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『ユダ福音書』の謎-ユダとは誰か3-



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ユダの福音書 



1970年代のある時期に、2世紀のギリシャ語本文からコプト語(古代

エジプト語)に翻訳された『ユダ福音書』なるものがエジプト中部で発見

されました。

 

『ユダの福音書』というものの存在は、リヨンの司教エイレナイオスが

180年頃に著わした『異端反駁』によって示されていましたが、それが

証明されたわけです。

 

そこには、冒頭、次のように記されています。

 

「これは秘められた啓示の言葉、過越の祭りの三日間、八日のあいだ、

イエスがイスカリオテのユダと交した言葉である。イエスが地上に現れた

とき、イエスは人々の救いのために奇跡と大いなる不思議とを行った。

それは、ある者が義の道を歩んでいるのに、ある者は罪の道を歩んで

いたからである。それで十二人の弟子たちが呼び寄せられ、そしてこの

世を超えた秘儀について、終わりの日に起こることについてイエスは

弟子たちに語りはじめた。」

 

ここでいう義の道を歩む者とは、ユダのことであり、他の11人の弟子の

ことではないのです。反対で11人の弟子たちのほうが罪の道を歩んで

いるというのです。

 

つまり、正統派教会において、金銭欲により教会の「裏切り者」「密告者」

の元型にまで貶められていたユダ像は、『ユダの福音書』において百八十度

逆転され、イエスの「福音」の伝道者として高く評価されています。

 

この逆転は、イエスに対するユダの告白において、「あなたが誰か、どこ

から来たのか、私は知っています。あなたは不死の王国バルベーローから

やって来ました。私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値

がありません」とあるように、キリスト教史上最初・最大の異端と言われる

グノーシス派の「グノーシス」の視点によっていると見られています。

 

グノーシス派、とりわけ、セツ派にとっては、イエスは本来的自己の元型で、

彼は人間の身体を含む天地万物を造った「創造神」を超える、不可視の至高

神によって遣わされ、その本質は至高神の女性的属性の人格的存在である

「バルベーロー」に由来するとされます。

 

よって、そのことを知っているユダは、イエスの十二人の弟子たちを否定的

に超える「十三番目の神霊(ダイモーン)」とされるのです。

 

イエスはユダに「お前はすべての弟子たちを超える存在になるであろう。

なぜなら、お前は真の私(霊魂)を担う人間(肉体)を犠牲にするで

あろうから」と言います。つまり、イエスは、至高神に由来する「本来的

自己」としての「霊魂」と、創造神に由来する「非本来的自己」としての

「肉体」から成っているが、ユダはイエスの「肉体」を犠牲にすることに

よって、「肉体」から「霊魂」を解放し、イエスを人間の元型たらしめるで

あろう、と予告されるのです。

 

このイエスを犠牲にする行為として、ユダはユダヤ当局から「いくらかの

金を受け取り、彼を彼らに引き渡した」のであり、ユダはイエスを「裏切

った」のではないといいます。逆に、ユダはイエスの使命を果たしたのだ

とするのです。

 

ところが、これに対して、正統的教会の教父エイレナイオスは『異端論駁』

で、「彼らは宣言する、裏切り者ユダがこれらのことに精通し、しかも、

彼らだけが他の誰も知らない真実を知り、裏切りという秘義を成し遂げ、

その結果、彼らによって地上のものも天上のものもことごとく大混乱に

投げ込まれたのだ、と。彼らは、この種の話を捏造して、それを『ユダの

福音書』と呼んでいる」と激しく批判しており、これが後世に至っても

大きな影響力を及ぼしてきました。

 

この、真っ向から対立する考えをどう見ればいいのでしょうか?

 

そこで、エレーヌ・ペイゲルス、カレン・L・キング共著「『ユダ福音書』

の謎を解く」に依り、違った角度から『ユダの福音書』の意味を探って

みたいと思います。

 

ペイゲルスらは、最初、『ユダ福音書』の著者がいかにも攻撃的で、憎悪に

満ちたメッセージを投げつける、激怒する人物であるという印象を持った

という。しかし、この第一印象を通過してしまうと、怒りがすべてでは

なくて、この書の大部分は、イエスの霊的命をめぐるすばらしい教えに

満ち溢れているともいいます。

 

この書は150年代のある時期に執筆された文書であるから、ユダの死後、

ほぼ100年ほど経過しており、もちろんユダが書いたものではなく、著者

が誰であったかもわからないままであるが、ユダの裏切りとイエスの教えの

意味をめぐる2世紀のキリスト教徒たちの生き生きとした論争の実態を

垣間見させてくれるところに特別な意味があるとしています。

 

ペイゲルスらは、これまで、一部の学者たちは、『ユダ福音書』を「グノー

シス的」福音書の一例として分類し、種々の解釈、信仰、儀礼からなる初期

キリスト教において、自分たちこそ正統な教えの側に立つ唯一の集団である

と主張し、『ユダ福音書』については、そうした闘争における負け組の側に

位置づけようと試みてきたといいます。

 

たしかに、この福音書には、前世紀にエジプトで発見され、学者たちが

「グノーシス的」と名づけた他の初期キリスト作品といくつかの点で共通

する特徴が含まれていて、肉の体は死に際して崩壊するが、霊に満たされた

魂は上なる天界において神とともに永遠に生きるという信仰を伝えており、

また、人間の本性は本質的に霊的であると理解し、無知で邪悪な人間の

もとに、イエスこそは神の国について教えるために神から派遣された神的

奥義の啓示者であると伝えているが、それを一括してグノーシス的と評する

ことは、いくつかの間違った印象を固定化することになるというのです。

 

その理由は、主として、つい最近まで、学者たちは、「グノーシス派」の

キリスト教徒に関する解説を、新発見の諸文書からではなく、もっぱら、

異端を糾弾するエイレナイオス等初期教会教父の書き残した文書から

引き出し、それを反復してきたところにあるとしています。

 

このような異端研究の特徴に縛られることにより、論争の一方の側、

つまりは勝ち組の見解にだけ耳を傾けることになり、『ユダ福音書』が

書かれた時代のキリスト教が果たしてどのようなものであったのかに

ついて思いをめぐらすことはほとんど不可能な状態にとどまってきた

のだといいます。

 

しかし、一方の側の話をだけを聞くことに起因する固定観念を超えていく

ことができるなら、これらの新たに発見されたテクストは、初期キリスト

教の想像力と実践に多様性に関する我々の知識を豊かにし、新しく発見

されたテクストと既知の伝承の両方を新しい目で読み解くことを可能に

するし、とりわけ、『ユダ福音書』でさかんに論じられている問題は、

教会教父がキリスト教徒の関心をほかにそらすことにより回避しようと

してきた問題であることがわかると主張しています。

 

ところで、ペイゲルスらは、『ユダ福音書』の著者を激しい怒りに駆り

たてたのは、ローマ人の迫害の手にかかって仲間のキリスト教徒が

苦しみ悶えながら死んでいったことが背景にあるといいます。

 

『ユダ福音書』の著者は、彼の深く愛する善なる神に対する信仰を、他の

キリスト教徒が当時抱いていた異常な信仰、つまり、神がイエスと彼の

信奉者たちの血による犠牲の死を欲しているという信仰と折り合いを

つけることができなかったのだというのです。

 

『ユダ福音書』の著者の見解からすると、そのような仕方で仲間のキリ

スト教徒に犠牲死を強制し、自己を「栄光化」するように求めるキリスト

教の指導者たちは、それこそ殺人者以外の何者でもなかったし、彼らは、

イエスの教えをまったく誤解し、偽の神を崇拝することに心を奪われている

と考えたとしています。

 

しかし、なぜ、弟子たちのなかで、イエスの教えを理解したのはユダ一人

だけだというのでしょうか?

 

ペイゲルスらは、『ユダ福音書』の著者が裏切り者とされるユダをイエスの

最も忠実で信頼できる人物として選んだのは、著者自身の時代のキリスト

教徒たちにまさに衝撃を与えるためであったに違いないと述べています。

 

そして、著者が人間の犠牲や誤った信仰やいやしむべき異端ゆえに彼らを

告発したとき、彼の口調はもはやおだやかな説得や平和な話し合いではあり

えなかった。それは、他のキリスト教徒たちによって根強く抱かれていた

誤った信念に対する直接的で、執拗な攻撃とならざるをえなかったのだと

しています。

 

ともかく、『ユダ福音書』の著者は、彼を支持する者だけが勝利し、神は

他の者をことごとく弾劾することを執拗に語りつづけ、そして、「真の

キリスト教徒」の唯一の純粋な集団を形成するために他のすべてから

離れることを力説するのですが、それらは、すべてのキリスト教徒が

迫害による逮捕と処刑の危険にさらされるなか、彼らのなかに爆発寸前

の怒りの感情がくすぶっていたことを如実に示していると述べています。

 

また、テルトリアヌスのような教会の指導者は、殉教を避けた逃亡者

たちが軽薄で不熱心な信仰しかない臆病者であり、彼らに追随する者

すべては結局のところ地獄行きで終わる人間であると非難するのですが、

『ユダ福音書』の著者は、イエスもユダも殉教という非業の死を決して

回避していないと反論しています。

 

この福音書によれば、ユダは自殺したのではなく、「十二人」の弟子たち

に石打ちによって殺害されたのであり、ユダは実のところ最初の殉教者と

なったのだというのです。つまり、キリスト教徒によるユダの死の責任

を告発することにより、司教たちとその一党をローマ帝国の迫害者同様、

徹底的に罵倒しているということです。

 

かくして、ペイゲルスらは、『ユダ福音書』が、原始キリスト教に由来

する他の現存する作品と違って、一部のキリスト教徒が、彼ら自身の家族

や友人たちに対して加えられたいかなる暴力にもひるむことなく、処刑

された仲間たちの血なまぐさい死にたいして抱いた苦悶に満ちた激情と

怒りを白日のもとにさらけ出してみせてくれたと述べています。

 

2世紀当時、イエスを信奉する様々な集団が存在し、後代のキリスト教

歴史家が画一的な信仰の一貫した信仰の継承として描いた教会のような

ものは決して存在しなかったのであり、激しい内部対立のなか、一部の

キリスト教徒の怒りが、ローマ人に対してよりも、むしろ、殉教を強要

する彼ら自身の教会の指導者に向けられていったのだとしています。

 

ローマ帝国による殉教時代がコンスタンティヌス帝の回心によって終わり

を告げると、輝かしい殉教者列伝が、新しい教会にふさわしい霊的英雄の

模範とされ、それがキリスト教の起源に関する歴史的記述を支配するよう

になるが、『ユダの福音書』が私たちに取り戻してくれているのは、こう

したなかで提出された一つの異議申し立ての声なのだと述べています。

 

以上、前々回から今回まで、共観福音書の中のユダ、そして『ユダ福音書』

のユダを見てきました。

 

しかし、共観福音書におけるユダの扱いは、やはり、矛盾をはらんでいる

ように思います。特に、マルコ福音書を除く他の三福音書では、ユダが、

イエスを売り渡す者と弾劾される一方で、ユダを介するイエスの逮捕と

十字架刑は、神がイエスに与えた「定め」だとされる文脈などには疑問が

残ります。

 

また、『マルコ福音書』のユダは明確に「裏切り者」とはされていなくて、

ただイエスを「引き渡す者」であり、『ユダ福音書』のユダはイエスを

裏切ったのではなく、イエスの使命を果たすために引き渡したのだという

部分、『マルコ福音書』における十二弟子にも裏切りの可能性があるという

示唆と、『ユダ福音書』の裏切り者は十二弟子の方だという部分から、『ユダ

福音書』のユダ像が根拠のない全くの捏造とは言えないようにも思えます。

 

ともかく、イエスが弟子に「あなたたちは、全員が躓くことになるだろう」

と予告し、イエスが捕縛されたのち、「全員が彼(イエス)を見棄てて逃げ

ていった」(マルコ)であるなら、十二弟子全員が裏切り者だということに

なるのであり、それをかわすためにユダをスケープゴートにし、彼にすべて

の罪をかぶせたという見方ができるのではないかと思います。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
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