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真実の仏陀


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仏教下 



前回は、聖典における伝説の仏陀と歴史上の仏陀とのからみ合いを解き

ほぐしながら、仏陀とは本当はいかなる存在であったかについて見て

きましたが、今回は、より深く真実の仏陀というものに接近して
みたいと思います。

 

まず、仏陀の人格というものは、どういうものだったのでしょうか?

 

ヘルマン・ベックは、気品をそなえた柔和と慈愛こそは、この類いなき人物

のもっとも著しい特徴をなしている。もう一つの仏陀の本質的な特色は、

一種の冷静な自制心であって、これが仏教全体の特質である非人間的な感じ

を仏陀に与えていると述べています。

 

また、仏陀の人柄について、また仏陀に関係のある事柄についてのあらゆる

記事から見ると、仏陀はじつに、あらゆる俗世間の関心事や、あらゆる感覚

世界や、あらゆる低級な人間的な営みをまったく超越して、ひたすら霊的な

ものにおいて生活した人である、と見なければならないとしています。

 

そして、この霊的なもののみに集中された仏陀の強烈な内面生活から流れ

出たものが言葉の威力、無比の威力である、このような威力は、弟子たち

のこしらえごとにすぎないというようなものではなくて、仏陀の生涯の

事業の成果全体から見て、実際に仏陀にそなわっていたに違いないと

述べています。

 

たとえば、「不思議である、驚くべきことである。あたかも、曲がった

ものをまっすぐにするように、または、おおわれたものを開いてみせる

ように、または、迷っているものに道を示すように、または、闇の中に

灯明をともして眼のあるものにものを見せるように、まさにそのように、

聖者はさまざまの見地から真理を啓示してくださった。私は聖者と、教え

と、教団に帰依いたします」という、聖典にきまって記されている回心の

結び文句は、教化を受けたものが、師の言葉の威力による感銘を言いあら

わしたものであるが、この文句の意味は、さまざまの点からみて示唆する

ところが大きいと言います。

 

まず、第一に、その示すところは、仏陀の威力を催眠術のように濫用する

ことなどは決してせず、教化の相手に智慧の光明をあらわしてやり、智慧

によって感化することを欲したこと。第二に、この「智慧」は普通の認識

ではなくて、いっそう高く、いっそう内面的な智慧であり、この智慧は

あらゆる普通の思考と対立するものであって、通常意識のあらゆる表象

や先入見をほろぼすもの、であるとしています。

 

しかし、仏陀は何か理論とか、何か宗教的な、または哲学的な教理を聞き

手に教え込もうとしたのではなく、むしろ完全は回心、思考と感情との

全体の完全な一新を聞き手の心に引き起こそうとしたのであって、こう

いう方向において仏陀の言葉にそなわっていた独自の威力が、同時代の

人々には奇跡のように感じられたのだと言います。

 

たとえば、仏陀は、その認識と教説とを概念的=理論的=論理的形式に

当てはめた(十二因縁など)が、それは当時のインドの精神的発展のあり

方全体を考慮したものであり、「真理」とは、こまごました理屈にかかり

合う悟性とか、ただの哲学的思弁とかいうもので把握できるようなもの

ではないのであり、このことを仏陀はきわめてはっきりと、繰り返し明言

しているとしています。

 

つまり、仏陀は、教説や抽象的概念を教え込もうとしたのではなく、内面

的な心霊の変化をもたらし、思考と感情と意欲との全体を一新することを

めざしたということです。

 

仏陀が出現し活動した時期は、ヴェーダにはまだ多く残っているような

原初時代の形象的な思考と表象との様式が衰えて、概念的、抽象的、哲学

的思考がそれに代わった時代であって、仏教もまたその「真理」を新しい

思考形式にふさわしく表現しようと努めたといえます。しかし、仏陀は

そういう概念的な要素を説法の方法に採用したとはいえ、ただの物知り

ぶりを求めたのではなく、バラモンたちのやり方とは反対に、言葉を民衆

的に表現し、一般の人々が理解できるように語ることに意を用いたのです。

 

さて、ここまで仏陀が同時代の人々に与えた影響をその語った言葉に焦点

を当てて見てきましたが、ベックは、ただ仏陀の言葉の威力にのみ着目する

のでは一面的であるとして、もう一つ別の威力、つまり、沈黙の意義を

正しく把握することは、仏教全体を把握するためにきわめて重要だと

述べています。

 

仏陀の考えとしては、沈黙というものは、人間が所有し、または習得する

ことができる特質の中で、もっともすぐれたものの一つであり、仏陀自身

はこの技術の達人であったということです。仏陀は、沈黙は貴重で高尚な

ことである、それは積極的な意義を持っているというのです。

 

よって、仏教の概念や述語には、他のインドの諸学派、ことにサーンキャ派

やヨーガ派と共通するものも多いが、仏教とそれらの諸学派との相違点は、

仏陀が説いたことよりも、むしろ沈黙したことがらのほうが多いといいます。

 

仏陀が口を開くは、理論的欲求を満たすためでもなく、好奇心や知識欲を

満足させるためでない。仏陀はただ相手の内面的変化を起こさせることを

めざすのだということです。

 

かくして、仏陀を正しく理解するためにどうしても考えなければならない

ことは、現代人が考えるような動機ではないこと、かつまた、仏陀が見出

した智は、今日、「知識」とか「認識」とかという名で理解されている

あらゆるものとは、まったく質のことなるものであることなのだといい

ます。仏陀がその「教義」を説いたのは、一つの学派の賛同者をかり集め

るためではなくて、霊的な世界から授けられた超験的な義務であると信じた

一つの使命を人類のために果たすためであったというのです。

 

なお、仏陀の沈黙というと、看過できないものに、宇宙が永遠か非永遠か、

無限か有限か、というような超験的諸問題の質問、または、肉体と心霊と

の関係や死後の生命のようにいつの時代でも宗教的要求に密接な関係の

ある質問を受けたときの沈黙がありますが、これらは何を意味するので

しょうか?

 

これらの問いをしりぞけた仏陀は形而上学の問題に対してただ冷淡であった

にすぎないと推測し、こういう問題は仏陀にとって問題にならなかったと

推定するとすれば、この場合に理解が十分ではないとベックはいいます。

そして、仏陀が何を意図したかということについて、『中部経典』の

『マールンキャ小経』の比喩を引用しています。

 

あるとき、マールンキャプッタという僧が仏陀のところへ来た。彼は宇宙

が永遠か永遠でないか、無限か無限でないか、心霊が肉体と異なるか、

死後に存在するか、ということについて聖者が説明してくれないのを不満

に思っていた。彼は仏陀にせまって、これらの問いに肯定か否定かの答え

をしてくれるよう、もしくは「私は知らない」と答えてくれ、答えてさえ

くれれば、今までどおりに仏陀の弟子になっているが、もし答えられなけ

れば還俗するつもりであると言った。

 

これに対して、仏陀は、毒矢に当たった男の比喩で答えるのですが、その

答えは、俗世間の生活にとらわれ、俗的な苦悩や生存欲から抜け出すこと

のできない人間は、毒矢に当たった男と同じで、何をおいてもまず矢を

抜いてやらなければならない。そして、矢を抜いて傷の手当てをすると

いう実際の行動が大切なのであって、矢のありさまや出所、または射た者

の名や種族や素性の詮索などはどうでもよいというのです。

 

つまり、仏陀が出現したのは、理論的、哲学的な問いに答えるためでは

なく、傷つき苦悩している人類を救うためであるということです。

 

よって、「神」、または、形態や名称はどうであれ、最高原理についても

仏陀は沈黙を守ったのです。

 

仏陀は、最高の神的なもの、または霊的なものをあからさまに否定は

しなかった。それを否定することも、それを積極的に肯定することと

同じく、仏陀の意志ではなかったのであり、他の宗教では、最高の神的

=霊的なものについてさまざまに説かれるが、それは仏陀にあっては

沈黙なのであったということです。

 

ところで、仏陀の真実を知るヒントとして、水波一郎氏の著書「神体

-偉大なる魂の生涯-」の中では、次のように述べられています。

 

<歴史はインドに、あるキリスト(固有名詞ではなく、偉大な神人の称号)

を誕生させた。その魂は今、高級霊界で『シャカ』と呼ばれる仏陀である。

シャカは真理を説くために自らを犠牲にした。自己を落とすことにより

世界を照らそうとしたのである。それは仏教ではなく真実の道であった。

 

シャカが十五歳の時、一人の女性が彼を見て言った。「私が前に信じた先生

に似ている。」そして、彼が三十歳になった時、その女性はこう言った。

「貴方はなぜ神を知らないと言うのです。貴方の教えは間違っています。

貴方は嘘をついています。私は貴方を知っています。ある時、貴方が私の

夢の中で確かにおっしゃいました。『私は神である。』と。

 

そして、こうも言われました。『私はあなた方に本当の神を教えるために

降りて来た。しかし、人々は受け入れない。私は真実を説くことはない

だろう。しかし、貴方にだけは教える。別の神が地上に降りた時、私は

別の世界から人々を導こうとするだろう。』こう言われて貴方は消えました。

私にだけは話してください。貴方の本当の教えを。」

 

その時、シャカは答えた。「それは私ではない。私は人間だ。私は人間と

して真実の道を説いている。私は神を知らない。私は人間であるから

奇跡を知らない。神を求めるなら自分で見つけなさい。私は神を示すため

ではなく、人間を示すために来たのである。

 

この国は貧しい人が多い。飢えた人達にとって、本当の道は神を知ること

ではない。それはただ依存者を増やすだけである。およそ人間は神を

知ることなどできない。至上の存在は、魂にとって、法則そのものとも

言い得るからだ。人間は神より先に法則を知らねばならない。より大切で、

より身近な法則、それを知ることがこの国における人間の道である。私は

神を知らない。だから神を説かない。そして神に祈らない。私は人間を語る

のみである。貴方に伝える。人間にとって神は私ではなく、『法』である。

 

彼女は不満げに立ち去った。しかし、シャカは彼女に満足であった。彼女が

シャカに神を見たからである。>

 

ここからも、仏陀は真実を語ることができず、多くは沈黙守らざるを得な

かったこと、そして、語るにしても、その時代の差し迫った課題のみに

限らざるをえなかったということが伺われるように思います。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 龍
  (水波一郎 著 アマゾン 発売)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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