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「エジプトの死者の書」


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エジプトの死者の書 



死後の世界にとりわけ深い関心を抱いた民族として、二つの民族をあげる

ことができます。

 

一つは古代インド人であり、もう一つは古代エジプト人ですが、インド人

とエジプト人では、その関心の強さにおいて相匹敵するとしても、その

関心の性質は全く異なるようです。

 

インド人が来世に深い関心を抱くに至ったのは、何よりも現世を苦界と

観じて、この穢土を厭離することで、浄土を希求したからであるのに対し、

エジプト人の場合は逆に現世をこよなきものと観ずるあまり、この楽土

を何とか死後にまで持ち越したいと願ったからであるということです。

 

以前、インド由来の仏教的な死後についての考え方については、『チベット

の死者の書』という本を紹介しましたが、その原典は、「深遠なるみ教え

・寂静尊と憤怒尊を瞑想することによるおのずからの解脱」といい、一般

には「バルド・ト・ドル(中有における聴聞による解脱)」という呼び

名で知られているもので、その内容は、死の瞬間から次の生での誕生まで

の間に魂がたどる旅路、七週四十九日間の中有(バルド)のありさまを

描写して、死者に対して迷いの世界に輪廻しないように、「正しい道は

こっちなのだ」と正しい解脱の方向を指示する経典だということでした。

 

それでは、古代エジプト人は、死、あるいは死後の世界についてどのよう

に考えていたのでしょうか? 今回は、『エジプトの死者の書』に基づいて

エジプト人にとっての死生観を紹介してみたいと思います。

 

さて、『エジプトの死者の書』も、『チベットの死者の書』がそうであった

ように、後の世の命名であり、原名は、「日の下に出現することの諸章」

であったということです。

 

その起源は、死者への「呪文」であったようで、唯一人の著者によって

記されたものではなく、時代を同じくする者の作ですらないようです。

しかも、その最も古いと思われているものは、おそらく口誦によって

伝えられたであろう先王朝時代にまでさかのぼり、新しいものは、エジ

プト人の国が滅び去ってのちのプトレマイオス朝の時代にまで及んで

いるとのことです。

 

つまり、『死者の書』なるものは、太古から紀元前にいたる葬送文の集成

であって、19世紀中葉以来、欧米の考古学者によって発掘され、発見

されたパピルスを編纂されたものに他ならないということになります。

 

よって、その叙述には、ほとんど一定の脈絡はなく、重複、飛躍、矛盾

などがあるのであり、今日、これを読む者を最も当惑させるものに、矛盾

する宗教思想の併存があるとされます。

 

たとえば、オシリス神話で有名なオシリス神の教義は、下エジプトの植生神

に対する民間信仰に発し、太陽神ラーの教義は、さかのぼれば上エジプトの

ホルス信仰を源流とし、第五王朝に至ってオン(ヘリオポリス)の神官達に

より確立された王家の信仰にあるが、この書のある部分はオシリス教義の

祈祷書でありながら、他の部分はラーなる太陽神に対する讃歌であると

いった様相を呈しているということです。

 

何千年もの間、植生の神と太陽神という、二つの異なった信仰を併存させ

ながら、特に積極的に両者の調和をはかろうとせず、また、いずれかを

捨て、いずれかを取るということもしなかったところに、古代エジプト人

の特徴があるようです。

 

なお、第五王朝に入ると、ラーはオンの創造神アトゥムと習合して、王権

神、国家神となり、その権威は絶大なものとなったということですが、

一説によると、古代エジプトの太陽崇拝は固有のものではなく、先王朝

時代に東南方より渡来した異民族のもたらしたものではないかとされて

おり、おそらくはメソポタミアのシュメールか、あるいはシュメールや

インダス文化の母体である、より進んだ文化のなかからやってきたもの

と推測されているようです。

 

また、月神トートは、エジプト神話において、オシリスに先立つ最も古い

神であるとされていますが、そうであるならば、エジプトには太陽崇拝に

先立って、月神崇拝があり、太陽暦の前に太陰暦が用いられていたことを

示唆するものであり、エジプトにおける太陽信仰は、太陽の昇り沈む位置

とナイルの氾濫との関係において起こり、太陽暦が発明されてから確立

したものと考えられるということです。

 

ところで、エジプトというと、ミイラ葬を思い浮かべますが、エジプトの

先史時代、原住民の葬法は土葬か、あるいは火葬であったということです。

土葬の場合、死体は四肢を切断されるか、無数の細片に分割されるのが常

であったようです。時にはそのまま無疵のものもあるが、ミイラ化しよう

とした人工的な意図は見られなかったのです。

 

ところが、今日われわれがシュメール人と呼んでいる人々と類縁のもので

あったかどうかは断定できないが、西アジアからやってきた、アジア人種

の影響により大きな変化が起こります。

 

この金属製の武器をもったアジアからの新来者はナイルに金属精錬の技術

と象形文字をもたらしたが、彼らと土着のアフリカ人との混血、融合に

よって、当時、世界最高の文化の担い手である古代エジプト人が出現した

のです。

 

彼らは金属精錬の技術のほかに煉瓦製造の技術をもたらしたが、それが

エジプトの葬制を一変させたようなのです。

 

それまで、エジプト原住民はナイルの両岸、低地の至るところに竪穴を

掘って、これを墓にあててきたが、それからは干乾煉瓦で山腹に家を造り、

その中に一室または数室を設けて墓とするようになり、さらに、死体は

火葬されず、分割もされず、五体満足のまま葬られるようになった。

そして、獣皮やゴザや粗布で死体をおおう習慣はすたれ、死体は整然と

包帯を巻きつける風習が起こったということです。

 

これまで膝を曲げ、横臥した姿勢のまま埋葬された死体は、これ以来、

棺内に伸展、仰臥の姿勢をとることとなるが、このことは、エジプト人の

宗教思想が大きく変わったことを意味するとされます。

 

この変化は復活と再生の思想を示すものとなりますが、それはオシリス

神話に表わされているということです。

 

オシリス神話によれば、神人にして王であるオシリスは、兄弟神である

セトに欺かれ、箱に閉じ込められてナイル河に流されるのを妻のイシスが

救助すると、セトはなおもオシリスを殺して細断し、その肉片を四方に

巻き散らした。だが、イシスは根気よくそれを拾い集めてつなぎ合わせ、

完全な身体として復活させたというものです。

 

これはなかなか意味深な神話であり、先王朝時代に四肢を折ったり、死体

を切断したりした葬法、あるいは膝を曲げたままの屈葬が、仰臥の姿勢を

とる伸展葬へと変化して行った過程を象徴しているがごとしであると

いわれています。

 

さて、このあと、エジプト人の呪術的思想、有名なオシリスの審判、

そして、エジプト人の来世観について触れてみたいと思いますが、

それは次回としたいと思います。

 

ともかく、古代インド人がその心性において、著しく悲観的、厭世的で

あったのに対して、エジプト人は、すこぶる楽天的、また享楽的であった

といえるようです。

 

その要因の一つとして、ナイルの潤す豊沃な国土が、東西の砂漠によって

守られ、南は急湍、北は海で、天然の要害をなし、容易に外敵の侵入を

許さなかったことがあるのではないかといわれています。

 

そこは古代世界に知られた穀類と亜麻の一大輸出国であり、近隣の国々

の飢饉は、しばしばエジプトの豊穣によって救われたということです。

 

ヒクソス王朝の時代、かのイスラエルの民がナイルのデルタ地方に移住し、

遊牧生活を営んでいたのも、その地方が他の国に比べはるかに豊沃だった

からです。

 

「出エジプト記」によれば、彼らがエジプトを脱出したのは、ヤハウェが

モーセに命じて「約束の地」へおもむかせたかのごとくであるが、エジプト

側の記録では、彼らの間に疫病がはやり、蔓延しはじめたので、「不潔な民」

として厄介者扱いにされ、追い出されたということになっているようです。

 

よって、『チベットの死者の書』が輪廻転生から脱し、解脱をもたらす

ためのものであったのに対し、エジプト人は、来世もまた楽しく暮らす

ために、立派な墓や肉体をミイラとして保存することや、供物を欠かさぬ

ことや、死者を守るための護符や、そして冥府の案内書である『死者の書』

を必要としたのであろうといわれています。









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