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「ヨブ記」1


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ヨブ記 



ヨブ記は、旧約聖書において、創世記などと共に最もよく知られて書物

ですが、それはユダヤ教、キリスト教の信仰や神学と関係が深いのみ

ならず、ヨーロッパの文学や哲学ともかかわることが大きいとされて

います。

 

ヨブ記は、旧約聖書が、1.モーゼ五書、2.歴史および物語、3.詩歌

と教訓、4.予言の四つの部門から成り立っているなかで、第3の部門の

冒頭に置かれていて、内容的には詩歌であり、またある意味では教訓でも

あります。

 

なお、旧約聖書の原典では、第一は、「律法」、第二は「予言者」、第三は

「諸書」もしくは「雑書」となり、ヨブ記はこの「諸書」のなかに編入され

ているということです。

 

さて、ヨブ記は、通常「知恵文学」の名称で呼ばれていますが、それはどう

いう意味を持つのでしょうか? 浅野順一氏は次のように述べています。

 

まず、第一に考えられることは個人的だということである。つまり、聖書の

宗教は、契約の宗教であり、旧約では、神と民族との特殊な関係であるため、

「律法」、「歴史」、「予言」は民族的な性格が強いが、「知恵」においては、

それが背景になっているものの、他の部分と比較すると個人的な傾向が

著しい。

 

第二に、人間の経験ということが重要な要素になっている。つまり、律法や

予言に示されているものが原理的なものとすれば知恵はもっと経験的なもの

である。ヨブのような切実な苦しい体験を通して、信仰とは何かということ

が追究されている。

 

第三に、知恵の性格が前述のごとく個人的であるために、それは民族を超え

ている。ヨブ記においてもヨブを始め、彼の三人の友人はセム人であるが、

へブル人そのものではない。そこに、この書の超民族的、国際的、普遍的

性格がある。

 

第四に、ヨブ記を始め他の知恵文学においては信仰の在り方が、神から

人間へという方向と同時に人間から神へという逆な方向が示されている。

もちろん、聖書の宗教は啓示ということを基本にしていて、知恵文学に

おいても神から人間への方向が太く一貫されているが、それと共に人間

から神への方向がまた重要になっている。つまり、神の啓示を人間がどう

受け止めるかということに重点がおかれている。

 

このことから、この書は昔からユダヤ教徒、キリスト教徒によって重く

見られているばかりではなく、もっと広く一般の文学者、思想家によって

しばしば問題とされてきたのです。

 

さて、本書の名称は、その主人公であるヨブから来ていますが、この書の

著者は誰であり、その年代はいつ頃なのでしょうか? 

 

著者についてはまったく不明で、相当に学識もあり、文学的な才能にも恵

まれ、しかも敬虔な一ユダヤ人ということ以上のことはわかっていない

ようです。ヨブという人物が実在したかどうかは判然としないが、作者は

ヨブのごとき深刻な苦悩を体験した人ではなかろうかと言われています。

 

また、この書の書かれた年代もまた明らかではなく、諸説あるが、旧約

文学史の初期ではなく後期、知恵文学においても比較的おそい時代の作で

あるようです。もっとも、ヨブ記の物語の原型となるものは古くから伝え

られていたと考えられるが、現在の形のヨブ記としてまとめられたのは

ずっと後世のことだということです。

 

なお、年代がギリシャ文化のパレスチナに次第に浸透してきた時代と近か

ったため、ギリシャ文学の影響をそこに見る研究者もいるようですが、

浅野順一氏は、一方が他方に影響したとか、されたとかいうことよりも、

当時の文化が一様にかかる問題と取り組まざるを得なかった時代的背景が

あったためではないかと述べています。

 

そして、その問題とは、人間は何故、苦しまねばならないのか。しかも、

ある者は自分の責任でないにもかかわらず苦しまなければならない。一言

にしていえば、義人の苦難は何故かということであるとしています。

 

さて、では、この書の文学としての構造、組み立てはどのようになって

いるのでしょうか?

 

まず、ヨブ記の1章、2章はプロローク(序曲)であり、そこではヨブが

財産を失い、家族を奪われ、自分自身も重病に侵されという三つの大きな

試練に出会う様が散文の形で描かれています。

 

そして、3章以下は詩の形式となりますが、その内容は、3章-31章は、

不幸なヨブをはるばる遠くから訪ねた彼の3人の友人、エリパズ、ビルダデ、

ゾパルと主人公ヨブとの対話となります。ただし、それはヨブを慰め励ます

ような穏やかな対話であるよりは互いに批判し合う激しい論争となります。

 

もっとも、彼らは最初、ヨブを慰めるためにおだやかに話かけたわけですが、

ヨブは彼らの言い分を聞き容れず、むしろ、彼らを反駁したというところ

から、次第にお互いに攻撃し合う論争となるのです。

 

32章-37章は、もう一人の若い人物エリフが登場してきますが、彼は

ヨブと論争するのではなく、それは演説、説教というべきものです。この

説教は基本的に先の三人の友人たちと変わらないものですが、それは対話

(ダイヤローグ)ではなしに独白(モノローグ)と言えるものです。

 

38章-41章では、神がヨブに対し大嵐の中から突然語りかけ、呼びかけ

ます。また、そのほかに天地、自然、動物、とくにワニ、カバのようなグロ

テスクな動物が登場します。ここでは神の自然創造または自然支配といった

問題が語られています。

 

42章はエピローグで、今まで友人を論駁し、神にまで抵抗してきたヨブが、

ついに自己の誤りに気づき、神の前に懺悔し、新しい出発をします。なお、

ここではプロロークと同じく散文の形式になっています。

 

以上のような組み立てになっているのですが、この散文と詩文とはいかなる

関係にあるのかという疑問が湧いてきます。

 

浅野順一氏は、いろいろな議論があるとしながらも、分かりやすくいえば、

ここに一つの額縁があるとして、散文はその額縁に相当し、詩はその中に

はめ込まれた絵画だということができると述べています。

 

聖書の大方の読者は、額縁すなわちプロロークとエピローグだけを読み、

ヨブ記を大体理解したと考えるであろうが、しかし、ダイアローグ(対話)

その他の部分を注意深く読むのでなければこの書を正しく理解したとは

いえないとしています。

 

浅野順一氏は、額縁もそこに非常に大きな問題が語られているから重要で

あるが、ある意味において、そこにはめ込まれている絵のほうが一層大切

だと言います。

 

たしかに、ヨブの三つの試練の叙述の終わりに、ヨブの言葉として「主が

与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」、「われわれは神から

幸をうけるのだから、災をも、受けるべきではないか」とあり、一応の

結論が出ていることは出ている、試練に対するヨブの信仰の告白が立派に

表現されているというのです。

 

しかし、ヨブはその痛ましい試練から一直線にそのような結論に到達する

ことができたのではなく、ヨブは義人の苦難という問題を与えられて、

その解答に至るまで大いなる苦悩を経験しなければならなかった。その

苦悩が三章以下のヨブと三人の友人たちとの対話(論争)の中で繰り返し

述べられているが、その経過は直線的ではなく、ジグザグ・コースを

たどっていて、何度も同じ主題をめぐりながらようやく結論に到達して

いるのです。

 

よって、そのジグザグのプロセス、すなわち絵画そのものをよく見な

ければヨブ記というものが真に理解できたとはいえないとしています。

 

よって、次回は、少し詳しくその苦悩のプロセスを追ってみたいと

思います。









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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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