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道教教団の成立-道教とは何か2-


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道法変遷






道教という教団の成立に際し、その原点となったが、五斗米道(天師道)、

太平道などの教団であったとされています。

 

まず、五斗米道(ごとべいどう)とはどういう教団であったかを見て

いきたいと思います。

 

創始者は、沛(はい)の国(現在の安徽省)から蜀(四川省)に移り住み、

鵠鳴山(こうめいざん)で修行したという張陵という人です。もともと仙道

を志した人のようですが、鵠鳴山を本拠に道書を作り、人々に布教したと

いうことです。歴史書には「道書」とだけ記録されて詳しいことは不明で

あるが、符(おふだ)を用いた呪術であったようです。

 

張陵のもとに多くの入門者が集まり、教団は拡張します。彼は門弟信者に

米や肉などを納めさせたようで、五斗米道という名は、五斗の米を納め

させたところから人々が称した名だということです。

 

五斗米道は、張陵の孫の張魯の頃に天師道と称されるようになったと

言われていますが、いつごろからそうなったかは定かではないようです。

 

なお、この張魯のころになると、教団の状況がかなりわかってくるようで、

人の犯した罪過が病気の原因となると考えられていたようです。そこで

病人は静室(靖室)という自省のための一室で自ら罪を反省し、服罪の

意志と、二度と罪を犯さないという自戒をあらわすために、天地水の

三神に対して、三官手書という誓約書を書いて奉げたということです。

 

また、教団は、鬼卒と呼ばれる信者と、数十人から数百人の鬼卒を束ねる

祭酒、さらにその祭酒を監督する大祭酒、教区の長である治頭、そして

最上位の師君、つまり天師と称される教主が君臨するという、完全なピラ

ミッド型の組織を構成したとされています。

 

また、義舎という無料の接待所を設け、行旅中のものが食料に窮したとき、

そこに備えられた食料を必要なだけ取ることができたという。これは、流民

・難民・旅行者の教化を目的としたものであったが、互助的救済の性格を

もつ一つの善行でもあったようです。

 

このように、五斗米道の思想の中心は、道徳の重視だと言えます。罪過・悪行

が病の原因であるという考えにもとづいて、悪行を戒め善行を賞揚する。

それに三官に対する祈願や呪術が配されて教義づけされた教団だということ

になります。

 

しかし、それだけでは道教とどう関連するのかがわかりません。

 

実は、五斗米道では、祭酒が中心になって信者に「老子」を教えていたという

のです。当時の学習法は書物を暗唱することであったから、おそらく祭酒は、

多くの信者たちが声を出して「老子」を唱和するのを指導していたのでは

なかろうかというのです。

 

なお、この教団では房中術の実践も行われたということです。これは黄赤術

と称され、養生法・仙法として用いられたということであり、道徳性を説く

一方で、非禁欲的な価値観をも有していたことになります。

 

いずれにせよ、「老子」を唱和することは、この教団が単なる病気治療の呪術

的新興教団ではなく、「老子」の教えを実践する、あるいは老子その人を崇拝

するという要件をもった道教的な教団であったことを示すものではないかと

言われています。

 

さて、では太平道とはどういう教団なのでしょうか?

 

張陵と同じ頃か、あるいはもう少し早くに、山東半島の南部沿岸地域の琅琊

(ろうや)というところに干吉(かんきつ)という修行者が現れたという。

干吉は、「太平清領書」という道書を得たが、この書は、陰陽五行説や予言

の学である讖緯(しんい)にもとづく社会変革を説いたものであり、中には

子孫の繁栄を実践する房中術の類も含まれていたということです。

 

「太平清領書」は、現在、「老子」、「荘子」以外に、道教の諸法や儀礼を

記録したものとしては最も古い経典であると考えられているようです。

 

干吉は、この「太平清領書」を中心に教団を設立したが、それが太平道と

なります。太平道の教法は五斗米道のそれとよく似ていて、罪の告白に

よる療病を主としたようです。

 

太平道の経典が「太平経」ですが、その思想の特徴は、主に三つあって、

第一は、「元気」説、第二は、「承負」という観念、第三は、方術の重視だ

とされています。

 

「太平経」では、上古にはすべての人々が清らかで純粋な「元気」と「合一」

して「真の道」にかない、相和して幸福に長寿を保って生きていたという。

しかし、上古-中古-下古と、時間の経過とともに、世界は邪悪で汚濁した

「気」が満ちてくるようになり、「巧偽」「詐欺」におおわれ、さまざまな

「災怪」が現れる衰退の時代になったと説きます。

 

そして、「承負」とは、後の世代の人が前の世代の人の犯した罪を承継し、

前の世代の人が後の世代の人に災禍を負わせて、時代の前後を通じて

つぎつぎと伝えられていくという罪責の連鎖を指すが、今は、「承負の極」

に達している終末の世であると同時に、「太平の気」がまさに到来せんと

しているときであると説きます。

 

では、この終末の世から、いかにして人々は救済され、「太平の気」が

満ちる世界に再生できるのかというと、「金闕後世帝君」(きんけつこう

せいていくん)が降臨するとき、道を信じ善行を積んだ人のみが「種民

(選ばれた人)」として救われると説いたということです。

 

実際に、信者の一人であった張角という人が、山東を中心に広く信者を

糾合し、数十万人に及ぶ一大結社を確立したのち、いわゆる黄巾の乱を

起こすことになります。二十年近くに及ぶ反乱の結果、太平道は鎮圧され、

教団が消滅するなかで、多くの信者は五斗米道に吸収されていったという

ことです。

 

後漢末の社会的混乱、そこからくる不安、あるいは災害や疫病の流行などが、

教団の拡大や反乱の要因となったようですが、もともと、この二つは別々の

宗教団体であり、そこには、「道」の観念による統一性は見られなかったと

いうことです。

 

さて、以後、天師道(五斗米道)は、太平道を吸収したこともあって勢力を

拡大していくようです。ただし、4世紀前後の長江下流域の宗教状況に

ついて、前回、触れた葛洪の「抱朴子」では、はびこっている多くの金儲け

のための教団、人々を惑わすだけの教団を禁止せよとか、太平道の張角の

一派は姦党を結んで反乱を起こしたとか、当時の宗教事情を批判しています

が、天師道については特に触れられていないようです。

 

もっとも、「抱朴子」は外丹の思想を中心に、いかに不老不死を得るかと

いう視点から書かれているため、そういった信仰的な側面についてはあまり

記録されていないのではないかということです。

 

とにかく、葛洪の仙道が、天師道の流れとは異なるものであることは確かな

ようです。

 

さて、4世紀の初めに「抱朴子」が書かれたのち、半世紀が経過したころ、

この外丹を中心に説く経典とはまったく様相が異なる経典が現れたという

ことです。

 

それは、「上清経」の根本経典となる「上清大洞真経」なるものです。東普

時代、南京郊外の聖地として知られる茅山(ぼうざん)という山で修行して

いた許謐(きょひつ)とその息子の翽(かい)が、同じ修行者であった楊義

が神がかりの状態になって神霊の言葉を述べるのを筆記したというものです。

それが事実かどうかは不明ですが、要は、この経典を唱えることで神仙に

なれる、あるいは天神を身体神として存思(瞑想)することによって、不滅

の肉体を持った神仙になることができると述べているようです。

 

彼らは、上清派、あるいは茅山派とも呼ばれたが、その特徴は、仏教の思想

を取り入れながら、誦経(じゅきょう)や存思(瞑想)によって仙道を完成

させようとしたこと、特に気の技法を重視した点にあるようです。

 

もう一つの大きな流れに、「霊宝経」と言われるものがあります。

 

後漢のころから、山林に入って薬草を採取する修行者の間で、山林の悪鬼や

邪鬼に犯されず、狼や虎や蛇にも襲われず、さらに名薬を発見することが

できる効能をもった護符が信仰されていて、霊宝符、あるいは霊宝五符と

呼ばれていたが、その符には、山林に入る吉日を選ぶ方法や、仙薬の調合法

などが書かれた文書が付属しており、それらを総称して「霊宝経(ほうれい

ぎょう」と称したということです。

 

「霊宝経」は、4世紀の初めには存在したようですが、その頃からさかん

になりはじめた仏教の経典の形式や、先に述べた「上清経」などに影響

されて、その後、単なる符の信仰だけでなく、救済や長生の思想を取り

入れた経典が作られていったようです。

 

もともと道教の救済は、修行者が自分自身の不老不死のために求めるもの

であったが、大乗仏教の思想、生あるものすべての救済を願うという考え

の影響で、修行者が他人のために他人の救済を行うという新しい要素が

加わったということになります。

 

ここに来て、他者を救済するものとしての聖職者、つまり道士と、救済

される信者という構図が新しく道教の中に確立することになるという

ことです。

 

さて、天師道に話をもどすと、その後、天師道は乱れていったようです。

教団そのものは存続したが、治(教区)の責任者である大祭酒や祭酒など

の役職の者は、その地位を世襲し、上納金をたくわえ、信者に金品を強要

したという。予言や占いなどの呪術を行う者、黄赤術という房中術を濫用

する者など、内情は惨澹たるものであったということです。

 

そんな中、南北朝時代、北魏に現れたのが、天師道の道士であった冦謙之

(こうけんし)という人物です。

 

彼は、乱れた天師道を正すために、「雲中音誦新科之誡」(うんちゅうおん

じゅしんかのかい)という経典を太上老君(老子の神格)から授けられた

として、(一)道教を清潔で整った教団とする、(二)教祖張陵以来の呪術

を退ける、(三)房中術を廃止する、(四)上納金を廃止する、という

戒律を打ち出します。

 

この教団は、のちの新天師道と言われますが、それは単に乱れた天師道を

もとの状態に戻したのではなく、新たに老君から授けられた戒律によって、

張陵以来の呪法等を偽法として否定し、冦謙之自身が教祖となった、

まったく新しい教団であると考えたほうがよいとされています。

 

この北魏における冦謙之の改革は一代かぎりで消滅したようです。しかし、

その戒律の中には注目すべきものがあり、その一つ、「大いなる道は清虚」

という考えは、「老君の道の教え」と解釈できるもので、この頃から道

の教えとしての「道教」という観念を道士が自覚しはじめたことを示す

ものではないかと言われています。

 

一方、南朝の天師道は、陸修静という人によって仏教に対抗できる形態

に改革されていったということです。

 

天師道には、罪過の告白によって災危を除く教法がありましたが、陸修静

はそれを斎戒の儀礼として位置づけ、罪過を懺悔して祈願の達成を図る

儀礼を構築したようです。

 

つまり、仏教の他人のために徳を積み、他人を救う利他行にもとづき、

信者の寄進により斎場を整え、道士を招いて布施し、道士は信者のために

修法を行って功徳を立て、それを回向する。それによって祈願が達成される

というシステムです。

 

また、陸修静の改革の中で重要なものに経典の整備があるとされています。

まず、仏教の大乗思想にもとづいて霊宝経典を整備し、それに従来の

「上清経」、そして後漢以来の伝統をもつ「三皇経」を道教の教えを伝え

る中心経典と考え、これを「三洞(さんどう)」と名づけました。

 

[上清経]を伝えるものはそれだけ、「三皇経」を伝えるものはそれだけ

と、これまで会派的要素の強かった道教は、ここにおいて「三洞」という

統一概念にまとめられることになります。

 

現在の道教という概念は、この「三洞」という理念を受け継いでおり、道教

の成立をこの時点に置く見方をする研究者が多いということです。

 

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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