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「捨聖 一遍」


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捨聖一遍



「衣食足って礼節を知る」という言葉があります。

 

その意味は、ご承知のとおり、人は生活に余裕ができて、初めて、心にも

余裕ができ、礼儀や節度をわきまえられるようになる、そして、理想という

ものを実現しようとする気持ちにもなる、ということですが、一遍という

人は、鎌倉時代、すべてを、衣食住、そして家族をも捨てて、ひたすら

念仏を唱え、全国をめぐって人にも勧め、捨聖(すてひじり)と呼ばれた

と伝えられています。

 

一遍は、念仏こそ人生でもっとも大切なことであり、その他衣食住のすべて

の欲望は捨てよ、すべてを捨て、心から阿弥陀仏を頼らなければ救われない

と説いたということです。

 

一遍が活躍したのは鎌倉時代の半ばから後半にかけてですが、この時代は

仏教の改革者が多く出現した時代です。仏教は日本に六世紀に入ってきたと

言われていますが、その仏教は天皇や貴族のもので、庶民の救済にはなら

なかったが、時代が奈良・平安から鎌倉へと移り、武士をはじめとする庶民

が社会的に進出するようになって、仏教の世界においても、彼らの希望に

答えるような改革が進められました。

 

このような時代、仏教の改革者として現れたのが、法然・親鸞、日蓮、道元

たちでしたが、これらの高名な僧たちの活躍から少し遅れて世に現れたのが

一遍だということです。

 

さて、一遍は、捨聖と呼ばれたということですが、「聖(ひじり)」とは何な

のでしょうか?

 

聖とは、一般的には徳の高い人、あるいは僧のことをいうようですが、一方

で、組織的な教団を離れた民間の僧をさすということです。

 

奈良時代や平安時代においては、「僧尼令」によって、僧尼は寺院に定住する

ように定められており、僧尼が一般に俗人のもとを訪れて仏教の教えを説いた

となれば、その俗人もろとも厳罰に処せられたようです。

 

なぜなら、僧尼の果たす役割は、一般の俗人の救済にあるのではなく、天皇

や貴族をひたすら護ることであったからです。

 

しかし、それでも、網の目をくぐるように、民間に布教する僧、つまり、

聖はあとを絶たなかったようであり、その代表的な僧が、奈良時代の行基

であり、平安時代の空也だといわれています。

 

聖は既成の教団組織に縛られず自由に生きていて、森の中や険しい山の上で

激しい修行を積んで呪力を身につけ、戒律を厳しく守り、貧しい者や病気の

者の救済にも努力したということです。

 

とりわけ、平安時代中期以降になると、朝廷の統制力が著しくゆるんでくる

なかで、民間に流れる僧の数は次第に多くなっていき、比叡山や奈良の仏教

教団の腐敗ぶりが噂されるようになると、聖たちこそ尊敬すべき宗教者で

あるとの見方がいっそう広まったようです。

 

こうして、各地を巡り歩く聖たちが多く見られるようになったのですが、

彼らは阿弥陀仏信仰を持って念仏に生きるという者ばかりではなく、釈迦、

薬師、大日、観音、虚空蔵、また法華経など、さまざまな信仰を持って

いたということです。

 

そのうち、阿弥陀仏信仰と法華経信仰とが平安・鎌倉時代を通じての日本

の二大仏教信仰ということができるようです。

 

そのなかで、「法華の持経者」と呼ばれる人たちがいたということですが、

彼らは、法華経の教えを身をもって体得しようとする者たちのことで、

法華経だけを手に山林に籠って修行したということです。

 

その持経者の一人、行空という人の行動が、衣食住すべてを捨てて游行する

という原型をなすものと考えられています。

 

行空はもとは天台宗の僧であったが、住む家を持つことはもちろん、一ヵ所

に二晩とまることはなかったといい、世間の人から「一宿の聖」と言われて

いたということです。法華経を念仏に置き換えれば、まさに一遍の行動と

そっくりであり、一遍に活動の原型とされる所以です。

 

ところで、一遍が領地を捨て、家屋敷を他人に与えて布教の旅に出たのは

三十三歳のときだとされていますが、まず、それまでの一遍の人生を振り

返っておきたいと思います。

 

一遍は、伊予(愛媛県)の豪族河野氏の出身といわれています。一時は

有力な豪族であったが、承久の変で上皇側についたために没落したとされ、

一遍は、十一、二歳のころに、出家者であった父親の命で出家しています。

 

ところが、父親が亡くなると、帰国し、いったん俗人としての生活に戻って

いきます。俗生活に戻り、妻子をもうけ、十年近くの日々を過ごします。

 

しかし、そのまま人生を終えることができなかったようで、転機が訪れます。

再出家を決意するのです。

 

再出家の原因については、伝記では、子供たちのまわす輪鼓(りゅうご)

[こまの一種]が地に落ちてまわり終わったのを見て、人はみな輪鼓のように、

自分のはからいによって、生まれては死に、また生まれ変わっては死んで

いく、つまり、輪廻転生していると悟り、ここで再び出家して、六道輪廻

から逃れ、生活の悪循環を一挙に断ち切ろうと決心し、極楽往生への願い

が生まれたとされますが、もう一つ、現実的な要因として、親類間のいざ

こざがもとで、一遍が殺されそうになった事件が起きて、これがもとで、

今までの生活を突然やめ、家族を捨てて再び出家し、仏道一筋の生活に入る

決心をしたという側面もあるようです。

 

かくして、再出家した一遍の布教の旅が始まりますが、それから16年間、

51歳で亡くなるまで遊行(ゆぎょう)の旅は続けられたということです。

最初の数年は、たった一人の孤独な遊行であり、残りは、時衆を引き連れて

の集団の遊行であったと言われています。

 

なお、時衆とは、一遍が弟子のことをそう呼んだということですが、なぜ、

そのように呼んだかは、一遍自身は何も語っていないようです。たたし、

「時衆」とは、一日の六時(一日中)に念仏を唱える僧を呼ぶ名であった

ということで、そのままの意味であろうということです。

 

さて、一遍の信仰の特色は、このようなすべてを捨てての遊行のほか、その

念仏観にもあるようです。

 

悟りをひらいた仏と、我執の心をつのらせる自己とを対立する立場におき、

その自己が仏の力によって往生する、というのが従来の浄土教の考え方です

が、一遍は、これは浄土教の入口だとして、この状態にとどまっていては

いけないと言います。仏と我とが名号を媒体として一つになる、つまり、

仏も南無阿弥陀仏、我も南無阿弥陀仏になりきって、もはやそこには仏も

我もなく南無阿弥陀仏の中に包まれ、ただ南無阿弥陀仏が存在するだけで

あると言う。そして、仏もなく我もなく、念仏が念仏を申す、これが真の

他力であると説くのです。これが唯一念仏、あるいは独一念仏とも言われる

ものです。

 

一遍の名の起こりとなった彼の「一遍の念仏」とは、この自力他力を絶した

唯一念仏の意味なのだそうです。

 

そのほかの特色として、「賦算」と「踊り念仏」というものがあります。

賦算といういのは、「南無阿弥陀仏」と印字された10センチたらずの紙の

札を布教のために配ることであり、踊り念仏とは、すべてを捨てて、ひた

すら念仏を唱えていると、しだいに興奮して体が動き出し、踊り出すように

なるというもので、最初は、意図して始められたのではなく、時衆を中心に

自然発生的に始まったようですが、極めて有効な布教方法として位置づけ

られていったようです。

 

かくして、踊り念仏と時衆は後発のものであり、必ずしも本質的なこととは

言えず、一遍にとって本質的なことは全国を游行して、賦算、つまり、南無

阿弥陀仏の名号札を配ることによって布教すること(鎌倉時代の人たちは

文字に対して信仰に近い感情を持っていたという)であったようですが、

その理想世界実現のためにはきわめて有効であったため、游行・賦算と

ともに踊り念仏と時衆は一遍の宗教にとって必要不可欠なものになった

ということです。

 

このように、一遍は、すべてを捨てて、布教の旅を続けたのち、51歳で

亡くなったということですが、彼のなかでは、それまで重視された臨終正念

の意識が変化していったようです。臨終正念とは、臨終のときのみが救済の

瞬間であるという考えですが、一遍は、南無阿弥陀仏と唱えて、自分の心

を捨てきったときが救いのとき、すなわち、臨終正念だというのです。

 

ところで、一遍は、物を捨て、身を捨て、さらに心を捨てたとき、念仏を唱える

ことだけが残ったと言っています。つまり、何もかも思い切って捨ててみたら、

実は、ほんとうに大切なものは捨てていなかったということがわかってきた

というのです。

 

食べること、生きることが精一杯であった一遍の時代にすべてを捨てるという

ことは、すなわち、絶えず死と隣り合わせであることを意味したと思われます

が、現代人が捨てるというとき、それは、多くは、さらに欲しいもの、新しい

ものが手に入ることを前提としていたり、溢れるばかりになって邪魔なもの、

無駄なものを廃棄することを意味します。

 

この落差の大きさを思うとき、一遍の信仰に対する思いの深さに心打たれると

ともに、欲望の虜になり、完全に物に呪縛されてしまった現代人の哀れさ

を感じざるを得ません。







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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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