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空海の宗教思想


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空海1

 
梅原猛氏は、著書『空海の思想について』において、弘法大師空海の思想を

語るのは、はなはだむずかしいと述べています。

 

なぜなら、空海は宗教家、つまり政治家や実業家のような実際家であるため、

主に著作によって自己を表現する思想家や学者と異なり、著作が主要な自己

表現の手段ではない。だから別の方法が必要だからだとしています。

 

よって、宗教家の場合、その著作によってのみ評価すべきではなく、その

宗教家がどのような布教活動を行い、そして悩める人間をどのように救済

したかという見地で、一人の宗教家を評価すべきであるというのです。

 

しかし、そこに至るには、空海と弘法大師という二つの貌を持ち、そして

後者が一人歩きをするという、空海特有の問題が立ちはだかっています。

 

梅原猛氏は、真言密教の呪術的性格ゆえか、日本には昔から「大師は空海

にとられ」という言葉が伝わっているが、空海は弘法大師として、万能の

天才、その卓越した能力によって、すべての願い事がかなえられる神の

ごときに尊敬されてきたとして、空海という名とともに大師という呼称を

多く用い、歴史上の空海と信仰対象としての弘法大師の使い分けにそんな

に拘っているようには思われないのですが、一方、フランス文学者である

竹内信夫氏は、著書『空海の思想』のなかで、「「弘法大師」は空海か?」

として、そういった融合現象に疑義を呈しています。

 

つまり、「弘法大師」として知られている人物は、空海その人ではなく、

空海という実在の人物をモデルにして、中世の日本人が作る上げた物語の

主人公のごとしだというのです。

 

そこには、中世日本の人々の夢や野心、希望や欲望がそこには色濃く反映

されていて、空海の真実の姿を見えにくくしていると述べています。

 

もちろん、信仰対象としての弘法大師空海を否定するわけではないとしな

がらも、ある時代を生きた空海に直面し、その思想を正面から捉えようと

すること、すなわち、空海の真実を追求することが己の目的とするところ

だとしています。

 

もっとも、梅原氏猛も、弘法大師空海は呪術家の本家本元であるために、

明治以降の知識人から敬遠され、大師の思想というものは全く問題にも

されなかったのであるが、昨今、空海の宗教を単なる呪術宗教と考える

のは間違いであるとして再評価がなされているとし、氏自身も真実の空海

の思想とその価値を捉えなおしたいとしているのですが。

 

ともかく、真実の空海に至るには、分厚い弘法大師というベールが覆い

かぶさっているのをはがしていかなくてはならないということになるの

ですが、そうなると、結局、空海自身の著作を再検討しなければならない

ということになります。

 

しかし、その著作物が、また、一筋縄ではいかないようなのです。

 

空海は、実に多くの著作を残しましたが、その著作が多方面にわたること

において、わが国の宗教家としては比類を見ないといわれているのです。

そして、その文章が唐代の漢文で書かれているため、その解読は非常に

難しいとされているからです。

 

さらに、空海の著書とされる多くの著作のなかにも彼自身の作かどうか

怪しいものが混入しているのであり、どれが空海自身のものであるかも

考証されねばなりません。

 

このことから、梅原猛氏は、空海の著作をすべて理解するのが大変困難な

上に、宗教家としての彼の思想が著作に尽くされないとしたら、いよいよ

空海の探求は絶望的になるとしながらも、氏独自の視点から空海の思想に

迫っていますので、その主張を紹介してみたいと思います。

 

まず、梅原氏は、約束の十分の一の留学期間、わずか2年余の留学で帰って

きて罪に問われかねない空海が朝廷に提出した弁明書である『御請来目録』

を解読しながら、空海を完璧なレトリーカー(修辞法を駆使する人?)では

ないかと述べています。

 

空海はすばらしい思想家であるが、空海その人は、何かわかりにくいところ

がある。空海の生の喜びと悲しみが伝わってこず、彼のすばらしい詩など

からも人間空海を感じることができない。そのわけは、彼があまりにも完璧

なレトリーカーであるためであろうというのです。

 

空海は、自己のすべての感性を見事な詩文で装飾するが、それが容易にわれ

われをして彼の人格の核に近づけさせないのではないかとしています。

 

ともかく、『御請来目録』の中で、空海は彼が学んできた仏法がどんなに

貴重な仏法であり、そういう仏法をどのようにして正しく彼が付法された

かをレトリックを駆使して示そうとします。密教が大変優れた仏教であり、

それを広めた不空が当時の唐の朝廷にどれだけ重んじられてきたかを示し、

そして、不空の付法の弟子は恵果一人であり、恵果の付法の弟子は空海一人

であること、つまり、不空直系の密教の弟子は空海一人であることを巧みに

示し、挙句に、自らの死をさとった恵果が、密教を流布するために早く本国

日本に帰ることを空海に命じたとして、その責の一端を恵果に委ねます。

 

梅原氏は、このへんに空海の並々ならぬレトリックに才能を感じざるを得な

いが、この恵果の言葉が本当であったかどうかは信じきれないとしています。

 

いずれにしても、これが功を奏したのか、弁明の書を提出してから3年

ほどは、大宰府に留め置かれますが、その後、都へ入ることを許され、

やがて、嵯峨天皇の恩寵をこうむり、とんとん拍子にその地位を確立して

いったということです。

 

また、密教は、他の仏教が釈迦仏の教えであるとするのに対し、大日如来の

教えあるとしていますが、空海も、あの釈迦牟尼なる聖者が永遠不滅なる

仏性の一つの現れにすぎないのではないか? そして、それが仏性の現れで

あるとすれば、それは応化神であり、永遠の仏性は法身と呼ばれるべきでは

ないかと考えたというのです。

 

梅原氏は、法身を一義的とし、仏の応化身を二義的と考えること、実在して

いる法身仏、大毘盧遮那如来が法を説くとすることは、釈迦仏教を否定する

ことであり、誠に大胆な理論であるとしています。

 

ところで、先に触れた竹内信夫氏は、これとは異なる空海の思想について

独自の見解を述べていますので、少し紹介をしておきたいと思います。

 

竹内氏は、空海は仏教思想全般を背景に置きながら、当時、最新の「密教」

なるものを前景化しつつ、空海独自の生命思想を展開しているとしています。

つまり、「密教」とは、インドで芽生え、すぐにも中国に伝えられた最新

流行の仏教修行の方法論であり、それは新しい思想ではなく、空海思想と

いうものがあるとするならば、それは「密教」のなかにはないと言います。

 

よって、空海の思想は、人間精神の前進的展開を背景にして、人間精神を

そのように前進させる根源的エネルギーの有り様を見定めようとする

ところに求めなければならないとしています。

 

竹内氏は、空海は、留学先の長安において、人間精神の働きを担う究極の

主体を不空金剛の著作『菩提心論』のなかに見出していたといいます。

それを不空は「菩提心」と名付けているのですが、「菩提心」とは、人間

精神を仏教的理想に向かって推進させる精神のエネルギーであり、その

「菩提心」はすべての「いのち」あるものに分有されているというもの

です。

 

「菩提心」を分有する「いのち」は生きて活動するわれわれ一人一人が、

生きている限りにおいて生涯のあいだ、担い続けるもの、いや、空海なら

生まれる前から、そして死んだ後までも私たちが担い続けるものであると

言うであろうと述べています。

 

このように、空海の思想の根幹に「いのち」の思想とでも呼ぶほかないもの

が据えられているが、それが何であるかは「いのち」という言葉をいくら

反復しても、鮮明になることはない。それはさまざまな言葉で言い換えられ

ながら、無限に拡散していく。よって、その無限に拡散する思想の言葉の

あれこれを捉えて、万華鏡のように変化する「いのち」の変貌の一瞬の

すがたを見定め続けるほかに方法はないと述べています。

 

もう一点、竹内氏は、空海の思想の根源、豊かな源泉は「菩薩仏教」(大乗

仏教)にあるとしています。

 

「密教」とは、歴史的には「大乗仏教」の最終段階に位置づけられるが、

空海当時においては最新流行の方法であり、その方法の特徴は「マン

トラ(真言)」読誦を修行の中核に据えたところにあるといいます。

 

そして、密教の根本経典である『大日経』において、「密教」的菩薩仏教

の独自性は、「真言」と「住心」にあるとされるが、空海思想の独自性も

そこにあるというのです。

 

ただし、『大日経』の冒頭に、「菩提心を因と為し、悲を根本と為し、方便を

究竟と為す」とあるように、「菩提心を因と為し、悲を根本と為し」までは、

菩薩仏教の理念を踏襲しているといいます。

 

よって、「方便を究竟と為す」こそが「密教」を「顕教」から区別するため

の指標であるが、「菩提心」も「慈悲」も、菩薩仏教(大乗仏教)の歴史を

貫通する基本理念であるとしています。

 

また、「方便」とは、目標に向かって前進すること、そして、その目標に

到達することを意味しているようです。

 

そうすると、先の『大日経』の文言は、「衆生」の救済を目標とする菩薩に

対して、「菩提心」を揺るぎなく自覚すること、すべてのいのちに深い

慈悲心を以って臨むことに加えて、その目標に向けての不断の工夫と努力

を続けることを要請しているということになります。

 

竹内氏は、空海が「虚空蔵求聞持法」によって獲得したものは、このような

菩薩行を遂行するための強靭な心身であったのであり、その『大日経』の

説く「方便」を空海が実践したということを意味していると述べています。

 

そして、そのように考えると、「密教」の拠って立つ思想的基盤は菩薩仏教

(大乗仏教)の理念であり、空海の拠って立つ思想もまた菩薩仏教の理念で

あると言えるだろうとしています。

 

とにかく、「密教」は、思想ではなく方法に関する教えであるのだから、

「密教」を思想と勘違いしては、空海の思想そのものを捉え損なうと

主張しています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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