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アステカの人身供犠


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アステカ1




かなり前になりますが、フランス人作家ル・クレジオの『メキシコの夢』

を手がかりに「神話-血の供犠-」という文章を書いたことがあります。

 

ル・クレジオは、『メキシコの夢』の中で次のように述べていました。

 

「人間の歴史のなかで、おそらくインディオほど血の虜になった民族は

いないであろう。アステカ族はまるで魔術的な魅力にかかったように血に

取り憑かれ、つきまとわれた。他の大部分のスペイン人記録者と同じく

ベルナルディーノ・デ・サアグンから見て、この血への妄執は魔力、つまり

悪魔との契約を示すものだった。これほど血なまぐさい供犠-動物、特に

皮を剥がれ、心臓を捥(も)ぎとられ、身体を寸断され、焼かれる人間たち

-に関心を示した民族は他にいない。」

 

「多くの点でスペイン人の征服者の文明よりもすぐれた文明水準に達し、

開花し、洗練された民族、芸術、科学、詩を培ったこの民族は、祭儀の

折に、前代未聞の残酷さを示すことができる民族でもあったのだ。」

 

「そして、この残酷さの悪評は、それがなくなった後も、しばらくは

その文明に結びつけられ、堕落の証拠、道徳的劣勢にしるしとして、

今日までも、インディオの国ぐにの最後に生き残った人々に暗く

のしかかり続けている。」と。

 

もっとも、一方で、ル・クレジオは、アステカの「王は神の代理者として

誠に謙虚であり、民衆は、徳が高く、神々に対してとても敬虔であり、国

に対して愛着が強く、互いに親切であったし、仲間に対してはきびしいが

人間味があった人々であった」また、「メキシコの民は、ローマ人が闘技場

の格闘に見せた残酷さのような例は決してつくらなかった。インディオの

残忍さは無償のものではない。神々だけに気にいられる宿命づけられた

神聖かつ神秘的な残忍さである。」とアステカの文明を弁護するのですが、

それでも、私は、その極端な血の供犠というものへの嫌悪感と、そこまで

する血へのこだわりの理由が理解できないという思いが消えないまま、

今日まできてしまいました。

 

よって、その矛盾した文明というものの背景には何があったのか、なぜ残酷

さと神聖さが同居することができたのかを、主に、岩崎賢氏の著書『アス

テカ王国の生贄の祭祀』に依りながら、探ってみたいと思います。

 

岩崎氏は、「人身御供は我々にとって恐るべき行為である。それは解釈者に

強い精神的緊張を強いるものであり、そのリアリティに接近することは容易

ではない。しかしながら、人身御供はアステカのみならず広くメソアメリカ、

さらには世界中の古代的宗教伝統において、規模の大小こそあれ、もっとも

重要な儀礼行為の一つとして遂行されてきた行為である。また、それは、

深い神学的・哲学的思索-たとえば古代インドの『ヴェーダ』における人身

御供や、『旧約聖書』におけるイサクの供犠をめぐる神学的思索など-を

促してきた主題なのである。そうである以上、人身御供は真摯に解釈され、

理解されなければならない。」と述べています。

 

さて、アステカの供犠についての研究は数多く存在するが、最も強い影響力

を及ぼしてきたものは、メキシコの考古学者A・カソの著作『太陽の民』

で示された議論であったということです。A・カソは、ウロポチトリ

誕生神話などに基づいて、アステカ人の神話と儀礼の中心的主題は月・星の

神々に対する太陽神の戦いであったとし、アステカ人の使命は、戦場での

闘いによって戦士の血を流し、神に「生命を表現するこの魔術的な食べ物を

捧げ、神の戦いを応援する」ことであったと主張したといわれています。

 

これに対して、岩崎氏は、たしかにアステカには「血を欲する神々」という

テーマを示す神話がいくつかあるようであり、これらの神話にもとづき、

アステカの人身供犠は血液によって神々(大地や太陽)を養うために行われ

たという説がほぼ定説として確立しているようであるが、それは、アステカ

の供犠を<機械のアナロジー>によって説明しており、それがこの儀礼の

リアリティから研究者を遠ざける結果になっていると批判しています。

 

<機械のアナロジー>による説明とは、要するに、アステカ人にとって宇宙

は一種の巨大機械であり、太陽や大地やその他の事物は、その内部を動く

部品であり、人間の血液はその動力源である、とする説明のことであるが、

その説明では、解釈対象と解釈者の疎隔という問題は未解決のままではない

かとしています。

 

つまり、A・カソと彼の同調者は、このような<機械のアナロジー>を使用

することによって、そのままでは理解しがたい奇異な文化的・宗教的現象を、

理解可能な身近な現象として捉え直すことに成功していないというのです。

 

そして、A・カソが、みずからの文化的ルーツについて、「アステカ人の

人身御供は・・・人類史において宗教的感情が有している多くの逸脱の一つ

である。誤った前提から出発し、それが自明のものとなり、最もひどい結果

が論理的に導かれることはある。」と述べ、これは「異常」なこととして、

中世ヨーロッパの魔女狩りやナチズムと比べていることは不幸なことである

としています。

 

岩崎氏は、宗教的・文化的現象の解釈におけるアナロジー、つまり、比喩

表現の必要性を否定するわけではないとしながらも、それは<機械>とは

異なる別のアナロジーを探す必要があると述べています。

 

そのアナロジーは、解釈者と解釈対象の間の疎隔や断絶を固定するものでは

なく、両者の間に確固とした連続性があることを実感させるものでなければ

ならないとしています。

 

そして、それに当てはまる方法論は、宗教学者のC・H・ロングが提唱し、

M・エリアーデが「創造的解釈学」と呼んだもので、それによると、歴史的

・文化的他者は、研究者自身の人間性と無縁のものとして切り離されること

はなく、むしろ、研究者は、解釈行為を通して、解釈対象の中に自己の根源

的(アルカイック)な在り方を探究しようとするものであると述べています。

 

これが適切に遂行されたとき、解釈者と解釈対象との疎隔は大きく克服され

ているであろうというのです。

 

さて、岩崎氏は、これらを踏まえると、従来、アステカの供犠を考察する

のに、「太陽や大地の神々に血液を捧げる」という主題に沿って諸々の

神話・儀礼・図像が取り上げられてきたが、それとは反対の主題、すな

わち、人間が「太陽や大地の神々から血液を頂く」という主題が重要で

あり、この「神々から血液を頂く」という主題はアステカの人身供犠を

理解するための鍵となるものであると主張しています。

 

そして、なぜ、「神々から血液を頂く」という主題がアステカの人身供犠

を理解するための鍵なのかについて、その根拠となる人類創造神話を

あげています。

 

それは、最初の人間は<死者世界ミクトランの骨>と<創造神ケツルコア

トル神の血>が<高貴な容器>の中で混ぜ合わされることによって創造

されたというものです。

 

この神話は、従来、供犠を説明する物語としてより、いかにして人間が創造

されたかを説明する起源神話として取り上げられてきたが、この神話を重要

視すべきであるとしています。

 

これが強調されて来なかったのは、「太陽や大地が人間の血液を欲しがる」

という神話の方が、アステカ人が人身供犠を行った理由を示す上で、

より直接的で分かりやすかったためであろうと述べています。

 

しかしながら、「神々から血液を頂く」という主題を示す神話や儀礼は、

比較的乏しいとしても、神話や儀礼と並びもう一つの重要な宗教的表現で

あった図像表現において、雄弁に表現されていると主張しています。

 

そして、太陽が血を流す、すなわち、太陽から血を頂く、という主題の

図像を幾つか紹介し、また、月(星)・大地が血を流す、つまり、月(星)

・大地から血を頂く、という主題の図像を示しながら、それらは、人間

が太陽・月(星)・大地に血液を捧げるのと同じように、太陽・月(星)

・大地も人間に血液(体液)を捧げている、ということを示しているので

あると述べています。

 

このことは、アステカ人にとって、自分たち人間の体内を流れる血液に

含まれる生命力は、太陽・月・大地がその体内に宿し、日々、地上の

人間に送りこむ生命力と、そのかけがえのなさや貴さにおいて、同じ

ものであったということであるとしています。

 

さらに、これらの図像が示すことは、地上に生きる人間・動物・植物と、

天地を動く太陽・月・星、そして大地は、同じ血液を分け合う一つの

巨大な生命体の一部だということではないかというのです。

 

そして、このことから、宇宙は決して無機質な部品が組み合わされた

<機械>ではなく、この巨大な生命体は、自らの体内に血液を循環させる

ことで、新しい細胞と器官-地上の諸々の生命体-を作り出すのであり、

もし、人間が自分たちは大宇宙から生命を頂くだけでなく、それに生命を

捧げる存在でもあるということを忘れて、その聖なる赤い液体を自らの

身体内に滞留させるなら、この大生命体は衰弱し、やがて死ぬことになる

だろうと考えたとしています。

 

よって、岩崎氏は、こうした切実な感覚なくしては、アステカの「血を

頂く・捧げる」という図像的表現が生み出されることも、数々の血の儀礼

が行われることもなかったであろうと結論づけています。

 

ところで、アステカの人身供犠に対するこのような見解とは異なる主張も

当然、存在します。

 

次回は、そういった異論を少し取り上げてみたいと思います。









霊魂に聞くⅡ

(水波一郎 著 アマゾン 発売)







 

 

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ジャンル : 心と身体

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