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マタイ・ルカ・ヨハネ福音書のユダ-ユダとは誰か2-


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ユダ1 

 



前回、マルコ福音書におけるユダについて見てきましたが、今回は、

マタイ、ルカ、ヨハネの各福音書においてユダがどのような扱いを

されているかを見て行きたいと思います。

 

まず、マタイ福音書ですが、この福音書は、紀元前80年代に、一ユダヤ

人キリスト者によって、二つの資料、つまり、マルコ福音書そのものと、

ルカ福音書と共通するイエスの語録集を用い、それに独自の資料を補い

ながら編纂したとされています。

 

よって、ユダヤ人キリスト者の視座から異邦人宣教を視野に入れて福音書を

編んだマタイは、イエスを裏切ったユダヤ人ユダに対して、自らに裏切る

可能性を留保するマルコよりも厳しい対応がなされています。

 

たとえば、「ユダの裏切り」の記事では、マルコでは、祭司長たちのところ

へ来たユダに対して、「彼に銀(貨)を与えることを約束した」と記され

ているだけであるが、マタイでは、祭司長たちのところへ行ったユダが

彼らに、「(あなたたちは)私に何を与えてくれるのか」と積極的に問い

かけ、その代価にイエスを彼らに「引き渡そうと思うのだ」と駆け引きを

し、その結果、祭司長たちはユダに「銀貨30枚を支払った」(マタイ26

 14-15)と記されています。

 

この、銀貨30枚とは、不当な安値で売り渡すことを表しています。

 

そして、「ある弟子の裏切りを予告」する場面(マタイ26 20-25)では、

マルコでは、イエスに対する弟子たち一人ひとりの自問、「まさか、この

私では」とあるのが、「主よ、まさか、この私ではないでしょうね」と

なっていて、「主」に対する弟子たちの信頼と、「私ではない」という

弟子たちの自信がマルコにおけるよりも強く出されているのではないか

といわれています。

 

荒井献氏は、このことから、弟子たち全員にイエスを裏切る可能性を留保

する度合いは、マタイではより少なくなっているのではないかと述べて

います。

 

また、26章25節にマルコにはない「そこで、彼を引き渡す者、ユダが

答えて言った、「ラビよ、まさか、この私ではないでしょうね」。イエスは

言う、「それはあなたの言ったことだ」。」という一文が加筆されています。

 

ここで、弟子たちがイエスに、「主よ」と呼びかけているのに対して、ここ

では、ユダは「ラビよ」と呼びかけているが、「ラビ」とはユダヤ教の律法

学者のことであり、イエスが「あなたたちは律法学者のように「ラビ」と

呼ばれるな」と教えているのに対し、わざわざそのような呼称を使用した

ということです。

 

さて、ユダに関わるかぎり、この後の場面描写、つまり、過越しの食事

(最後の晩餐)の場面、「躓き予告」の場面も、そして「ゲッセマネの祈り」

の場面も、マルコの場合と大差がないのですが、イエスの「捕縛」の場面に

移行すると、少し違いが出てきます。

 

ほとんど同じなのですが、捕縛するイエスが誰だか示すために、接吻をする

とき、マタイでは「ラビ、喜びあれ」と言っています。ここには、マルコ

以上にユダの偽善性が色濃く描かれているとされます。

 

また、マタイでは、イエスはユダの引き渡しに自ら進んで応じ、あくまで

平和を貫いたとされますが、これもマルコとは異なるところだということ

です。

 

ところで、マタイに固有のユダに関する重要な記事は、ユダの最期、

「縊死」物語にあります。

 

『その後、イエスを引き渡した者ユダは、イエスが(死刑を)宣告された

と知り、後悔して銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して言った、

「俺は罪なき血を引き渡して、罪を犯した」。しかし、彼らは言った、

「そんなことはわれわれの知ったことか。お前が勝手に始末せよ」。

そこで彼は、銀貨を神殿に投げ入れ、立ち去った。そして行って、

首をくくった。』(マタイ27 3-5

 

荒井氏は、このようなユダの「縊死」は、一般的には否定的な評価がなさ

れているが、マタイが直接批判の対象にしているのは、イエスを不当に低く

値踏みして銀貨30枚をユダに支払い、「血の代価」によって「血の地所」

を贖った祭司長たちであって、それは直接的にはユダ自身ではないので

あり、彼は「後悔して」銀貨30枚を彼らに返し、罪を告白して、自らを

縊死によって裁いたのだと述べています。

 

ただし、マタイはこのようなユダ像を描くことによって彼の名誉を回復し

ようとしたとまでは言えないとしています。

 

さて、次に、ルカ福音書におけるユダを見て行きたいと思います。

 

ルカ福音書の思想的特徴は、イエスの福音を宣教する「使徒たち」が理想化

され、そして、イエスの十字架上の死は、殉教者の理想像として描かれて

いるとされます。このように、「使徒たち」が理想化されるのに対して、

ユダは、逆に、イエスを裏切ったとして、十二使徒から除外され、「悪魔」化

されることになります。

 

つまり、マルコ、マタイでは、ユダは「引き渡す者」とされていたが、

「売り渡す者」あるいは「裏切る者」と、より厳しい表現になっており、

また、「ところで、サタンは、イスカリオトと言われ、十二人の数に入って

いたユダの中にすでに入り込んでいた」(ルカ22 3)とされます。

 

なお、この「ユダの中にサタンが入った」という見解は、ヨハネ福音書にも

あるので、ルカの創作ではなく、こういった伝承があったと見られています。

 

また、ルカが強調する神の「救済史」観に基づき、すべてはイエスの神の

予知と計画にうちにあるとされるが、そのことによってイエスを死に

「引き渡した」ユダの罪責が軽減されるわけではないようです。「その人に

とっては、生まれて来なかった方がましだったろう」というマルコ、マタイ

にあるイエスの言葉は削除されていますが、その行為は、ここでも、むしろ、

「禍いだ」と呪詛の対象とされているようです。

 

そのほか、ルカ福音書では、マルコにある弟子全員に対する「躓きの予告」

は削除され、ペテロのイエス否認予告だけが残されています。また、弟子

たちは、全員、イエスが逮捕されたのちに、イエスを見捨てて逃亡は

していません。

 

かくして、ルカによれば、イエスの弟子たちは、少なくとも師を見捨てて

はおらず、イエスにその十字架死に至るまで従って行ったのであり、

それに対して、サタンの器となり、弟子たちの十二の数から脱落した

ユダは、「闇の支配」を導入し、それにイエスを売り渡す者になったと

いうことです。

 

なお、ユダの死についてルカは、福音書の中では何も述べていませんが、

使徒行伝において、どのような状況においてなのかは明言していない

ものの、「転落死」したとしています。

 

最後に、ヨハネ福音書のユダに触れておきたいと思います。

 

ヨハネ福音書は、先に紹介した三福音書が用いている伝承資料と重なる

資料を若干採用しているが、全体としては独自の資料に依り、三福音書

には直接依拠することなしに編纂されているとされます。

 

そして、この福音書は、その思想的傾向が、女性の高評価、反ユダヤ主義、

二元論的思考にあったため、二世紀以降、初期カトリシズムが成立する

過程で、正統的教会よりも、むしろグノーシス派などの「異端」的分派の

中で広く読まれたようです。

 

よって、これらのことがユダとの関連においても反映されており、ユダは、

盗人にして悪魔という最も厳しい扱いを受けていて、イエスは「光」、弟子

たちは「光の子ら」であるのに対し、ユダは「滅びの子」、「悪魔」、「夜」

の支配者であるとされています。

 

ルカにおいても、ユダは「悪魔」化されていましたが、ヨハネにおいては、

「彼がこう言ったのは貧しい人たちのことを心がけていたからではなく、

盗人であり、金庫番でありながら、その中身をくすねていたからである」

(ヨハネ12 6)とさらに金銭欲の権化とされます。

 

また、「過越しの食事」(最後の晩餐)の場面で、ユダはイエスからパン

切れを受け取ると、「ただちに(食事の席から)出て行った」(ヨハネ

13 30)という記事がありますが、他の三福音書では、ユダの不在を

示唆する記事はないのです。つまり、ヨハネ福音書以外では、ユダも他の

弟子たちと共に「正餐」の与ったとしていると考えられるのです。

 

なお、ヨハネ福音書では、イエスの逮捕以降のユダについて、さらに、

ユダの死に関しては一切言及されていません。ただし、イエスが復活の

後に顕現する相手は、最初にマグダラのマリヤ、それから十一人の弟子

たちであって、イスカリオテのユダはもちろん含まれていませんから、

イエスの死の前にユダがこの世を去ったことを暗黙の前提としているで

あろうとされています。

 

このように、ユダはヨハネ福音書の中で最も強く「悪魔」化されていると

同時に、イエスの「引き渡し」は、神の定めに従う、イエスの意思の結果

であることもまた同時に最も強調されているのです。

 

以上、共観福音書におけるユダの扱いを見てきましたが、その度合いは

違ってもユダがとった行動は許されざる「裏切り」であるとされている

点は共通していたと思われます。

 

しかし、「ユダの福音書」では、ユダは十二弟子たちを超える存在であり、

使命を果たすためにイエスを引き渡したのだというのです。

 

次回は、この「ユダの福音書」に触れてみたと思います。










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