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太陽神から先祖神へ-アマテラスの誕生2-


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朝日


前回、伊勢皇大神宮の神、アマテラスは、もとは、天つカミ、つまり、

日のカミであり、風のカミであり、雷のカミであったということ、そして、

天つ神が地上に降りるときは、まず、山の頂上に来たりて、樹木(御陰木)

を経て、いったん、川の流れの中に潜り、巫女により流れの中からすくい

あげられ、地上に御生(みあれ)、つまり、再生するというプロセスを

たどるということ、などを見てきました。

 

今回は、では、いつアマテラスという自然神からアマテラスオオカミ

という天皇家の祖先神が形成されたのか、また、いつ、そのような

天皇家のアマテラスオオカミがまつられはじめたのか、という疑問に

ついて考えていきたいと思います。

 

さて、『アマテラスの誕生』の著者、筑紫申真氏は、まず、この問題を

論ずるためには、どうしても壬申の乱という七世紀半ばの内乱と、天武・

持統という二人の天皇の活躍を中心にすえなければ、本当のことは

わかってこないのではないかと述べています。

 

それまで、まだ地盤の固まっていなかった天皇政権を絶対的なものに築き

あげたのは、天武・持統両帝の七世紀後半における活躍によるが、その

政権を永遠のものにするために、自分たちの権力の美化に熱心であった

のは当然であった、よって、アマテラスオオカミは、天武・持統両帝が

つくったカミであり、皇大神宮は、天武・持統両帝が築きあげた神社

だというのです。

 

そうすると、天皇家の祖先神としてのアマテラスオオカミが、天武の即位

以前にはなかったということになりますが、どうして、そう言えるので

しょうか?

 

筑紫氏は、天武天皇即位の前年の壬申の乱のさなかに、陣中で天武天皇が

「天照大神を望拝みたまう」と『日本書記』にあるのが誤って理解されて

いたのだといいます。

 

つまり、そのころは、皇大神宮はなく、仮にあったとしても、天照大神を

拝んだまでであって、皇大神宮を遥拝したとは書いていないというのです。

 

この場合の天照大神は、天皇家の祖先神アマテラスオオカミではなくて、

天つカミの一表現としてのアマテルオオカミであったと見なければなら

ないとしています。

 

よって、望拝の動機は、雷雨に悩まされたからで、天空気象の害をまぬがれ

るために太陽を拝礼して、その霊に祈ったにすぎないと理解すべきであった

ということです。

 

もう一つの根拠として、今谷文雄氏によって、『日本書記』の敏達(びたつ)

天皇六年(577)に「詔して日祀部(ひまつりべ)を置いた」とある、

その記事の意味が明らかにされた、つまり、従来、天皇家は太陽そのもの

を礼拝し、日まつりを行っていたという重大な事実が明らかにされた、言い

かえると、まだ、天皇家の祖先神としてのアマテラスオオカミはできて

いなかったということが明らかにされた、と筑紫氏は述べています。

 

とにかく、天照大神の読み方には、アマテラスオオカミとアマテルオオカミ

の両方があって、皇祖神以外のアマテラスは、アマテルと呼ばれていたよう

で、太陽神=自然神のままであったということです。

 

そのほか、オオヒルメノムチとか、アマテラスオオヒルメノミコトという

呼び名もあったようですが、それらは太陽を人格化し、そして、祖先神に

進化させる途中の段階を示すカミの名です。

 

よって、その後も、天皇家は、大化の改新に至るまで、アマテラスを

いっこうにまつった形跡がなく、大化の改新後も、孝徳・斉明・天智と

続く天皇家は、そのあいだ、ただの一度もアマテラスをまつったり、

伊勢神宮をまつったりしたという事実が、『日本書記』の記事のなかには

出てこないとしています。

 

しかし、天武・持統両帝以降、アマテラスや伊勢神宮に対して異常なまで

の関心の高まりが天皇家に見られて、その結果として、それらの記事が

『日本書記』や『続日本記』にさかんに出てくるようになるというのです。

 

では、先の紹介したように、即位前の壬申の乱における天武天皇の祈りは、

日のカミ=太陽神であったということになるが、祖先神としてのアマテラス

への変化の兆しは、いつ、どのようなかたちで起こったのでしょうか?

 

それは、『扶桑略記』の天武天皇二年(673)の条に「大来皇子(おお

くにひめみこ)を以て、伊勢神宮に献じ、始めて斎王(いつきのみこ)と

なす。合戦の願に依てなり」とあるが、この文章こそが、その<とき>と

<わけ>をはっきり物語っていると筑紫氏は述べています。

 

つまり、このとき、天武天皇が、壬申の乱のときに必死の思いで通過した

思い出ふかい伊勢地方の、目立ったカミであるイセの大神に敬意を表して

令嬢を差し上げた、言いかえると、初瀬=長谷で天皇家の氏神(その氏を

特別に守ってくれる守護神で、まだ、祖先神である氏神ではない)である

アマテルをまつっていた大来皇子を、伊勢の漁民(海人(あま))の信仰

するイセの大神に乗り換えさせたとしています。

 

なお、これだけでは動機が単純すぎるということで天武天皇が幼少のころ、

摂津(兵庫県)の大海人(おおあま)氏に養い育てられたというところ

から、天武天皇の身についている摂津の海部(あまべ)の持つ信仰に、伊勢

の海部(磯部)たちの信仰を結びつけることができ、天武天皇が伊勢に

おいて太陽神から受けた恩恵への報謝は、イセの国の有力な海部の信ずる

太陽神への報謝へと固定されていったのだという説を付加しています。

 

これがアマテラスの「懐胎」の時期ということになるようですが、アマテ

ラスの「誕生」までには、もう少し時間を要することになります。

 

大来皇子が初代の伊勢神宮の初代の斎王(いつきのみこ)として南伊勢に

在住するようになったあとも、イセのカミは、しばらくは、地方神のまま、

川のカミのままであったとされます。

 

つまり、天智天皇以後、持統天皇の治世になっても、朝廷の支配に服属

しながらも、神国、神郡と呼ばれ、独立国のごとしであったイセの国に

対して、内政干渉めいたことはしていなかったということです。

 

神宮司がつくられて、神郡の民政や徴税を直接に天皇政府が現地に特設

した役所で行うようになるのは、これよりもおそらく後のことであろうと

されています。

 

また、持統天皇は、持統六年(692)に伊勢・志摩を訪れていますが、

伊勢参宮をした形跡がないようなのです。確かにイセの大神はいたはず

ですが、特設の社殿もなく、カミは常住しているわけでもなくて、名山

大川に時を定めて天降ってくるようなイセの大神であっては、持統天皇も

参詣のしようもなかったということでしょうか?

 

ともかく、斎宮(いつきのみや)とは、我々が考えるような、大きな建物

である皇大神宮を意味するものではなく、斎王、つまり、巫女がカミがかり

してカミをまつるために臨時に特設した家屋であるということであり、カミ

のための豪華な常住家屋などはなかったということです。

 

そうすると、天武天皇が没し、持統天皇の治世なっても、まだ、イセの大神

=地方神のままであり、皇大神宮は成立していなかった、アマテラスは誕生

していなかったということになります。

 

しかし、文武二年(692)十二月に多気大神宮を度会郡に移したとき、

つまり、皇大神宮の成立のときですが、事情が一変したということです。

それ以後は、それまでと違って、『続日本記』には、伊勢神宮を、はっきり

と他の神社と違った特別の祖廟であると意識して書かれているということ

です。

 

よって、筑紫氏は、文武二年には、天皇家の祖先神、天照大神はすでに

誕生していたとみなければならいと述べています。

 

そして、多気大神宮は、多分に皇大神宮的であり、おそらく天皇家の氏の

カミまたは祖先神の意識をもってまつられていたと考えられることから、

多気大神宮の設立の時期を考慮すると、アマテラスの誕生は、そこから

さらに数年はさかのぼる頃になるだろうとしています。

 

以上のことから、女性神としてのアマテラスオオカミが出現するまでには、

アマテル(日神)→オオヒルメムチ→アマテラスヒルメノミコト→アマ

テラスオオヒルメノミコト→アマテラスオオカミという成長の順序を

踏んできたことがわかりますが、筑紫氏は、アマテラスオオカミは、

アマテルが成長・発展せしめられた最終段階で創出された非常に特殊な

宮廷神であると述べています。










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