FC2ブログ

出口王仁三郎と大本-鎮魂帰神法2-


にほんブログ村
出口王仁三郎2 
(出口王仁三郎)





大本霊学の実践面の中核をなすとされるのが鎮魂帰神法ですが、大本教祖の

一人である出口王仁三郎に本田親徳の鎮魂帰神法その他の霊学が伝えられた

のは、直接には、明治31年4月、本田の弟子の長沢雄楯を通じてであった

ということです。(ただし、神話的には、すでにその一月ほど前、郷里の

高熊山で修行中に、霊界の本田親徳を通じて伝えられたとされる)

 

しかし、王仁三郎は、必ずしも「本田流の」鎮魂帰神を標榜し通したわけ

ではなく、「大本の」鎮魂帰神という場合には、本田説に見られない展開を

示しているようです。そして、王仁三郎を通じて鎮魂帰神に触れた旧大本

幹部の鎮魂帰神理解は、さらにそれを特殊化する方向での展開をしていった

ようです。

 

まず、初期の教団では、混乱気味ではあるが、病気直しとしての「鎮魂」が

あり、それに対して霊的存在の憑依あるいは潜在的憑依の顕在化を導く

ための「鎮魂」=「鎮魂帰神」=「神懸かり」、という大雑把な使い分けが

あったようです。そして、また、帰神法は、人為的な操作による治病力や

霊媒能力の発揮を目的としたものと、開祖出口ナオに起こる非人為的な

不可抗力によるものがあったということです。

 

出口王仁三郎独自の鎮魂帰神説は、大正13年に発刊された「霊界物語」第

48巻の「聖言」においては発表されたようで、その帰神説の骨格は、(一)

守護神における本・正・福の三区分、神人交渉の経路としての直接内流、

間接内流、直接外流、間接外流の四区分、(三)神人交渉の等級としての

帰神・神懸・神憑の三区分、という三つの用語群から成り立っていると

いうものです。

 

王仁三郎は、世界の成り立ちを、霊界と現界(自然界)の対と考えていて、

霊界を「高天原=天界」「中有界=精霊界」「根底の国=地獄界」の三つに

区分するのですが、人間は肉体を宿として精霊界を彷徨する存在として

います。

 

上記の、本・正・副守護神とは、人間の本体である精霊自身の三つの在り方

を表現し、その善悪を表現するものとしています。(本人の精霊の善悪の

状態に応じて感応してくる外来の精霊を表する場合もある)

 

内流・外流については、直接内流は、本体神からの影響力が人間に直に流入

することであり、間接内流とは、直接ではなく、中間の霊的存在を経由する

場合を指すようです。

 

また、外流のうち、直接外流とは、本田親徳の「他感法」に相当するもので、

神主(被憑依者)と審神者が対座して行うなかで、神主に種々の神霊の憑依

が出現する過程を指し、間接外流とは、潜在化した記憶が折にふれて第二

人格のように出てくるものを指すということです。

 

つまり、本田親徳の帰神法の三形態のうちの「神感法」が王仁三郎の「直接

内流」、そして、「他感法」が、「直接外流」に相当するようです。

 

そして、もう一つの三区分、「帰神」は「直接内流」に対応し、「神懸」は

霊界の善なる精霊が人間に憑依することを言い、「神憑」は邪なる霊の憑依

を意味することになるようです。

 

以上、かなり煩雑になりましたが、津城寛文氏の「鎮魂行法論」の中の王仁

三郎の鎮魂帰神に関する「まとめ」を引用すると次のようになります。

 

<人間の本質は精霊界の存在としての精霊である。それが自然界の肉体に

宿って、霊と肉の結合した「一種の機関」をなしている。この機関は背反

する二方面に向かう志向性を持つ。一方は、天界の「影像」に向き合う

志向性であり、他方は自然界の「世間的影像」に向き合う志向性である。

そして、この二つの領域は、それぞれ「内分」「外分」といわれる。内分

は霊界に向き合い、外分は自然界に向き合う。ところが、劣位の霊界で

ある「地獄に向かって内分の開けてゐる」ことがあり、その場合「内分

は外部に向か」っているとされる。>

 

<通常、人は内分が閉じて外分が開けた状態にあり、その場合、「外部より

入り来る諸々の悪と虚偽に依って」、悪霊=副守護神が「形作られ」、心身は

それらによって占領されることになる。この状態が「体主霊従」であると

いう。したがって、志向性を自然界にではなく霊界に向ける、しかも、邪悪

な地獄界にではなく高次の天界へ向ける、そういう回路を作って、内分が

天界に向かって開けた、いわゆる霊主体従の状態としなければならない。

そのための「霊界に通ずる唯一の方法」が「鎮魂帰神の神術」である。>

 

しかし、理論上はそうであっても、その具体的な方法となると、初期に自ら

さかんに他者に施した自己流の病気治しや憑きもの落とし、そして、本田親徳

流の技法の実践であったようです。そして、後期に至るとことさら特殊な技法

を説くことはなくなり、最終的には、「霊界物語」を読めば「魂に力がつき、

そこに内流が降り、判断力となる。こういうことを聖師様は常におっしゃった」

といわれるような、教典崇拝的な指示に収束していくことになったということ

です。

 

なお、「鎮魂」に関しては、帰神=憑霊のための準備のための行法、治病術と

して説かれる以上の独自の鎮魂説の展開はなかったようです。

 

津城氏は、このことから、出口王仁三郎はもっぱら天性のシャーマンとして、

「霊界」の情報を「現界」にもたらし続けたのであり、教団としての大本が

万人に向けて喧伝した「鎮魂帰神」による神霊実在の体験という大向こう相手

の看板は、王仁三郎自身が立てたものではないのではないかと述べています。

 

では、どこからそのような形が出てきたのでしょうか?

 

それを探るために、大本幹部に目を向けてみたいと思います。

 

さて、出口王仁三郎をはじめとする大本の「霊学」の世界観は重層的な構造

をもっていたとしながらも、津城氏は、やはりその特徴は、何よりもそれが、

シャーマニスティックな実体験の機会を広く一般人に提供するとされたところ

にあり、疑似的ながらシャーマン体験が万人に誘導可能であるという主張に

ほかならないと述べています。

 

そして、こういう主張の先鋒に立ったのは、出口王仁三郎ではなく、浅野

和三郎を筆頭に大正半ばに入信した知識層の幹部だったとしています。

「神霊界」の大本通信によると、外来者が浅野による鎮魂を受けたという

記事が頻出し、この時期の鎮魂帰神の指導は、もっぱら浅野が中心になって

いたことがわかるというのです。

 

浅野は鎮魂帰神の原理を「神と吾人の霊魂との感応也」とし、理想的には

人間の本霊である神とその分霊である人間の合一が目指されているが、

そういう理想的の合一が起こるには人間の霊魂が天賦の理想状態でなければ

ならず、そうでない場合―これがほとんどなのだが―人間の霊魂は本霊以外

の低級な霊と感応するという。そして、その感応=憑依が一時的でなく恒常

的であるとき、その憑依の霊を「守護神」と命名するのであるが、大本で行う

鎮魂帰神は、その守護神を呼び起こして、覚醒させ、改心を迫り、向かうべき

方向を示すところにあるとしています。

 

浅野の理想と現実の乖離は大きく、神と人と霊魂との感応ではなく、平均的

な一般人を対象とした「守護神の改心」のみに終始したようです。

 

また、浅野の鎮魂帰神説は、鎮魂と帰神を連続したものととられ、鎮魂は

すべて帰神に解消されてしまうことになったようです。津城氏は、現在、

これが内外一般の鎮魂帰神の理解、「鎮魂帰神の神懸かり」という短絡的

な受け取り方に直結していると述べています。

 

ところで、前回、水波一郎氏の帰神法について、とりわけ、審神者の重要性、

困難性について触れました。よって、ここではもう述べませんが、それに

照らしても、一般人に憑霊現象を起こすことは危険極まりないことでは

ないかと思われます。

 

ただし、出口王仁三郎自身には大本幹部の逸脱の責任はなかったのかどうか

疑問が残りますので、最後に、水波氏の現在は絶版になっている旧著「大霊

力」の記事を取り上げ、出口王仁三郎の誤り、そして、武内宿禰との関わり

を見ておきたいと思います。

 

それによると、武内宿禰は、霊魂となったのちも、成長し、偉大な指導霊と

なったということです。彼は何人かの聖者や神人を指導したが、その中の

一人が出口王仁三郎であり、彼に神伝の法、真の帰神法を伝えようとした

ようなのです。

 

しかし、それは王仁三郎によって曲げられてしまったようであり、その

過ちを王仁三郎の指導霊団は今も悔やんでいるということです。

 

帰神法は単なる神懸かりではないのであるが、王仁三郎はそこを間違った

ようなのです。よって、これを正すために武内宿禰は王仁三郎の指導霊団

に参加したということです。

 

しかし、ときすでに遅く、サイコロは振られてあとであり、坂道をまっしぐら

に転落していったようです。

 

帰神法は、命をかけた技であり、大衆化しえないものであるが、それを行った

王仁三郎の罪は大きい。しかし、この偉大な指導者を罪人にしないために、

その力と業績を生かすために、彼の指導霊団は今も懸命に修正しようとして

いるのだそうです。

 

水波氏は、正しい鎮魂は、大衆のものであり、一人ひとりの霊的進化のために

こそあるが、帰神はそうではなく、天才のための法であると述べています。

 

 








 
 
 

スポンサーサイト



テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

コメント

コメントの投稿

非公開コメント