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隠されたイエス-トマスによる福音書-


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トマスによる福音書 トマスによる福音書2





エジプトのナイル川中流域にあるナグ・ハマディという小さな村で、

1945年に、羊の皮でカバーされた13冊のコプト語(古代末期の

エジプト語)パピルス古写本(コーデックス)が発見されましたが、

これが、いわゆる「ナグ・ハマディ文書」といわれるものです。

 

この「ナグ・ハマディ文書」の大半は、キリスト教最初で最大の「異端」

といわれるグノーシス主義に関わるものであり、その中の一つが、今回、

取り上げるトマス福音書です。

 

トマス福音書は、グノーシス主義の視点で著された福音書ではありますが、

教会教父(古代キリスト教の正統を担った著作家たち)がいうような偽

福音書、つまり、マニ教徒によって偽作された福音書であるとするのは

誤った見方であると、『トマスによる福音書』の著者、荒井献氏は

述べています。

 

もっとも、この福音書が実際に使徒トマスによって著されたものではない

という意味で「偽作」であることは事実であるとしても、それを言うの

であれば、「正典」のマタイ福音書は使徒マタイに、ヨハネ福音書は

使徒ヨハネに、それぞれ直接由来するのかどうかという疑いがあるの

と同じであるとしています。

 

ともかく、トマス福音書に収録されているイエス語録の最終的編集が

グノーシス主義者であったことは否定できないとしても、イエス語録の

すべてがグノーシス主義の視点から虚構されたことを意味するものでは

ないといいます。

 

そうではなく、トマス福音書には、「ナグ・ハマディ文書」発見以前に、

19世紀末から20世紀初頭にかけて、エジプト中部のオクシリンコス

で発見されたギリシャ語のいわゆる「オクシリンコス・パピルス」の

一部と並行するイエスの言葉、つまり、直接、グノーシス主義に由来

しない<ユダヤ人キリスト教>出自と思われるイエスの言葉が見出

されるばかりではなく、正典福音書に並行する、さらには共観福音書に

前提されているイエスの言葉伝承に、本来の形としてはより近い語録

さえ存在すると荒井氏は述べています。

 

ところで、グノーシス主義とは何かということですが、以前、グノーシス

主義について取り上げたことがありますので、詳しくは触れませんが、

それは、端的にいうと、人間の「現在性」―身体この世宇宙宇宙の

支配者たち宇宙の形成者(デミウルゴス)―に対する拒否的な姿勢が

前提とされていて、人間の本来的自己と、宇宙を(否定的に)超えた究極

的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという「認識(グノーシス)」

を救済とみなす宗教思想ということです。

 

もっとも、このような反宇宙的な、否定的な現在性への姿勢だけでは、未だ

グノーシス主義そのものは成り立たず、この姿勢によって存在の根元的解釈

をし、自己を表現しなければならないが、それは現実世界を否定的に超えた

場に自己を同一化した表現にならざるをえず、必然的に神話論的象徴言語に

よらざるをえなくなるということになります。

 

また、「グノーシス派」とは、一般的には、キリスト教の「分派」のことで

あるから、キリスト教の「正統」思想がまずあって、それを奉ずる正統的

教会により「異端」として排斥された思想に固執するセクトのことである、

よって、グノーシス主義からその基盤となったキリスト教の要素を取り去れ

ば無に帰するとされますが、荒井氏は、グノーシス主義そのものは、元来、

キリスト教とは無関係に成立した独自の宗教思想であり、それが事後的に

キリスト教に自己を適合して、「キリスト教グノーシス主義」を形成した

ことは認められなければならないと荒井氏は述べています。

 

さて、グノーシス主義の解釈原理が反宇宙的・本来的自己の認識にある

とすれば、これは必然的に、至高者と人間の間にあって人間に救いを

仲介する、救済手段としてのこの世の絶対的権威というものを承認

しないことになります。

 

実際、グノーシス派は、救済機関としての教会制度、これを排他的に

担う聖職位階制、これによって正当性を保証される特定の使徒伝承を、

これらが客観的絶対性を主張する限りにおいて、相対化していった

ようです。

 

ただし、このような教会の業を頭から拒否したのではなく、否定した

のは、これらが自己を歴史的・客観的に絶対化した限りにおいてで

あったということです。

 

だからこそ、グノーシス派は、正統的教会が「正典」化しつつあった聖書

諸文書をも自らの聖文書として採用することができたし、正統的教会が

その名によって伝承の正統性を確保しようとしたペテロをはじめとする

十二使徒、あるいはパウロの名によって、自らの福音書や黙示録を著す

ことができたということです。

 

しかし、元来、グノーシス主義の側からすれば、啓示は直接的、無媒介的

なものであり、また、万人に対して無差別に顕示されるものではなく、

特定の宗教的達人、知的エリートに秘かに伝授されるものであるため、

ペテロやパウロは啓示の受け手、伝え手以上の機能を持たないのです。

 

しかも、グノーシス派の場合、人間の救われるべき本質は<女性>として

表現されていて、ここから、当時、正統的教会から「娼婦」とみなされて

いたマグダラのマリアにペテロを批判的に超える最高の地位が与えられて、

イエスから直接彼女に、しかも秘かに啓示された内容を伝える福音書や

彼女の名による福音書(『マリア福音書』)が著されることになります。

 

また、啓示の超越性と直接性を確保するため、グノーシス派の福音書は、

しばしば、その内容が、地上のイエスによってではなく、復活のキリスト

によって啓示されたという文学形式によって伝えられているということです。

 

そして、その際、注目すべきは、その啓示がイエスと弟子たち、あるいは

マグダラのマリアとの対話によって伝授されているということですが、

このトマスの福音書の場合は、対話形式さえも後景に退き、全体として

イエスの語録集になっています。

 

いずれにしても、グノーシス派の場合、啓示内容の伝え手は、彼(または

彼女)が啓示者によって、その資質が認められ、選ばれた者であるならば、

十二使徒やパウロに限定されはせず、原則的には、無制限に拡大され得た

のであり、秘教の伝え手は、グノーシス諸派の創設者でもあり得たという

ことです。

 

かくして、グノーシス派によれば、正統的教会は「至高者」の存在を知らず

に、創造神(デミウルゴス)に対する信仰に、しかも現実には、信仰に

基づく行為を救済の条件としており、しかも、地上の「見ゆる教会」を

救済機関とみなしている。人間は、救済の条件としての倫理的行為や、

救済機関としての教会、さらには、これらの一切が起因する創造神に

対する信仰そのものから、本来的自己の出自である至高者の認識

(グノーシス)によって解放されなければならないと説くのです。

 

さて、では、グノーシス主義の聖書解釈は、トマス福音書では、具体的

にどのようになされているのかということになりますが、それは、次回に

取り上げてみたいと思います。






 


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ジャンル : 心と身体

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