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最古の宗教-古代メソポタミア-


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最古の宗教 



その範囲がだいたい今日のイラクの領有域に重なり合うメソポタミアは、

地質学的にはそんなに古い土地ではないようです。

 

メソポタミアは、ヨーロッパを襲った最後の氷河期が終わってしばらく

たったのち、おそらく今から一万二千年ほど前に、その姿を現したと

いうことです。

 

いたるところで大気中の湿度と降水量が減少する現象が起こり、その影響

は近東全域にも波及しました。北にコーカサスの山地がそびえ、東はイラン

高原に阻まれ、南はペルシャ湾に面し、西は荒涼としたシリア・アラビア

砂漠に接する、泥から形成された土地は、その時点までは一本の巨大な川

の河床であったが、この川はのちに規模を縮小して、ずっと細い二本の流れ

に姿を変えます。すなわち、ティグリス川とユーフラテス川の誕生です。

 

遅くとも、紀元前六千年頃から徐々に日の目を見るようになったこの土地

の最初の住人は、おそらくは北西、北、そして東に隣接する高地から来た人

であろうとされるが、彼らは、いくつかの異なった民族系統と文化圏とに

属していたと思われるものの、彼らに関しては、若干の考古遺跡が発掘

されているほかは、詳しいことはわかっていないということです。

 

何世紀にもわたる停滞期が過ぎたのち、紀元前四千年紀以降か、あるいは、

それより少しさかのぼる頃から、事態は徐々に動き出したようです。

 

この頃、結果的にこの地に固有の歴史を始動させることとなった二つの事柄

が起こったとされます。

 

第一にあげられる事柄は、人工的な灌漑の発明です。この地味豊かな土地は、

ヒツジ等の動物の飼育と穀物栽培に適していた。しかし、降水はわずかで、

しかも冬季に集中していたため、ある日、人々は運河を掘って川から水を

導くことによって土地の灌漑が可能になり、生産の増加が実現することに

気づいたという。

 

こうした企ては、必然的に少数の村人たちのグループよりはずっと規模が

大きい集団を動かすことが必要となり、それぞれ孤立したささやかな集落

が次第に連合し、一人の指導者のもとで大きい政治共同体を形成していった

が、のちの都市国家と文明の形成も、またメソポタミアにおける堅固な君主

体制の伝統も、ここを出発点としているということです。

 

同じ頃に起きたと思われるもう一つの重要な出来事は、シュメール人の到来

です。『最古の宗教』の著者ジャン・ボテロは、この出自不明の人々を、

何らかの人種的、文化的、言語学的系統に結びつけ、その正体を見極める

には未だ至っていないとしながらも、有名な伝説、あるいは神話が語る伝承、

すなわち、『七人の賢者』が一つの仮説を提供してくれるように思われる

と述べています。

 

それは、まだ未開で粗野な状態にあったメソポタミア南部の人々が、文明

生活を成立させるすべてのことを外来の「海から来た存在」に教えられた

というものです。神話というものは、しばしば古い記憶をわずかに手を加え

ただけで伝えるものであるが、この話がある移民のことを問題にしていて、

移住がおそらくは平和裡に進行したこと、高度な文化を身につけた人々が

到来したことによって、この地の生活水準が向上したことを物語っている

と理解したいとしています。

 

それゆえ、シュメール人たちが海岸地域から、あるいは海岸を通過して、

おそらくはイランのペルシャ湾沿の地域を通って到来したのではないかと

想像されるが、彼らはメソポタミア南部の沼沢地域に住み着いたと思われ、

のちになってこの地域は、「シュメールの地」と呼ばれるようになり、

シュメール人の呼称となったということです。

 

ところで、より北方のもう一方の地、ジェベル・ハムリーンを北限とする

地域は、古い文書が「アッカドの地」と呼んでいる土地があります。

「アッカド人」とはセム系の一部族の呼称で、おそらく知られているセム

人の中では、もっとも古い部類に属するが、彼らはこの「アッカドの地」

にやって来て居住したようです。

 

セムの人々の古い歴史がどのようなものであったのかは、知る術がないと

しながらも、ジャン・テロは、その源は、たぶん、遅く見積もっても紀元

前四千年紀以降に進行したと推測されるアラビア半島の砂漠化にさかのぼる

ことになるだろうと言います。彼らのうちの有力な一群は、今日のシリア、

ちょうど広大なシリア・アラビア砂漠の北の縁にあたる地域に出没するよう

になった。彼らは小型の家畜を飼育しており、放牧に適した土地を求めな

がら、半遊牧生活を送っていたが、歴史時代に入り紀元前三千年紀以降に

なると、メソポタミアの地の人々の豊かで進んだ生活に引きつけられた彼ら

の集団が、大小のグループを作ってこの地に浸透し始める。彼らはユーフ

ラテス川の流れに沿って移動し、この豊かな文明に多少とも征服されたり、

呑み込まれたりしながら、やがて定住するようになったと述べています。

 

なお、これらの人々が、我々が「アッカド人」と呼んでいる人々であるが、

『七人の賢者』の神話が示唆しているように、のちになってシュメール人

に学び、文明化したのだとしても、シュメール人の到来以前に、彼らが

この地に居住していた可能性さえ否定できないとも述べています。

 

そして、シュメール人とアッカド人は、おそらくは相互に、そして先着、

あるいは後着のほかの民族や文化とも混じり合いながら、この地において

敵対することなく共存した。我々の目から見て、シュメール人とアッカド

人の邂逅、接近、そして、ある程度の期間の共生状態こそが、独創的で

複合的な混合文化を誕生させた。それはまさに、この時期のものとしては

例外的ながら、文明という肩書を付すにふさわしい高い水準に達したもの

であり、こののち、およそ三千年にわたってメソポタミアの地で成長し

大きな力を発揮することになるものであったということです。

 

ただし、シュメール人は、メソポタミアに現れて以来、その先住の地に

残してきたはずの同族から新しい血族を迎え入れることがないまま、

次第に姿を隠し始め、ますます増えるセム系の人たちの中に否応なく

吸収されていったようです。

 

紀元前三千年紀以降、シュメール語が原則的に書き言葉として保持される

一方で、日用ではアッカド語が次第に取って代わり、やがて唯一通用する

話し言葉の地位を獲得することになります。しかしながら、その草創期から

シュメール人がメソポタミア文明のいたる所に残してきた消しようのない

刻印のなによりの証拠として、文人たちは常にシュメール語に忠実であり、

彼らはメソポタミア文化が終焉を迎えるおよそキリスト紀元年あたりまで

の間、日用では死語になっていたシュメール語を、古い時期の姿にある

程度準じた形で、神聖な文化手段として使用したということです。

 

このことから、まず我々の目につくことは、シュメール人の明らかな文化

的優位性であり、それは宗教の諸側面にも現れている。また、先にも触れた

『七人の賢者』の神話が、「海から来た人々」が「文明生活を構成するすべ

ての事柄を教えた」と述べていることは、彼らがまだ多少とも遊牧状態に

ととどまっていた粗野なアッカド人に何を教えたのかを実によく説明して

いるし、また、『ギルガメッシュ叙事詩』が語る当初「野生」の状態で

あったエンキドの文明化にしても、同様のことを示唆しているとジャン・

ボテロは述べています。

 

ミルチア・エリアーデも、『世界宗教史Ⅰ』所収の「メソポタミアの宗教」

の中で、シュメール語が紀元前二千年ころには話されなくなったのに、

以後十五世紀間、典礼言語と知識言語としては機能していたという事実に

注意を促すことは重要であるとしながら、シュメールの宗教的保守主義は、

アッカドの宗教的構造のなかに引き継がれたと述べています。

 

さて、シュメール、アッカドのあと、古代メソポタミアは、古バビロニア、

ヒッタイト、ミタンニ、カッシート、アッシリア、新バビロニア等と、国家

・民族の興亡が繰り返されますが、これらの諸民族はそれぞれ独自の神話

体系を持っており、実の三千を超える神々の名前が楔形文字によって残され

ていると言われています。

 

次回は、以上のような背景を踏まえながら、古代メソポタミアの宗教その

ものについて迫ってみたいと思います。


 
 
 
 
 
 
 
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