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地獄と『往生要集』


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六道絵 





『往生要集』は、大文(だいもん)第一「厭離穢土」に始まり、大文第二

「欣求浄土」へと続き、大文第十「問答料簡」までの十章で構成されて

いますが、まず、大文第一「厭離穢土」で、人は、いずれの世界(三界)

にあっても、心身の休まることはないのであるから、なにはさておいても、

これを厭い離れようとしなければならないと説きます。

 

三界とは、欲界・色界・無色界の三つの総称で、欲界は欲望にとらわれた

生物が住む境域、色界は、欲望は超越したが、物質的条件(色)にとらわ

れた生物が住む境域、無色界は、欲望も物質的条件も超越し、精神的条件

のみを有する生物が住む境域とされます。

 

仏教では、生物はこれらの境域(三界)を輪廻すると説いていますから、

輪廻のない悟りの世界である浄土に対して、輪廻の世界といえます。

 

そのなかでも欲界を構成する、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人までの五道と

天の一部(六欲天)は、もっとも苦しみの多い欲望の世界であり、『往生

要集』の「厭離穢土」の説明も、もっぱらここに集中しています。

 

欲天に住む天人の五衰(長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆し)

の苦しみを説いたのち、天のなかの欲界以外の色界と無色界の苦しみ、

つまりは、いつかは天を去らねばならない、という苦しみにまで触れて

いますが、具体的に説かれるのは欲界の苦しみ、とりわけ詳細をきわめる

のはやはり地獄道の苦しみにあります。

 

大文第一では、その半分以上が地獄の説明に費やされていますが、「地獄

道」に入る前に、先に、それ以外の世界について簡略に紹介しておきたい

と思います。

 

「餓鬼道」とは、物おしみをし、むさぼり、そねみ、妬んだものが、鬼と

なって墜ちる世界です。六道絵には、水を飲もうとして鬼に打ちすえられ

たり、あるいは、墓地で追善の供物をうかがい、はては蛾をとらえて飢え

をしのいだり、自分の脳みそやわが子まで食おうとする餓鬼の様子、身体

はやせ細り、腹だけが異常に膨らんだ異様な姿が描かれています。

 

「畜生道」は、死後、禽類・獣類・虫類に生まれ変わり、無量の苦しみを

受けるという世界です。いずれも弱肉強食の争いを続け、また、人間に

使役され、殺され、忌避される存在であるが、人の世にあったとき、愚痴

で恥知らずで、在家信者の施しを受けるばかりで償いをしなかったものが

この報いを受けるとされます。

 

「阿修羅道」は、帝釈天と戦う絶え間のない闘争の世界とされるが、『往生

要集』ではそのことには詳しく触れず、それは雷鳴におののき、諸天の侵害

に遭い、身体を傷つけられる苦界とされます。

 

「人道」は、われわれが執着してやまないこの世界ですが、源信は、それ

には不浄と苦と無常の三つの様相があるとしています。

 

まず、不浄については、人の身体は骨・筋・脈・関節・肉・毛孔などの多く

の断片からなり、これらがかろうじてつながり、身体を形成しているにすぎ

ない。・・・命終の後は一日二日ないし七日のうちにその身は膨張し、色は

青黒く変わり、臭くただれ、皮がむけて、膿血が流れ出て、・・・これらを

覆い隠すのは極薄の皮膚ばかりだが、その下の本質に思い至れば、秀でた

眉も、美しい眼も、白き歯も、赤い唇といえども、一塊の糞に脂粉を施した

ものと知り得るが、それを知れば愛欲への執着も薄れてしまうはずだと説き

ます。

 

次に、苦については、人間、この世に生を受け、外気に触れるとともに

激しい苦悩を受ける。成長して後も、内には、全身さまざまの病を宿し、

外には、罪科によって捕えられ責められたり、寒さ熱さ、飢え渇き、

あるいは自然の暴威など、さまざまな苦悩が迫りさいなむ。このように

五蘊(ごうん)[色・受・想・行・識の五つの要素]によって構成される

人間にとって、行住座臥のすべてが苦しみであるといいます。

 

そして、無常について、人の一生とは屠殺場に引かれる牛が一歩一歩死地

に近づくようなものであり、その速さは日が出て没するよりも、月の満ち

欠けよりも速い。また、これを避けることは誰にもできなから、一刻も

早くここから逃れようと思うべきであるとしています。

 

よって、人は人間世界の不浄・苦・無常の三つの真実の相を悟り、心から

この世界を厭い、離れようとしなければならないと説きます。

 

さて、それでは、核心となる地獄道とはどういうところでしょうか?

 

『往生要集』における地獄は、過酷さや悲惨さが幾何級数的に増幅される

構造で八段階に分類されます。一に等活、二に黒縄、三に衆合、四に叫喚、

五に大叫喚、六に焦熱、七に大焦熱、八に無間(阿鼻地獄ともいう)と

なります。

 

等活地獄は、われわれが住む世界の下、一千由宇(ゆじゅん)[古代インド

の里程単位]にあり、縦横一万由旬の広さがあるという。等活地獄の下は

黒縄地獄でその下は衆合地獄、以下同じ縦横の地獄が順に下方にあり無間

地獄に至るが、無間地獄は縦横八万由旬と桁違いに広大になります。

 

さて、等活地獄は、地獄の中ではもっとも苦痛の程度の低いところとされ

ます。しかし、そこでは各々が敵対し、害心を抱き、互いに鉄の爪をもって

つかみ合い、引き裂き、血肉が尽きて骨のみになるまで続けたり、獄卒が

鉄の杖や棒をもって全身を粉々に打ち砕いたり、あるいは、鋭利な刀で肉を

細かに切り刻んだりする。そして、命絶えると涼風が吹き死者はよみがえる。

あるいは空中で声があり、「等しく活(い)きかえれ」という声に応じて

蘇生する。生き返ると再び争いを始め、何度も生死を繰り返すのです。

 

そして、等活地獄の四つの門の外には十六の別処、つまり等活に付属した

十六の小地獄があるとされます。屎泥処、刀輪処、瓮熱処、多苦処、闇冥処、

不喜処、極苦処などが説明され、文字通り、屎尿にまみれ、火に焼かれ、

刃物で切り刻まれるなど、読む人に究極の不快と苦痛を感じさせるような

叙述が延々と繰り返されます。また、その苦痛を味わう期間も気が遠く

なるほど長いのです。

 

では、人は何ゆえにこの等活地獄に落ちるのでしょうか?

 

それは殺生の罪によるとされます。生前に鳥獣虫魚を殺し、焼き、煮て

食したもの、殺人を犯した者が落ちるというのです。いわゆる因果応報

の理というものです。

 

さらに、こういった叙述が各地獄ごとに、これでもか、これでもか、と

いうふうに繰り返されるのですが、苦痛の程度は、地獄を降下するほどに

激増し、そこに拘留される年数も天文学的に長期化します。たとえば、

一つ下方の地獄は前の地獄に比べ苦痛の程度は十倍とされるから、さらに

その下の叫喚・大叫喚を超えて無間(阿鼻)地獄に堕ちれば十の八乗倍と

なり、まさに阿鼻叫喚の地獄図が展開する世界となります。そして、拘留

年数は無間地獄では一中劫とされ、もはや数字で表せる時間ではなくなり

ます。

 

かくして、念仏により救われないかぎり、人はこのような地獄や餓鬼道

から天道に至る六道の世界を前世の報いによりいつ果てるともなく輪廻

するとされるのです。

 

ところで、この『往生要集』の地獄が仏教における代表的な地獄観となる

のですが、ここで、これとは全く異なった、霊魂学を提唱する水波一郎氏

が主張する「地獄」の実態を紹介しておきたいと思います。

 

死後の世界を認める考えのなかでも、地獄というものを認めないものも

ありますが、水波氏は、地獄のような世界は存在するといいます。

 

もっとも、『往生要集』でいう地獄とは大きく異なります。最近の水波氏の

著書『霊魂に聞く』などによると、地獄は存在するが神や仏が作ったもの

ではなく、死後、幽質の世界(死後の世界)に入った人間たちが作ったの

だそうです。人間がまだ原始だったころ、死後の世界には地獄はなかった

ようなのです。

 

しかし、人が地上(物質界)での絶えざる戦いのなかで、殺し、殺される

ときに激しい怨念を発生させ、その念によって傷ついた幽体(死後、使用

する霊的身体)で死後の世界へ入ることにより、そこに、恐ろしい下層の

世界ができあがったが、また、そこでさらに戦い続け、時間の経過とともに

地獄と呼ぶにふさわしい世界を作りあげてしまったということです。

 

また、『往生要集』などが何度も言うように、人を殺したから、悪いこと

をしたから地獄のような世界へ堕ちるのではないとしています。人が死後、

行く世界は、その人が死後使用する霊的身体である幽体の健全度、成長度に

よって決まるというのです。もちろん、閻魔大王が裁くのでもないのです。

 

しかし、だからといって安心はできないのです。困ったことに、現代は、

無神論が優勢で多くの人が神仏を信じないため、高い幽気が降りにくく、

逆に、低い幽気が蔓延しているようなのです。そして、過度の競争社会

であるため、お互いの念により幽体が傷だらけになっていて、死後、

普通の人が死んでも、辛く苦しい地獄のような世界に入る可能性が高い

のだそうです。

 

また、死後の世界は念(想念)が力を持つ世界だということですから、

相争う階層では、念の力によって、地獄絵のように、人を八つ裂きに

したり、切り刻むということが起こり得るのです。

 

そうだとしたら、往生要集で描かれた残虐な行為や恐ろしい光景は、

荒唐無稽な空想の産物だといって笑ってはいられなくなるのであり、

源信が説くのとは異なる新たな対策(霊的修行法)が必要になります。

 

水波氏は、そのために神伝の法があると主張しています。

 

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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