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古代メソポタミアの宗教感情と表現-最古の宗教2-


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世界宗教史1 


前回の最後に、「シュメールの宗教的保守主義は、アッカドの宗教構造の

なかに引き継がれた」というミルチア・エリアーデの言説を紹介しました

が、より具体的には、シュメールの三至高神、アヌ(アン)、エンリル、

エア(エンキ)はそのまま残った。三天体神は、それぞれセム語の神名を

部分的に取り込んでいる。すなわち、月神はスィン(シュメール語のスエン

から派生している)、太陽神はシャマシュ、金星神はイシュタル(イナ

ンナ)である。冥界はエレシュキガルとその夫ネルガルが治め続けた。

 

王国が必要とした数少ない変革、たとえば、宗教的優位のバビロンへの移動

と、マルドゥクによるエンリルとの交代は、実現に数世紀を要したし、神殿

については、建物の規模の大きさや数を除けば、シュメール期以降、全体的

配置に何も本質的な変化はなかった、と述べています。

 

ただし、セム語系民族の宗教的天才による貢献がいくつかつけ加えられたと

いいます。まず、注目されるのは、二柱の「国家」神、バビロンのマルドゥ

クと、のちのアッシリアのアッシュルが普遍神の地位まで昇格したことで

あり、同じように意義深いのは、個人の祈りと悔い改めの詩が祭祀のなかで

もつ重要性であるとしています。

 

アッカド宗教思想のもう一つの創造物は占いである。また、呪術の興隆と

秘術学(とりわけ占星術)の発達が著しく、のちにそれらは、アジア世界

や地中海世界の全体に広まることになるとも述べています。

 

さて、古代メソポタミアにおける宗教感情とはどういったものだったので

しょうか?

 

ジャン・ポテロは、当時の祈祷や詩歌、讃歌、頌歌を見ると、文体がいかに

も形式的、常套句の羅列であるとはいえ、真の宗教心の高揚が見られると

述べています。

 

超自然的な存在は、ここでは冷徹な理性による賞賛の対象にはなっておらず、

超自然が古代の人々のなかに呼び起こした、心からの崇敬の念、深い敬虔な

心、議論の余地のない感動が、これらのなかに認められるというのです。

 

そして、このような宗教感情は、もう少し接近して把握してみると、明ら

かに「遠心的」であり、「畏怖」の型に属するものである。興奮や「ディ

オニソス的陶酔」の要素は全くなく、我々の世界の信仰心とも大きくかけ

離れている。言いかえれば、人間の姿をした多くの格によって具現されて

いる神は、まず、非常に偉大で、近づき難い恐ろしい存在、支配者と感じ

られたということです。

 

つまり、神は決して心はやる熱狂的な探求の対象にはならなかったので

あり、メソポタミアの宗教には、「神秘的様相」は全くなく、神々は非常

に高位にある「権力者」と捉えられ、人々はこの権力者に対して全面的

にへりくだって服従し、奉仕に努めた。神々は遠くにいるあまりに高貴な

主人、君主であり、決して朋友などではなかった。人々は神々に服従し、

神々を畏れ、その前でひたすらへりくだり、震えたのであり、決して神々

を「愛する」ことなどなかったとしています。

 

もっとも、神々に対するより穏やかな気持ちを伝える表現にも、かなり

頻繁に出会うこともあるようです。しかし、それは、より近づいて観察

してみると、常に恐れの感情が優先していることがわかるとしています。

 

なお、神が遠くの隔絶した位置にいる畏れ多い存在であるという感覚は、

セム人の諸宗教のいずれにも認められるものであり、特に旧約聖書の

なかにそのもっとも高揚した姿が見られるが、メソポタミアにおいても、

この感覚は広く人々の心を支配しており、その点に関しては、どのような

形であったにせよ、すでにシュメール人の心の底にも根付いていたのでは

ないかということです。

 

かくして、神に近づき、個人的な幸福と安らぎの対象として追い求めよう

とする、いわゆる「神秘的」態度を伝えるテクストは皆無であるとともに、

神は真の意味で「非物質的ではなく、いかなる文書にも、人間の内部に神

が臨むという理解が存在した痕跡を見せることはないということです。

 

さて、ジャン・ポテロは、メソポタミアにおける宗教感情を比較的短い

表現で示唆するとすれば、それは、是非とも「知る」必要があること、

と言い換えることでできると述べています。

 

太古の時代から古代メソポタミアの人々は、この世についての無数の謎を

解消するために、背後にその謎の数と同じだけの人格を想定することが

妥当であると直観したというのです。

 

つまり、人々はこの世界を、超自然的な人格が対応するもう一つの世界と

二重写しに見ていたのであり、それぞれの超自然的な人格の名は、その

役割によって規定されたということです。アンは天であり、また天の神

でもあった、ウト/シャマシュは太陽であり、また太陽の神でもあった

というように。

 

さて、このように、人類を含むすべてに対し超自然の人格が付与されて

いくことによって、多数の超自然の人格の集合体が誕生することになる

のですが、この「神々」の想像上の共同体は「パンテオン」と呼ばれて

います。

 

「神」はシュメール語でディンギル、アッカド語でイルとされますが、

パンテオンを構成しているその「神」の数は膨大なもので、その一覧に

は二千~三千の名前が列挙されているということです。

 

ともかく、新しい文書が発見されるたびに、それまで知られていなかった

新しい神々の名が現れるのであり、神々のリストは、決して締め切られる

ことはなかったし、これからもないだろうということです。

 

しかし、メソポタミアにおいて、これほど多くの超自然的存在が果たして

どのような形で崇拝されていたのでしょうか?

 

アッカド人たちは、基本的には、シュメール人が「発明」した数多くの

神々を受け入れたようですが、その過程で神々の「組織化」が行われて

いったようです。

 

つまり、これまでそれぞれ無秩序に独立していた多数の神々は、各々大小

の集団に分かれ、各集団は中心となる一人の神格に帰属し、全体としては

秩序に従った一つの体系、すなわち「権力のピラミッド」を形成すること

になったということです。

 

そして、マルドゥクのような頂点に立つ「神々のなかの神」が出現するの

ですが、それは単一神観という言葉で説明されています。それは唯一神観

の場合とは異なり、神々の複数制を認めているのであるが、今この場に

おいては、ただ一つの存在のみに関心を寄せ、それのみにみずからを結ぶ

もので、ある意味で、多神観よりも一段進んだ形態であると言われます。

 

さて、それでは、メソポタミアの人々は神というものをどのように考えて

いたのでしょうか?つまり、どのような姿をし、どのような振る舞いを

すると考えていたのでしょうか?

 

基本的には、神人同形観という概念に集約されるようです。人々は神々

が人間と同様に本物の肉体を持つと確信していたようなのです。

 

つまり、メソポタミアの人々は神を「人間」をもとに、その特段に高邁

で優越的な姿とともに思い描いていたということです。よって、メソ

ポタミアの人々が「神性」の概念を規定したことはなく、場合に応じて、

神々の特別の能力や権限を適宜に表現するだけであったのです。

 

よって、神々の像を描くにあたっては、人間の姿がもっぱら用いられたが、

人々は神像について、非常に現実的な概念を抱いていたようです。つまり、

神像は漠然としてではあるが、神そのものであった、あるいは神という

存在を内包していたのです。

 

そうなると、神々の振る舞いは、当然のことながら、人間のそれに倣った

ものになりますが、宗教祭儀さえも神々が人間と同様のものを必要とする

ことを前提に成立していたようです。

 

すなわち、飲むこと、食べること、衣装と装身具を身につけ、広大で

ぜいたくな「住居」で、にぎやかな宴の席を囲みながら、豊かで憂いの

ない生活を送りたいという望みを満たすこと、等々です。

 

とにかく、神々は非常に人間的で、ビールを飲みすぎて気が大きくなり

失敗してしまったり、自由恋愛の結果、肉体に溺れたりと、ときには

人間が持つ弱点のみならず、人間の欠点さえも持ち合わせることが

あったのです。

 

しかし、一方で、少なくとも、バビロニアの紀元前二千年紀以降の「神学

者たち」が、神々の間の存在の優劣、言いかえれば、それぞれの「神と

しての本質」の力量を、もっとも非物質的で「抽象的な概念」である

数字や数量を、各々の表象として割り当てることによって明示しようと

した(アンは数字60、エンリルは50、エアは40というふうに)

ことを我々は認めざるをえないとジャン・ポテロは述べています。

 

そして、星を使ったシンボルの適用、そし数字による抽象化は、超自然界

の超越性と神秘性を強調するための一つの試みと捉える必要があるとして

います。

 

なお、神々のほかに、古代のメソポタミアの人たちが思い描いた超自然的

存在として、天体(月、太陽等)や、そびえる山々、水流などの具体的な

「事象」、そして、「デモンたち」と呼ばれる有害で危険な存在あるいは

「力」などがあったようですが、それらは人間よりは上位であるが神々

よりは劣るものであったようです。

 

さて、それでは、メソポタミアの神々の起源、宇宙(世界)の始まり、宇宙

(世界)の構造、そして、人類の誕生と死後の行方などはどのように考え

られていたのでしょうか?

 

次回は、それらのことについて触れてみたいと思います。







 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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