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スサノオの真実を求めて


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スサノオの研究


周知のとおり、『古事記』には、イザナミを追って黄泉の国気へ行って

いたイザナギが、穢れを祓うために禊をするのですが、投げ捨てた持ち物

・脱いだ衣服から神々が生まれ、水に入って体を洗うとさらに神々が生まれ

ます。

 

そして、最後に左の目を洗ったときにアマテラスが生まれ、右の目を洗った

ときにツクヨミが生まれ、鼻を洗ったときに生まれたのがスサノオだとされ

ます。

 

山田永氏は、『古事記スサノヲの研究』のなかで、鼻から誕生した神は、

スサノオだけである、たかが鼻からというだけのことだが、問題の根は

深そうであり、ひょっとすると、スサノオの性格を決定づけ、『古事記』

の物語の展開にも大きく関与することになるかもしれないとして、その

意義を論じています。

 

単なる中国神話の影響として片づけるのではなく、なぜ『古事記』が中国

神話の表現を借りてまでスサノオを鼻から誕生させる必要があったのか

という点を考えてみるべきであろうとしています。

 

よって、この『古事記』のスサノオ誕生の物語を、『日本書紀』神話と比較

すると、「書紀」正文ではスサノオは、イザナミの二神から生まれている

ところが異なります。また、『古事記』のスサノオはアマテラス・ツクヨミ

と三神一組であり、「三柱の貴い子を得た」と言わしめていますが、この

ことは『日本書紀』には見られません。そこでは日の神、月の神、ヒルコ、

スサノオと、間にヒルコが入っているからです。

 

そして、『古事記』では三神が誕生したとき、大変喜んだとあるのに、『日本

書紀』ではそうではなく、イザナギ・イザナミが喜んでいるのは、日の神の

誕生のときだけであり、スサノオは逆に悪神のように書かれていて、天下を

支配する資格はないと根の国へ追放されるのです。

 

『古事記』のスサノオは、海原を統治することを命じられるが、彼はイザ

ナミを慕って泣いてばかりで、「妣の国根の堅州国(ははのくにねのかたす

くに)」へ行くことを希望するのですが、『日本書紀』のスサノオはイザ

ナギ・イザナミから生まれているので、母を求めて根の国へ行くという

ことはないのです。

 

しかし、『古事記』において、なぜ、スサノオはイザナミに逢いたがり、

同時に誕生したアマテラス・ツクヨミは逢いたがろうとしないのか、

という疑問がわきます。

 

山田氏は、どうやらそれは、目と鼻の違いに原因がありそうであると

述べています。

 

<鼻とは、この世とあの世の境界、つまり「端(はな)」であり、よって、

鼻は異界との「通路(チャンネル)」になっている、黄泉の国の空気と匂い

を吸ってきたイザナギの鼻から誕生したスサノオは、そのためイザナギを

慕い、「妣の国根の堅州国」へ行きたいと泣き喚いたのだ>という、鎌田

東二氏の説を引用し、さらに、本居宣長の、鼻で嗅ぐことの方が黄泉の国

との結びつきがより強いという発言をあげながら、アマテラス・ツクヨミ

とスサノオの違いは、ここに原因を求めることができるといいます。

 

つまり、アマテラス・ツクヨミ=日・月として天空にある神と、それと対を

なす闇としてのスサノオであり、それは日(=視覚)に対する鼻(=嗅覚)

から誕生したためと考えることができるとしています。

 

ところで、スサノオが行きたいと言ったという「妣の国根の堅州国」とは

何を指すのでしょうか?「黄泉と国」とはどう違うのでしょうか?

 

山田氏は、まず、「黄泉」とは、漢語で地下を意味する言葉であっても、

日本古代の「黄泉」も地下世界を表すに違いないとは言えない、ただし、

死とかかわる世界という大きな枠組みの中には入るとしています。また、

スサノオにとって「妣」はイザナミであり、「妣の国」は「黄泉の国」を

指すことになると言います。

 

そして、「根の堅州国」とは、「根の張っている堅固で立派な土地」を意味

し、「妣の国根の堅州国」とは、「妣の国の中の根の堅州国」と考えられ

るとしています。

 

かくして、スサノオはイザナミとの強い結びつきを感じるが、高天原や葦原

中国とはつながりを持たない神であったと述べていますが、どうなので

しょうか?

 

さて、スサノオの真実を考える資料として、以前にも引用した、水波一郎

氏の著作で今は絶版になっている『禊神秘の法』のなかで、スサノオに

ついての霊魂学的な見解、つまり、古事記に暗示されたスサノオという

神的存在の深い意味について述べられていますので、最後に紹介して

おきたいと思います。

 

<スサノオは、やることなすことが秩序に反しているが、彼こそが日本人

の、いや、全人類の救いであり、偉大な神格である。しかし、この偉大な

神格はなぜ人間的悪行の象徴になってしまったのであろうか?>

 

<このスサノオが悪神に描かれている背景に、人間たちのわがままと、

傲慢が隠されている。つまり、人間たちは地上に生活しており、不自由

であるために、より自由な生活を夢見ており、自分たちに不都合なこと

は考えたくないものなのである。その結果として、アマテラスやイザナギ

を高く位置づけてスサノオのような不都合な神は低く位置づけたと思う。>

 

<神話の中で、スサノオはイザナギの意思に背き泣いてばかりいたとあるが、

それは、もう別の世界へ行ってしまって、醜く汚いと教え込まれた母の愛を

知りたがったからである。パワーであるスサノオには、母の愛がどうしても

必要であった。つまり、スサノオはその後、人間たちの世界へ降りるが、

それは母を持つ人間たちの愛の意味を知りたかったということである。>

 

<神々の世界は高貴すぎて、地上とは異質であり、そこにおける母性とは

神霊の女性的側面でしかなかった。それは人間たちには無関係であることを

知り、スサノオは父なる神に反抗し、地上に降りるのである。>

 

<スサノオは、その前に、兄弟神である天照大御神に面会する。その面会

のときには、大きな災害が起きる。そして二神は契約を交わす。その結果、

アマテラスは天上の神として上方から地上に光を送り、スサノオは地上に

降りて地上の邪を退治する。>

 

<そして、スサノオは、天界を追い出され地上で妻をめとる。剣の力で

妖怪を退治し、人々を守る。彼は人間たちの心を深く理解し、人々と同じ

ように苦悩するが、人々から良く思われない。人々は彼を無視し、彼を

受け入れなかった。>

 

<力の神が父なる神に逆らい、神々の世界から地上に本当に降りたとすれ

ば、人々にとって力の神は脅威である。力の神は人々のために妖怪を退治

した。しかし、力の神は、それ以外に存在する価値がない。太陽は毎日

必要であり、月も必要であるが、パワーは妖怪がいなくなれば大切では

ないからである。>

 

<力は時として善であり、同時に悪でもある。それは人間たちにとって、

都合が良かったり、悪かったりする。人々の勝手な自由は、スサノオを

アマテラスよりも低く位置づけるのである。>

 

<やがて、スサノオは神々の世界に戻っていく。父なる神に追放され、

兄弟の神と約束した高貴な御霊は、大悪人のごとく描かれ、悲しい

生涯を終えたのである。神話は霊感の書であり、物語によって象徴的

に記されている。スサノオを受け入れず、父の子を磔にした人類に

救いは遠い。>

 

<だが、アマテラスやツクヨミより一段下げられてしまったといえる

スサノオは、人々のために禊を指導なさる。それはスサノオの本質が

救いだからである。><スサノオの命は今実在しており、禊法の修行者

に対してこう言いたいのだろう。「禊とは、善悪を超えた巨大な力との

交流なり」と。>

 

以上のことから、読み取れることは、アマテラスは、天上、つまり

高貴な世界にいて、そこから光を降ろす神霊であるが、スサノオとは、

父なる神に逆らってまでも、地上、つまり、この物質の世界へ降りて

人々を救おうとした高貴な神霊である。

 

そして、母を求めたのは、神的世界の母性とは、神霊の女性的な側面に

すぎず、母を持つ人間たちの愛の意味を知りたかった、つまり、地上の

人間というものの真実を知りたかった、ということである。

 

しかし、身勝手な地上人間は、都合のよいときだけスサノオにすがるが、

都合が悪くなると、その巨大な力を恐れ、悪神と貶め、死刑にさえしよう

としたのである、ということのように思われます。









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