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親鸞と教信-我は是れ賀古の教信沙弥の定なり-


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親鸞 親鸞




吉本隆明氏は、「ある親鸞」の中で、親鸞にはいくつかの貌があるが、

当代無二の思想家として、浄土教義の流れに身をただし思想を述べている

晩年の親鸞と、越後や関東の野人たちに、偶像や派閥の破壊を生々しい

言葉で説いている親鸞とは、異質のように思えてくる、と述べています。

 

つまり、晩年、法然の専修念仏義を展開させるために打ち込んでいる親鸞

の姿と、越後配流(流刑)以後、はじめて、じかに接触した無学文盲の野人

たちに、むきになってラジカルな見解を説き歩いている親鸞の姿の間には、

深淵が横たわっているというのです。

 

さて、親鸞は、法然とともに、専修念仏を布教したかどで、後鳥羽院の怒り

を買って、「僧の儀を改め、姓名を賜うて、遠流に処」される、つまり、

流刑に処せられ、還俗させられるのですが、自分を「僧に非ず俗に非ず」

と考え、「禿(とく)」の字を姓とするようになったということです。

ただし、ここではまだ<非僧非俗>は、後鳥羽院らに押しつけられた境涯

の命名にすぎず、何ら思想的な自覚はなかったようです。

 

しかし、越後配流の生活は、この<非僧非俗>に思想的な意味を与える

ことを、親鸞に強いたのだと吉本氏は言います。

 

なぜなら、法然のもとで、自力の計らいからもっとも遠い存在だと思って

いた、<衆生>は、越後国で接触した衆生に比べたら、まだ空想の<衆生>

にすぎないことを知った。<衆生>とは、単に<僧>たるものが<知>の

放棄によって近づくていの生やさしい存在ではなかった。また、<僧>たる

ものが、安直に専修念仏を勧めれば帰依させうる存在でもなかったからだ

というのです。

 

親鸞は、越後配流中に、後の恵信尼と同棲し、そして、息子の信蓮をもうけ

たといわれますが、名主や村落民たちに念仏を説きまわりながら、彼らの

経済的な援助で妻子と生活を営んだようです。

 

妻帯して子を交えて営んだ生活は、形からして<非僧>だったばかりでは

なく、このあたりで易行道によって<衆生>を教化するという理念を放棄

したと思われると吉本氏は述べています。

 

彼自身が<衆生>そのものになりきれないことは自明であったが、また、

<衆生>は、専修念仏によって釣り上げるべき与しやすい存在でもなかった。

親鸞にできたのは、ただ還相に下降する目をもって<衆生>のあいだに入り

込んでゆくことであったと吉本氏は言うのです。

 

親鸞の師の法然にとって<衆生>とは、なまじ自尊心や知識に装われて

いないために、かえって他力の信に入りやすい存在であったし、また、

信に凝るあまり無知文盲の身でもって、えてして他宗の有識の徒を誹り

(そしり)などして、逸脱しやすい存在とも解されたが、親鸞がこの時期に

体得したところでは、<衆生>はことのほか重い強固な存在で、なまじの

<知>や<信>によってどうにかなるようなちゃちなものではなかった。

よって、教化、啓蒙のおこがましさを、親鸞は骨身に徹して思想化する

しかなかったのだとしています。

 

たしかに、法然は、念仏者は一代の仏法の学匠であっても、文盲の愚かな

身になって、尼入道などの人々と同じようにして、智者のような振る舞い

をせず、ただ、一向に念仏すべきだと述べていますが、他では、経文の

一句ものぞいたことのない身で、真言・止観を破り、余の仏・菩薩を誹謗

してはならないと戒めています。

 

つまり、一方で<僧>に<知>の放棄を求め、一方で念仏帰依者である

<俗>に仏法理念を破るなというスタンスをとっているということです。

 

しかし、少なくとも越後配流以後の親鸞は、もっと徹底した位相に身を

移しているのではないかということのです。

 

吉本氏は、「越後の在俗生活は、親鸞に<僧>であるという思い上がりが、

じつは<俗>と通底している所以を識らせた。そうだとすれば<僧>と

して<俗>を易行道によって救い上げようとするのは、自己矛盾に

すぎない。<衆生>にたいする<教化>、<救済>、<同化>といった

やくざな概念は徹底的に放棄しなければならない。なぜなら、こういう

概念は、自分の観念の上昇過程からしか生まれてこないからだ。」

 

「観念の上昇過程は、それ自体なんら知的でも思想的でもない。ただ

知識が欲望する<自然>過程にしかすぎないから、ほんとうは<他者>

の根源にかかわることができない。往相、方便の世界である。」

 

「<他者>とのかかわりで<教化>、<救済>、<同化>のような概念を

放棄して、なお且つ<他者>そのものではありえない存在の仕方を根拠

づけるものは、ただ<非僧>がそのまま<俗>ではなく<非俗>そのもの

であるという道以外にはありえない。ここではじめて親鸞は、法然の思想

から離脱したのである」と述べています。

 

そして、このときの親鸞の胸中に去来したのは法然の姿ではなく、「賀古

の教信沙弥」の姿であっただろうことは疑われない。なぜなら、親鸞が

「我は是れ賀古の教信沙弥の定なり」と云いつづけていたと覚如の

「改邪鈔」に記されているからであるとしています。

 

さて、教信については、前回、ざっと紹介しましたが、教信と当時の

他の遁世の聖たち、すなわち捨聖と比べると著しい特徴があるという

ことです。

 

教信が、興福寺の碩学だったという伝が正しいとして、<知>と名跡を

放棄し一介の念仏者となって草庵にこもったというところまでは当時の

遁世の流行と変わっていないとしても、当時の一般的な捨て聖たちは、

別所に集落を構え、ときどき巷へやってきては人々に経文をすすめ、

工銭や食糧の喜捨を受けるのが生活様式であったのに対し、教信は、

髪を剃った僧体をとらず、妻帯し、農家の日雇い下人として田畑を耕し

たり、旅人の荷物運びを手伝ったりして、報酬を得ては妻子との生活の

資としたということです。

 

このことは、教信の思想に<衆生>への<教化>という概念がなく、また

<僧>という意識を放棄していたことを意味しているのではないか。そして、

教信が、本尊を飾らず経文も読まなかったのは、宗教を否定した宗教者と

いう境地にあったとも言えるのではないか。

 

そして、教信は、変わり種の後世者、変わった捨て聖の域を超えていて、

その生きざまは、当時の僧侶概念から考えて思想的な根拠なしには不可能

な領域に達しているはずだとしています。

 

かくして、吉本氏は、「賀古の教信が規範として蘇ったときの親鸞に姿は、

きわめてラジカルであった。親鸞は僧体を拒否し、善人づらをして勧進

して歩く「人師」の姿をも拒否する。・・・牛盗人とよばれてもかまわ

ないが、異形の風体や思想をもつ者(当時流行の遁世者たちのこと)の

ように振る舞うなというとき、<同化>や<教化>や<布教>の概念は、

まったく否定されている。ただ還相の眼をもった一介の念仏者が、その

ままの姿で<衆生>のなかに潜り込んで、かれらの内心に火をつけて

歩く像だけがみえてくる。こういう親鸞は、現在のこされているどんな

<御影>(肖像画)とも似ていない。また、徹底的に僧形を拒否している

親鸞をたれも描いていない」と述べています。

 

ところで、以前にも述べたことですが、吉本隆明氏は、みずからを一貫

して「無神論者」と規定してきたということです。しかし、このような

親鸞への深い愛着と執拗なこだわりとはいったいなぜなのだろうかと

いう疑問がさらに深まります。

 

吉本氏は、彼の思想形成の重要な段階で歎異抄や福音書などの宗教書

よって大きな影響を与えられてきたといわれますが、彼の意識の奥深い

ところに強い宗教性があり、時代をさかのぼれば、思想家ではなく、

卓越した宗教者であったかもしれません。

 

ともかく、絶対他力をいい、骨の髄まで<信>の人であった親鸞に

とっては、後世、己が思想家として扱われ、評価されるということは

夢にも考えらなかったのではないでしょうか。

 

現代とは、<信>よりも、<愛>よりも、<知>というものがすべて

に優先する不幸な時代なのかもしれません。









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