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グノーシス主義による聖書解釈-「トマスによる福音書」2-


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ナグ・ハマディ写本 
(ナグ・ハマディ写本)




グノーシス主義による聖書解釈とは、具体的にはどのようなものなのかと

いうことですが、まず、その旧約聖書解釈から見ていきたいと思います。

 

一時代前までは、グノーシス派は旧約聖書を創造神や律法と共に拒否したと

いう説が一般的であったようですが、現在は、とりわけナグ・ハマディ写本

発見以来は、もちろん、その解釈原理によって適当な修正を加えた上で、

旧約聖書を受容した、あるいは、少なくとも、彼らの解釈の対象としたと

見るのが定説であるようです。

 

実際に、グノーシス派の創造神話は、多くの場合、創世記1~3章の釈義に

よって展開されていて、デミウルゴス(造物主)は、アルコーン(低位の神、

偽の神)と共に、自分のかたちに人を、男と女とにつくった、それも、この

場合、「人」は単数であるから、人は元来両性具有であったと解釈されます。

さらに、女(イブ)が男(アダム)から離れたとき、死が生じたとされ、

彼女が再び入り込み、彼が彼女を受け入れれば死はないであろう。このような

男女の原初的統合をもたらすために、イエスは来臨したのであるとされます。

 

旧約「律法」に対するグノーシス派の姿勢については、グノーシス派が律法を

造物主(デミウルゴス)に由来すると見るかぎり、これに対しては必然的に

否定的、少なくとも消極的な評価を下すことになるようですが、完全に否定

する立場がある一方、プトレマイオスなどのように、救いの条件としての

律法は否定するが、救われた状態をこの世で持続していく手段としての律法

の効用を認める立場もあり、その意味でグノーシス主義を直ちに無律法主義

と同定する正統的教会の偏見から自由になるべきだとする主張があります。

 

そして、このような「律法」に対するグノーシス派の両義的立場は、グノー

シス派の「預言者」観、あるいは、預言者の解釈にも妥当するようです。

 

グノーシス主義各派において、預言者は多くの場合、造物主(ヤルダバオト)

から霊威を受けた存在として批判の対象とされていますが、「最後の預言者」

洗礼者ヨハネに中間的位置づけが与えられている場合もあるようです。

 

このように、グノーシス派の聖書解釈には、各派、各文書によって、かなり

の多様性がある、そして、その際、グノーシス派がその解釈原理を直接的に、

しかも、ラディカルに前景に押し出すところでは、創造神、律法、預言者

などが否定の対象となるけれども、他方、これらは、グノーシス的「解釈」

によって「原理」の中にとり込まれることもできた、ということだろうと

荒井献氏は述べています。

 

さて、では、トマス福音書では何が語られているのでしょうか。

 

新井氏は、トマス福音書は全体として一貫した構成はない、一定の解釈原理

に沿ってではあるが、無作為にイエスの言葉を収録した「語録集」であると

いう立場をとりたいとしています。

 

なぜなら、トマスは一人のグノーシス主義者として、イエスの言葉の歴史的

文脈には無関心であり、彼はむしろ、一つ一つの言葉の隠された意味の解釈

を我々に求め、それに聞く耳ある者が聞くことを、すなわち、それの理解と

組織化を我々自身に委ねているというのです。

 

それゆえに、トマスのみならずグノーシス主義出自の「福音」は、総じて

正典四福音書のごとくイエスの言葉をその歴史上の業の中に編み込まず、

語録集、あるいは弟子たちとの対話集という独自な文学類型の中で告知

されているのだとしています。

 

そこで、トマス福音書における語録の配列順序をいったん解体し、それを

現代に生きる我々に理解しやすいテーマ別に組み直すと次のようになる

ようです。

 

まず、イエスが「肉において」現れ、「この世」の只中にたったとき、彼は

人間が、肉体、性、富、家柄、年嵩(としかさ)のみならず、宗教的伝統

と敬虔、さらには権力者と神に酔いしれているのを見出したとして、神を

も相対化しています。

 

つまり、<人々がイエスに金(貨)を示し、そして彼に言った、「カイザル

の人々が私たちから貢を要求します」。彼が彼らに言った、「カイザルのもの

はカイザルに、神のものは神に返しなさい。そして、私のものは私に返しな

さい」(100)>とあるが、この場合の「私のもの」とは、上界(プレー

ローマ界)に属する人間の本来的「自己」、「カイザルのもの」とは地界に属

する事柄、そして「神のもの」とは中間界(天界)に属する事柄をそれぞれ

意味し、神とは、「天地」「この世」の創造神(デミウルゴス)、つまり、

正統的教会の「神」ということになります。

 

また、トマス福音書のイエスは、共観福音書における「神の国」「天国」

という表現を「父の国」「御国」に言いかえる傾向があるだけでなく、

「創造神」を示唆する「義人ヤコブ」「盗賊」「強い人」などの象徴語は、

いずれも負の意味で用いられていることが多いようです。

 

なお、「御国」とは、客観的に可視的な特定の領域なのではなく、人間が

「自己」の本質を知るときに、おのずから知られる、人間の只中に内在し、

同時のその外に外在する一つの支配状態をいうようです。

 

さて、旧約以来の「神」を相対化するのですから、その「神」に依拠する

キリスト教の伝統と敬虔も、すなわち、「イスラエルの預言者たち」や

「アダム」でさえ、イエスによる批判の対象となります。

 

そして、これに呼応して、ユダヤ教の慣習はもとよりこと、ユダヤ-キリ

スト教の宗教的敬虔、つまり、断食、祈り、施し、食事規定は否定され、

割礼、断食、安息日のみが精神化されたうえで、新しく意義づけられる

のです。

 

また、ユダヤ社会においても、成立しつつある正統的教会においても、とり

わけ年長者(「長老」)が重要な地位を占めていたが、トマス福音書のイエス

は、「老人」と「小さな子供」の位置を逆転し、「子供」と同様に、ユダヤ

-キリスト教社会では一般的に差別の対象とされていた「女」も、当福音書

では逆に高く評価されているのです。

 

そして、「この世」の本質であるもの、「この世」に属するすべてのものを

捨て、本来の「自己」を求めよというのですが、それでは、その人間の本質

とは何なのでしょうか? 人間は元来どこから来てどこへ行くのでしょうか?

 

人間は、元来「光」からきた「光の子ら」とされます。この場合の「光」とは

「父」(至高者)のことを指すため、人間はこの意味で「父の子ら」といえ

ます。しかし、他方、光が生じた、それは自立して、人間の像において現れ

出た、といわれるように、「光」とはイエス自身のことでもあろうという

ことです。

 

イエスは、「光」として、覚知者にとっては、そこから出てそこに帰る

「すべて」のものとされ、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」

にあってその本質を一つにするとされます。

 

また、イエス(と父)のいる「場所」は、「光」であると共に、「命」で

あるといわれます。そして、イエスは端的に「生ける者の子」、「生きて

いる者」と呼ばれ、他方、「自己自身を見出す者」つまり覚知者は「生ける

者(イエス)から生きる者」、「生ける者」と呼ばれるが、このことから、

父と子と子らは、「生者」として「命」において、その本質を一つにする

ことが明らかだということです。

 

このように、皇帝や神をも相対化し、およそ「この世」的なるものの一切

を「屍」と喝破するイエスは、人間界の中では、まさに孤独な「異邦人」

であるが、孤立しつつも「生ける」イエスは、「隠された言葉」、「奥義」

の中に「自己」を啓示し続けるのであり、「隠されているもの」が啓示

されるのは、人間がイエスの「口から飲む」とき、それによって自らが

「イエス」になるときであるとされます。

 

つまり、イエスと共に「父」の本質―「光」と「命」に象徴される「同じ

もの」に与り、自らこの原初的「自己」の統合を回復するときなのだ

といいます。

 

トマス福音書のキーワードの一つに「単独者」という表現があるとされます。

一つは、血縁的同族関係から己の身を断ち切って「一人で立つ」者、つまり、

自立者を意味しますが、もう一つ、原初的「自己」の統合を達成する者と

いう、より深い意味があるようです。

 

原初的「自己」の統合とはどういうことなのかというと、これを理解する

ためには、まず、両性具有の「原人」神話を前提としなければなりませんが、

トマス福音書では、<イエスは言った、「アダムは大いなる力と大いなる

富から成った。そして(それにもかかわらず)、彼はあなたがたにふさわしく

ならなかった。なぜなら、もし彼がふさわしくなったら、[彼は]死を[味わう

ことが]なかったであろうから」>とあるところから、アダムがなぜ死を

味わうことになったのかは明らかにされていないものの、両性具有の「原人」

神話が前提とされていると考えられます。

 

そうすると、原初的「自己」の統合とは、男と女の「二つ」に分裂している

現実の性別を、原初的「男-女」の対へと「一つ」にする、原初的統合を

回復し、「単独者」となることを意味するということになります。

 

かくして、二重の意味での「単独者」、「はじめに立つ者」は、「生ける」

イエスと共に、はじめから「死ぬことはない」とされます。つまり、トマス

福音書において「死」とは、肉体的死ではなく、むしろ、原初的関係の

断絶ということになり、この関係を回復し、「はじめに立つ者」に「死ぬ

ことはない」というのです。

 

ところで、このイエスの語録集としてのトマス福音書において、明らかに

されたのはどういうことでしょうか? 失われたイエスの貴重な言葉が

そこにはあったでしょうか?

 

荒井氏は、グノーシス派の秘教主義的性格にもとづく固有の聖書解釈と

その原理について詳しく述べてはいますが、共観福音書やその元資料より

もさらに貴重なイエスの言葉の発見というものは特にないようです。

 

イエスの真の言葉、真の思いはこのようなものではないのではないかという

疑問と、それをこそ知りたいという思いは残こされたままになります。

 

 

  

 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
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