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ユダとは誰か 1 -マルコ福音書の中のユダ-


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ユダとは誰か 




イスカリオテのユダとは、周知のとおり、イエスを裏切ったと言われる

人物ですが、それを歴史的な事実と断定するに際しては、いくつかの

疑問点があるようです。

 

なぜなら、共観福音書と言われる四つの福音書においてさえ、ユダの

「裏切り」(一般的に「裏切る」と訳されるが、もとは「引き渡す」と

いう意味であった)の度合いが異なるだけでなく、それに対するイエス

の対応にもかなりの差異が認められるからです。

 

そして、近年、公表された『ユダの福音書』においては、ユダはイエスの

十二弟子たちを超える存在であり、ユダはむしろイエスの使命を果たす

ために彼をユダヤ当局に引き渡したとさえいうのです。

 

このような違いをどのように理解したらいいのか、何が真実なのか、を

荒井献氏の著書「ユダとは誰か」に依拠しながら考えてみたいと思います。

 

なお、「イスカリオテのユダ」という名称の由来についてですが、「イス

カリオテ」とは、諸説あるものの、「カリオテ(ユダヤの一地名)の人」

という説が一番広く認められているようであり、「ユダ」とは、旧約聖書

で、族長ヤコブの第四子にあたる人物名ということで固有名詞を超えて、

由緒ある名前として、その後、部族名や国名、地域名などに転用され、

さらに、イエスの時代には、個人名として多く用いられたということです。

 

さて、それでは、四つの福音書では、ユダについて、どのように表現され

ているのかを見ていきたいと思います。

 

まず、マルコ福音書ですが、この書は、紀元前70年代に、それまで言い

伝えられてきたイエスの言行に関する伝承を編纂されたもので、最初の

福音書であるとされています。

 

この書において、ユダの位置づけに関して重要なのは、イエスが自ら選んだ

12人の弟子たち総体に対して、他の福音書のイエスと比較して極めて批判

的である点と、にもかかわらず、最終的にイエスを見捨てた弟子たちに対し

て、ガリラヤにおいて復活のイエスに再会することを約束している点で

あるといわれています。

 

さて、マルコ福音書において最初にユダに言及されるのは、イエスによる

弟子たち「12人の選び」の場面(マルコ三 13-19)においてであり、

イエスが立てた12人のリストの最後に、イスカリオテのユダに言及

されており、「このユダはまた、イエスを引き渡したのでもある」と

いわれています。

 

この「引き渡す」は「裏切る」と同義と見なすことができるようですが、

マルコ福音書では、ユダが、マタイ福音書、とりわけルカ福音書における

ように、積極的にイエスを祭司長たちに売り渡してはいないのです。

 

「十二人の選びの場面」では、「このユダはまた、イエスを引き渡したの

でもある」と書かれているのが、ルカ福音書では、「この彼は、売り渡す

者になった」と書き換えられているのです。

 

マルコ福音書では、ユダの裏切りについて次のように記されています。

 

『さて、十二人の一人イスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ出

かけて行った。彼らにイエスを引き渡すためである。彼らはこれを聞いて

喜び、彼らに銀貨を与えることを約束した。そして彼は、どのようにしたら

イエスを首尾よく引き渡せるか、その機会をねらっていた』(マルコ14

10-11

 

 

ここでは、先に祭司長や律法学者たちによるイエスの殺害計画があって、

彼らの計画にユダが乗ったというのが物語の筋になっています。そして、

ここでは、マタイやルカと異なって、ユダがイエスを「引き渡すため」

の動機が明らかにされていないです。

 

マタイにおけるように、ユダのほうがまず祭司長たちに報酬を要求した

のでもなければ、ユダの裏切り行為は、ルカのようにユダに入り込んだ

「サタン」の業でもないのです。また、マタイのように、祭司長たちが

ユダに「銀貨三十枚を支払った」その時より、イエスを引き渡す機会を

狙っていたのでもなければ、ルカにおけるように、ユダは「彼に銀貨を

与えることで一致した」祭司長たちの協議に同意して、イエスを引き渡す

機会を狙っていたのでもないのです。

 

そして、マルコでは「過越しの食事」において、ある弟子の裏切りに

ついて、次のような予告をします。

 

『さて夕方になると、彼は十二人と一緒にやって来る。そして彼らが

(食事の席で)横になって食べている時、イエスは言った、「アーメン、

私はあなたたちに言う、あなたたちの一人で、私と一緒に食事をして

いる者が、私を引き渡すだろう」。彼らは悲しみ始め、一人ずつ彼に

言い(始めた)、「まさか、この私では」。そこで彼は彼らに言った、

「十二人の一人で、私と共に鉢の中に(自分の食物を手で)浸す者

(がそれだ)。というのも、たしかに<人の子>は彼について書いて

あるとおり、去って行く。しかし禍いだ、<人の子>を引き渡すその

人は。その人にとっては、生まれて来なかった方がましだったろうに」』

(マルコ14 17-21

 

荒井氏は、この中の「まさか、この私はでは」という弟子たちの自問に

ついて、マルコは、弟子たちの一人ひとりにイエスを「引き渡す」可能性

があることを読者に示唆しているのではないか、あるいは、この弟子たち

の自問に、マルコ福音書の読者の自問が重ねられているのかもしれない、

と述べています。

 

なぜなら、マルコ福音書は、イエス物語を「同時代史」的に書かれていて、

福音書の弟子たちは、マルコ時代の教会員、とりわけ、その指導者たち

と重ねられているからであるとしています。

 

マタイでは、この弟子たちの自問を残しているが、その後で、予告されて

いる者がユダであることを示唆しているが、ルカに至っては、この文言は

完全に削除されています。

 

ところで、「たしかに<人の子>は彼について書いてあるとおり、去って

行く」とありますが、これはどういう意味でしょうか?

 

荒井氏は、ここで突然イエスは自らを<人の子>と呼ぶことについて、

これはマルコ福音書において、イエスが自らの受難復活を予告する際に

用いる自己呼称であり、「<人の子>は・・・去って行く」とは、受難

復活への意味をたどるためにここを去って行く、というほどの意味で

あろうとしています。

 

「彼について書いてあるとおり」とは、聖書に書いてあるとおりを意味

するが、これを示唆する(旧約)聖書の箇所は見出されず、受難のイエス

の先駆者として登場するエリヤの運命を示唆しているのではないかと

しています。

 

また、イエスは、エルサレムへ行く途上で、自分が引き渡され、殺され

ること、「そして三日後に、彼は起き上がらされる」と予告する(マルコ

10 33-34)のですが、「起き上がらされる」とは「復活させられる」の

意味で、「神によって」を含意していて、イエスの受難と復活の道行は

神の定めであると言おうとしているということです。

 

しかし、このように「引き渡される」行為の主体が神で、ユダはその

人間的手段に過ぎないとすると、では、マルコ福音書14 21の後半の、

「禍いだ」という呪詛、そして、「生まれて来なかった方がましだった

ろうに」(マルコ14 21)という言葉をどう理解したらいいのかと

いうことになります。

 

荒井氏は、最愛の弟子に裏切られたイエスの、彼に対する率直な恨みと、

裏切りもまた神の定めのうちにあるという神学的解釈との緊張関係が

ここに露呈されているのであろうか。あるいは、側近の弟子に裏切られ

て死に引き渡されようとしているイエスの苦しみの吐露によって、その

イエスを「起き上がらせた」神の恵みの深さを際立たせようとしているのか、

それとも、このイエスの言葉はユダに対する呪詛ではなく、弟子のひとり

のために主人が漏らした哀れみの叫びととるべきかもしれない、と述べて

います。

 

そして、このあと、有名な最後の晩餐の場面に移るのですが、そこではユダ

はもう同席していないと想定されることが多い。しかし、ヨハネ福音書のみ

が、ユダがイエスからパン切れを受け取ると、「ただちに(食事の席から)

出て行った」と記しているのであり、他の三つの福音書においてはユダの

不在を示唆する記事は皆無であるとしています。

 

さらに、食事のあと、イエスの一同はオリーブの山へ行き、ここでイエスは

弟子たちに「あなたたちは、全員が躓くことになるだろう」と「躓きの

予告」をしますが、ここで「躓き」を予告される「全員」とは、ユダを

含む12人の弟子たちすべてであろうとしています。

 

なぜなら、マルコは、先に触れたように、イエスを裏切る可能性をユダ

のみならず、他のすべての弟子たちにも見ていたと思われるからです。

実際、のちに、イエスの「捕縛」に際し、弟子たちは彼を見捨てて

全員が逃げて行きます。

 

しかし、マルコによれば、イエスは自らを見捨てて逃げ去った弟子たち

全員に対して、ガリラヤでの再会を約束していて、彼らの罪は究極的に

赦されていたとされます。

 

このことは、弟子たちに対するイエスの「躓きの予告」の場にユダも

いたと思われるだけに、「イエスを引き渡す者」と言われるユダにも

妥当すると思われると荒井氏は述べています。

 

この「躓きの予告」のあと、イエスは弟子たちと共にゲッセマネの園へ

行き、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴って最後の祈りを行います。

イエスは神に対して必死に祈っているにもかかわらず、彼らは眠り

こけていた。そして、最後にイエスは言う、「なお眠っているのか、

また休んでいるのか。事は決した。時は来た。見よ、<人の子>は

罪人らの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を引き渡す者が

近づいた」(マルコ14 41-42

 

このイエスの言葉から推定して、ゲッセマネの園にはユダは不在で

あったとされます。彼はイエスの捕縛の先導をするために、園から

離れ、ユダヤ最高法院へと密に赴いたのであろうとされます。

 

イエスの「捕縛」は次のようなかたちで実現されます。

 

『そしてすぐに、彼がまだ語っているうちに、十二人の一人のユダが

現れる。・・・彼を引き渡す者は、(こう)言いながら彼らに目印を

与えていた、「俺が接吻する奴があいつだ。それを捕らえて、間違い

なく引っ立てて行け」。そしてやってきて、すぐにイエスに近寄って

言う、「ラビ」。そこで彼らは彼に手をかけ、彼を捕らえた。』(マルコ

14 43-46

 

なお、このあと、「私は毎日、神殿(境内)で教えながらお前たちのもと

にいたが、お前たちは私を捕らえはしなかった。しかし(これも、)聖書

が満たされるためだ」と言われていますが、これはこのようなかたちで

イエスが逮捕され、「引き渡される」のも神の定め、その必然であること

を示唆しているようです。

 

このあと、ユダはどう振る舞ったのかについては、「すると(弟子たち)

全員が、彼を見捨てて逃げて行った」(マルコ14 50)と記されて

いるものの、一切報告されていません。マルコ福音書では、「縊死」も

「転落死」もしていないのです。ユダもまた他の弟子たち「全員」と

共に、ガリラヤにおける復活のイエスとの約束に与っていることを示唆

しているだけだということです。

 

もっとも、荒井氏によると、これは暗示されているだけで、イエスが復活

後自らを顕した相手は、「十二人」であったとする古い伝承があるのみで

あり、ユダはイエスを裏切った後、どのような仕方で、またどのような

時点で弟子集団に復帰したか、またどのような死にざまをしたかについて

定かでないと述べています。

 

さて、マルコにおけるユダは、このように描かれていますが、マタイや

ルカ、そしてヨハネの福音書では、どのように表現されているのでしょうか?

次回はそれを見てみたいと思います。









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