空海の謎


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空海1 



空海という人は謎の多い人物です。

 

学校の社会科の教科書を見ると、親鸞、道元、日蓮などは、かなり詳しい

説明があるのに対して、空海の場合は、真言宗の開祖で、天皇・貴族を相手

に加持祈祷をおこなったといった程度のことしか記されていないようです。

 

しかし、我が国の説話文学に目を移すと、逆に、最澄、法然、親鸞、道元、

日蓮らは、あまり登場していないのに対し、空海は、今昔物語以来、十数を

数える代表的な説話文学の中に、ほとんど枚挙にいとまがないほど登場する

のです。

 

そして、世に大師伝として伝えられてきたものは、数百種類にものぼると

言われています。ともかく、これだけ多種多彩な伝記を残している人物と

いう点では、日本仏教の他の開祖たち、あるいは史上に名をとどめている

著名な人たちと比べて群を抜いているようです。

 

しかし、伝記の多さは、真実の空海の姿を浮き彫りにすることにはつな

がらず、また、空海の人生においては、空白の時代があるようであり、

空海の対する研究は、進めれば進めるほど、不明なことが多いという

一種不可思議な現象が起こっているということです。

 

また、どうも、次のような空海に対して誤解を生む要因というものが

あったようです。

 

第一は、空海の明快な古典的文体を後世に人たちには読むことが困難に

なったために、空海の思想を直接理解することなく、優れた者への嫉妬

から誹謗を加えるということになったというものです。

 

第二に、空海の評価を誤らせたものは、いわゆる「ひいきの引き倒し」で、

彼の多方面にわたる非凡の才能と業績とに眩惑されて、その後継者である

はずの人たちが空海の人物と評価をはなはだしくゆがめたというのです。

 

つまり、空海は、あまり後継者に恵まれず、彼を後世に正しく伝え、それを

再現させるような人物が現れなかったということのようです。

 

さて、空海は、宝亀5年(774)(773年という説あり)に四国の

讃岐国多度郡(今の香川県善通寺市)に生まれたとされています。

 

空海の父は、佐伯直田公(さえきあたいたきみ)といい、讃岐の国造の

家柄であり、母方の姓は阿刀(あと)氏といい、叔父の阿刀大足(あと

おおたり)は桓武天皇の皇子の伊予親王の侍講(講師)となった大学者で

あったということです。

 

空海は、この大足から幼少より学問上の多くの指導を受け、のちに、18歳

で彼に伴われて都にのぼり、大学に入学することになりますが、大学の明経

科に入学したということですから、将来、国家の官吏になることをめざして

いたと思われます。

 

しかし、ある理由により途中で退学をしてしまいます。

 

退学の動機は、大学に入学して勉学に励んでいるときに、ある一人の修行者

に出会い、虚空蔵求聞持法を授かったことにあるとされています。(もっと

も、その他の影響、たとえば、佐伯一族の没落とか、その他の影響があった

のかもしれません。)

 

つまり、虚空蔵求聞持法とは、一種の記憶力増進法のようなものであるが、

この行法を修行中、空海にとって生涯の方向を百八十度転換させる大きな

回心あったというのです。

 

求聞持法を修するなかで、いわゆる無常観を抱くに至り、都会人士の軽薄な

享楽的生活や人の世の因果の実相を知って、一切の俗塵を断つ決意をかため

たということです。

 

ところで、空海の著書、『三教指帰(さんごうしいき)』には、「ここに一

(ひとり)の沙門あり。余に虚空蔵聞持の法をしめす」とのみありますが、

空海にその一大転機となる、この求聞持法を授けたという人物はいったい

誰なのでしょうか?

 

古来、この人物は、三論宗の学匠である勤操(ごんそう)という人では

ないかとされてきたようですが、その後、この説には疑義がもたれてきて

いるということです。

 

それでは誰なのかということになりますが、結局、特定できないようです。

しかし、どういう人、どういう立場の人であったかということは考えられ

ています。

 

奈良の仏者の大切な条件の一つとして、まず、難解な仏教学に通暁していな

ければならないこと、そのためには、一度読んだら決して忘れない暗記力が

なければならないこと、もう一つの条件は、経典、論書に通じていること

以外に、不可思議な呪力をそなえていて、加持祈祷の神通力がなければなら

ないということです。とすると、その人物は、奈良の諸大寺にいて、すでに

仏教について相当の学問を学んでいて、さらに、すでに求聞持法を修して

おり、そうした法を行い得る山野の修行地と関係を持った人ということに

なるようです。

 

つまり、律令的・反律令的な二面性を持った仏者、たとえば、行基のような

著名な私度僧の系譜につながるような人物だろうということです。

 

とにかく、この人物が空海に及ぼした影響力は非常に大きく、こうした律令

的・反律令的な二つの性格は、後年の空海にそのまま受け継がれていった

ようで、空海が己を「沙門空海」と晩年高野山にこもるころに自称する

ようになるのは、この知らざれざる恩師「一沙門」の性格につながるものが

あると見られています。そして、この点に民衆の間に偉大なる歩く仏者

「弘法大師」としての信仰が広がっていった秘密がかくされているのでは

ないかともいわれています。

 

ところで、『三教指帰』を書いた翌年の25歳より、延暦23年(804)

に入唐するまでの6年余の消息は不明であり、謎の6年間とされます。

その間、空海は一体どこで何をしていたのでしょうか?

 

伝承では、20歳のときに勤操に沙弥戒を受け、23歳のとき、東大寺の

戒壇院で具足戒を受けたとされ、その翌年には久米寺の東塔で『大日経』を

感得したといわれますが、昨今では、それらは疑わしいとされています。

 

『続日本後記』に「三十一歳得度」とあるように、31歳で具足戒を受ける

までは、一介の優婆塞(うばそく 在家の修行者)として修行や勉学に励ん

でいたのではないかということです。

 

ただし、『大日経』の感得については、すでに天平のころより伝来していた

のであるから、奈良にいた空海の目に触れなかったとはいえないようです。

 

そして、せっかく『大日経』を入手したものの、疑義を生じ、その解決が

できないので、ついに入唐を決意したというのですが、入唐して直ちに

恵果より真言の大法を伝授されて、帰朝後に真言密教の流布に努めたこと

を考慮すると、すでに入唐前において、空海は密教の教学にたどりついて

いたのではないかと考えられています。

 

とにかく、空海は24歳から31歳にいたるまでの間に、多数の密教経典

もしくはそれ以外の経典・論書の研究に全力をそそいでいたという推定が

可能であり、彼の入唐は密教を専攻しようという決意が直接的な動機に

なったと考えられるということです。

 

なお、その間、このような仏典研究とともに、空海は「山岳修行者」として

求聞持法をはじめとする奈良朝以来の古密教の修法も実践していたのでは

ないかといわれています。

 

いずれにしても、空海の出家は今まで伝えられていたような20歳ころでは

なく、遥か後年のようです。そして、空海は山岳修行者の系譜につながる者

であり、それらの多くの者がそうであったように、彼もまた長い間、私度僧

であったということができるのではないかということです。

 

さて、そうなると、空海は入唐のために出家得度して一人前の官僧の資格を

とったとも考えられます。次回は、空海の入唐にまつわる謎を追ってみたい

と思います。

 

 











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