FC2ブログ

源信と『往生要集』


にほんブログ村 
地獄と極楽 







源信の『往生要集』というと、恐ろしい地獄のイメージ、あるいは凄惨な

地獄絵を想起させ、「地獄物語」という印象さえ受けますが、実は、そう

ではなさそうです。

 

もっとも、源信の真意とはべつに、『往生要集』の巻頭で描かれた六道、

とりわけ地獄の強烈なイメージは、読者の間で独り歩きをはじめ、時代

が下ると、「厭離穢土(おんりえど)」と「欣求浄土(ごんぐじょうど)」

の章の絵解きともいうべき六道絵が、さまざまの勧善懲悪説話を伴って

巷に流布し、「地獄物語」の異称さえ生まれたというのは事実のようです。

 

それでは、源信という人はどのような人で、往生要集はどのような背景で

生まれ、何を意図して執筆されたものであるのかを見ていきたいと思います。

 

源信は、天慶5年(942年)に現在の奈良県葛城市當麻(たいま)あたり

に生まれたとされ、父は卜部正親、母は清原氏と伝えられています。7歳の

ときに父と死別し、9歳で信仰心の篤い母の影響で比叡山延暦寺に入門し、

得度したということです。

 

そして、天延元年(973年)に天台学僧の登竜門である広学竪義(こうがく

りゅうぎ)[僧侶となるための口頭試問]に求科し、翌年には、宮中議論の

場に南都北嶺から選ばれた十人の学生として登場したと言われています。

 

源信の師の良源は、若いころから才気と弁舌、そして修法の験で知られ、

康保3年(966年)、天台座主に就任した人で、広学竪義によって学問

を奨励し、多くの弟子を育成して、天台中興の祖とうたわれますが、その

良源の愛弟子であった源信は、論義の名手、因明(いんみょう)[仏教

論理学]の気鋭の学者として活躍したということです。

 

このように、源信は、『往生要集』があまりにも有名なため、最初から浄土

の業を学んでいたかに思われがちですが、若き日の源信がもっぱら学習し、

得意としていたのは、広学竪義などの論義の場に必要な仏教論理学や天台

止観の学問であったようです。

 

しかし、このような華やかな活躍をする源信に転機が訪れます。天元3年

(980年)9月の延暦寺根本中堂供養法会で錫杖衆(しゃくじょうしゅ)

の頭役をつとめたのを最後に、華やかな法会や論義の場から姿を消して

しまったのです。

 

では、なぜ、華やかな舞台から決別していったのでしょうか?

 

『今昔物語集』の説話によると、「このように華やかに立ち回るのは、

そなたを仏門に入れた本意ではない。真の聖人になってほしい」という

母の諫めに感じ、山籠もりして浄土の業を修することになったとされ

ますが、実際は、そのころ座主良源の下で表面化する円仁系・円珍系

両門徒の派閥抗争への疑問、また、名利を捨てた聖(ひじり)の性空上人

や、空也の念仏活動に刺激されてできた念仏結社の勧学会(かんがくえ)

貴族たちとの交流が、新たな信仰世界への目を開かせたのではないか

と言われています。

 

性空との交流とは、源信が性空という聖(ひじり)を尋ね、世俗を避け

名利に背を向け、日々の糧にもこと欠くような清貧真摯な修道生活に

感銘を受けたというものですが、「地獄と極楽」の著者速水侑氏は、

性空の面目は、深山で苦修練行に励む持教聖(じきょうひじり)(法華

行者)であり、その生き方が山籠もりする源信の決意を促したとしても、

「浄土の業」へ向かった源信の以後の信仰のかかわりでいえば、慶滋

保胤(よししげやすたね)をはじめとする勧学会の文人貴族たちとの交流

を重視しなければならないと述べています。

 

さて、それでは、『往生要集』はどういう動機で、何を目的として書かれた

のでしょうか?

 

源信が『往生要集』を書いた当時、勧学会などの念仏結社をはじめ、貴族

社会で広く行われていた念仏とは、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀の仏名を声に

出して称える称名念仏であり、その系譜は比叡山の不断念仏にさかのぼる

といわれています。

 

それは、高低緩急を異にする五種の旋律を用いる念仏唱和法で、懺悔滅罪

の法として認識されていたが、念仏者自身の浄土往生もさることながら、

当初は、もっぱら怨魂を鎮め浄土へ送る、死霊鎮送の目的で用いられること

が多かったようなのです。

 

つまり、死霊鎮送・祖霊追善の仏教が貴族社会から民間まで広がることに

より、称名念仏が真言陀羅尼と並んで修されたのです。

 

よって、念仏僧といえば例外なく貴族や民衆が畏敬する密教の験者であり、

念仏といえば声に出して阿弥陀仏の名前を称える称名念仏であったことに

なり、9世紀から10世紀の浄土教の最大の特色は、死霊鎮送的な「験者の

念仏」であったといえるようです。

 

こうした験者の念仏の流れに立ちながら、念仏往生の利益を広く説き勧学会

の文人貴族たちに尊崇されたのが、阿弥陀聖空也(あみだひじりくうや)と

いう人です。念仏が死霊鎮送だけではなく、念仏者自身の浄土往生の因と

なることを説く彼の熱烈な念仏活動を支えたのは、大乗菩薩道実践の高い志

であったとされますが、そうした主体的立場とは別に、彼の念仏は当時の人々

の間では死霊鎮送を主とする験者の念仏の次元で受け取られることが多かった

ようなのです。

 

それはともかく、この空也の念仏活動に刺激されて文人貴族の間に念仏結社

結成の機運が起こり、勧学会が発足したのではないかと言われていますが、

源信は、比較的早い時期からこの勧学会の文人貴族たちと交流があったと

考えられています。

 

速水侑氏は、源信が空也や勧学会の念仏をどのように評価をしたかは推測する

他ないとしながらも、「菩薩道実践の高い志にもかかわらず「験者の念仏」の

次元で受けとられかねない空也念仏のあり方に、正統天台教学の立場から

懼(きく)の念を抱いたとしても不思議ではない。勧学会の文人貴族たちと

親交を深め、その真摯な求道の態度に共鳴すればするほど、確たる念仏理論を

欠くために呪術的な真言陀羅尼との区別も定かでないような彼らの称名念仏

の弱点にも気づいたであろう」と述べています。

 

そして、「称名念仏に立脚するかぎり、従来の呪術的死霊鎮送的な「験者の

念仏」の限界を超えることはむずかしい。菩提心を基とする点は空也と同じ

でも称名念仏ではなく、(・・・)凡夫と仏が一体となる観想念仏こそ、往生

業としての念仏のあるべき姿だという源信の確信は、正統天台教学を究めるに

つれて動かしがたいものになり、自己を含め、念仏往生を真摯に模索する同行

者たちの日常念仏のよりどころとなるべき理論の体系化に、みずからの宗教的

使命を自覚したのではあるまいか」としています。

 

もっとも、そこからストレートに『往生要集』の執筆に至ったのではなくて、

その前に、空也的な称名念仏中心の当時の浄土教に対し、あえて天台教学の

立場から「念仏」のあるべき姿を、念仏結社でも実践できる方法で示そう

として、『白毫観法』(びゃくごうかんぽう)[白毫とは、仏の眉間にある

白い毛のこと]を著したということです。

 

つまり、『観無量寿経』真身観の中の白毫観という初心者にとって比較的

容易な観法を示すことによって、当時流行の称名念仏ではない、天台教学の

立場からの「念仏」のあるべき姿、観想念仏を、勧学会の文人貴族など念仏

結社の人々に示そうとしたようです。

 

このように、『白毫観法』によって、結社の念仏に具体的指針を与えた源信が、

自らの内なる欲求と念仏を志す人々の一層の期待に応え、次の段階として白毫

観をさらに発展させて、天台教学の立場からすべての念仏すべての行業を包括し

位置づけようとする壮大な往生理論の体系化に取り組んだ成果が『往生要集』

三巻であるということになるようです。

 

かくして、速水氏は、『往生要集』執筆の動機および背景は、諸説あるものの、

念仏による救いを模索する念仏結社の人々のため、正しい念仏のあり方を解き

明かそうとしたことがもっとも重要であり、『往生要集』とは、その序文で、

「源信が「予がごとき頑魯(がんろ)[かたくなで愚か]なもの」も浄土往生の

ための教義や修行を理解しやすく実践しやすいように、経論の要文を集めた

もの」とあるように、「源信みずからの念仏実践の書であるとともに、念仏を

通じてともに菩提を求め利他を願う、念仏結社の同信同行の人々のための書で

もあった」と述べています。

 

ところで、『往生要集』とはこういったものであったとはいうものの、その

名を有名にしたのは、大文第一の地獄の惨と大文第二の極楽の美の対称的描写

の妙であり、六道絵などの浄土美術の発達に及ぼした影響は大きなものがあった

ことは否めない事実ですので、次回は、源信の『往生要集』が描写する恐ろしい

地獄の様を紹介したいと思います。





スポンサーサイト



テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

コメント

コメントの投稿

非公開コメント