったく関心がないかというと、そうとは

言い切れないところがあります。私自身の経験から言っても、宗教は嫌いなの

に死後の行方といった神秘的な事柄や自己の変革、変容につながると思われた

霊的、宗教的修行法にはなぜか非常に関心があったのです。

 

さて、この宗教嫌い、宗教離れは、団塊の世代に限ったことではなく、全体的

な傾向でもあるということです。

 

以前の紹介した「精神世界のゆくえ」の著者で宗教学者の島薗進氏も、諸統計

を見ると、人々の宗教離れが進んでいるのではないかと述べています。

 

しかし、それも違った角度から見ると、様相は異なっており、若者などの

神秘的なものへの親しみに注目すると、はっきり増加傾向を示していると

いうのです。

 

つまり、「宗教」や「信仰」という言葉に好ましくない響きを感じる人が

増えているが、広い意味での宗教的なもの、霊的なもの、精神的なものへの

関心は少なくとも減少はしておらず、むしろ高まってきているらしいと

いうのです。

 

これは、いったいどういう意味を持つのでしょうか?

 

島薗氏は、宗教団体は好まないが、「霊性」や「精神世界」の探求、育成には

熱心に取り組む、個人主義的な求道者が明らかに増大している。すなわち、

ニューエイジや精神世界といった新霊性運動、新霊性文化の潮流が近年着実

に成長してきており、「宗教離れ」の顕著化と「宗教的」実践の増大や神秘へ

の関心の増大ということが昨今の統計に反映していると解釈できるとして

います。

 

ところで、ニューエイジや精神世界など新霊性運動に関わる人たちの多くは、

このように既存の「宗教」を否定し、宗教を「超えて」いこうという考え方に

立っているようですが、立場によってかなりの相違があるようです。

 

集団や持続的なネットワークを形成しながら、新霊性運動的な実践を長期に

わたって続けてきた人もあれば、もっぱら学問的な著述や評論や電子メディア

による情報発信・情報交換を通して新霊性運動に類する思想の鼓吹の務めて

いる人々もいるということです。

 

前者は、「宗教」に近い位置から「超宗教」の方へ歩んでおり、後者は、

「学問(科学)」に近い位置から「超宗教」の方へ向かっています。

 

そして、「超宗教」がどのようなものであるかについても、かなり相違が

あるのですが、逆に、「宗教」批判に関しては、主張に一致するところが

多いようなのです。

 

その批判点をまとめると次のようになるということです。

 

<a「宗教」は本来、個々人が自由に出会うべき宗教体験、神秘体験をゆがめ、

真理はすでに決定されているとし、啓示や教義の枠をはめ、個々人がそれに

従い、信仰することを強制する。>

 

<b「宗教」は人々に対して、カリスマ的指導者や教団組織のような一元的

権威に依存服従し、自由な思考や実践を放棄するとともに、弱者への差別を

正当化したり、集団外の人々を敵対視するよう促す。>

 

<c「宗教」は人間だけを超越者に接近できるものとして特権化し、他の

自然的存在を価値のないものとして軽んじ、人間による自然の支配や搾取

を正当化し、自然との調和的交流を妨げる。>

 

<d「宗教は人間の悪や苦しみを強調して諦めの姿勢を強い、ありもしない

(あるかどうかわからない)救いなるものを約束して偽りの満足を与えて、

人々を「ほんものの自己」や本来的な生の喜びから遠ざける。>

 

しかし、これらには、当然、「宗教」の側からの反論があるであろうといい、

また、そのことによって、「宗教」批判者の弱点も明らかになるであろうと

して、予想される反論を次のように述べています。

 

<a 宗教体験や神秘体験とされるものは、聖なるものとの無制約的な直接的

接触であるかもしれないが、そうでないかもしれない。宗教体験に類するもの

は、さまざまな手段によって得られる。変成意識状態は薬物や過呼吸によって

も得られるし、病的な幻影に取りつかれている人もいる。そうした「体験」の

「ほんもの」性は何を基準として判定できるのか。>

 

<b 自由な思考や実践は、まったく形のないところから作り出されるものでは

ない。何らかのモデルや規範にしたがうところから、自由な思考や実践に必要な

型が身につけられ、技が磨かれていく。また、他者との創造的な共同行為の能力

は、他者との持続的な関係のなかから養われていく。こうした型や技や能力、

より広くは「生の形」を身につけるには、何らかの権威秩序に服し、持続的な

共同行為に参加し、訓練を受けたり学習したりする必要がある。また、「宗教」

が必ず依存・服従や差別・敵対・暴力を招き寄せるとは限らない。>

 

<c 日本こそアニミズムや「森の思想」のようなエコロジカルな宗教性が

根強く、人類文明の未来を明るく照らし出す国だとよく言われるが、神の創造

になる世界への畏敬の念を鼓吹した中世キリスト教や、その他の東方キリスト

教会のように、歴史宗教が宇宙・大自然の聖なる秩序の観念を支えてきたと

いう側面もあり、諸歴史宗教がどのような意味で自然破壊に加担したといえる

のか、むしろ、自然への畏敬心を養ってきたといえないかどうか検討してみる

必要がある。>

 

dについては、まとまった形では反論は述べられていませんが、それは一言で

いうと、逆に、「悪の不在の誇張」ではないかというものです。かつて、人々

の念頭を離れなかった戦争や災害や疫病や飢饉のような「共同的な悪」に対し

て、競争社会での成功や失敗、あるいは評価や失意の経験における「私事悪」

のほうが切実であると感じる人が増大してくるなかで、快美としての善の要素

に関心を集中させて、被害感やルサンチマンから逃避しようとするものでは

ないかというものです

 

つまり、「悪の不在の誇張」、あるいは「ポジティブな思考」によって、意識

の奥深く潜む「共同悪」の経験と記憶を覆い隠すことができるのか、「病める

魂」の救済というものに深くかかわってきた「宗教」というものを否定できる

のか、ということではないかと思います。

 

私自身の思いとしては、かつては宗教嫌いではありましたが、今は、「宗教」

の側の肩を持ちたいと思います。「救い」から「癒し」へ、ではなくて、

「救い」をこそ求めたいと思っています。

 

といいますのも、以前、紹介しました水波一郎氏の「神体」などの著書に

よりますと、肉体を持たない霊的な存在であった人という生命体が地上

(物質の世界)に降り、肉の身体を所持したところからあらゆる苦悩が

はじまったとされています。

 

そこから、己の生命を維持するため、他の生命体を犠牲にし、また、人間同士

で奪い合い、傷つけ合わなければならない存在になったというのです。

 

そうすると、我々の「悪」、というより、その「カルマ」、あるいは「罪」に

よる苦しみの根源は恐ろしく深いということになります。

 

そうなると、「癒し」に象徴される、単なる心、思いの転換、あるいは一時的

な至高体験などでは解決せず、それを超克するためには、「カルマ」や「罪」

を浄化し、救いを得るための長きににわたる努力、すなわち、霊的トレー

ニングによるたゆまぬ研鑚が必要になると思います。

 

よって、今の宗教のあり方には多くの問題があるにしても、従来より、

宗教が一貫して追求してきた、「悪」や「罪」、「カルマ」という

ものを正面から捉え直し、まず、真実を知る、その根源的な矛盾の

深さを知ることが大切なように思われますが、どうでしょうか?

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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