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ヨブと友人との対話-「ヨブ記」3-


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ヨブ記3 



3章からは、散文から詩の文体になり、ヨブと3人の友人の対話、という

より論争が始まるのですが、その前に、まずヨブの嘆き(独白)があり

ます。

 

<やがて、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って言った。

わたしの生まれた日は消えうせよ、

男の子を身ごもったことを告げた夜も。

その日は闇となれ、

神が上から顧みることなく

光もこれを輝かすな。>

 

<なぜ、わたしは母の胎にいるうちに

死んでしまわなかったのか。

せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。>

 

<なぜ、わたしは、葬り去られた流産の子

光を見ない子とならなかったのか。>

 

ここでは、ヨブは、自分は生まれてきたということはそもそも間違いでは

なかったのか、そういう深刻な疑惑が起こり、「なぜ」という疑問が何度

も発せられています。

 

もっとも、このような痛ましい苦悩や疑惑は、それが大きい小さい、深い

浅い、の差はあっても、おそらく人間の一生の間に一度や二度、経験する

ことではあります。

 

前回紹介した『ヨブ記-その今日への意義-』の著者浅野順一氏は、ヨブ

記はただ苦難の歴史を歩んできたへブル人だけの苦しみを記しているので

はなく、人間である以上どこの国の者であっても、またいつの時代であって

も人間が生きていく、そのことに大きな問題があり、しばしば加重な苦難

を背負わねばならぬ、それは何故であるか、ということが普遍的な問題と

して、この書に問われているのだと述べています。

 

しかし、私たちの常識とは異なり、聖書の世界では自分の誕生を否定する

ことは、その創造者の行為を否定することに他ならず、ヨブはその原初

の出来事を否定することによって神の創造行為を否定しようとしている

ということなのです。

 

つまり、すべての生命、ことに人間の生命は神のものであり、神の許し

なくして人間は自己の生命といえどもそれを自由にすることができない

のです。

 

ヨブはその悲惨きわまる毎日の生活において心から死を願ったが、神は

それを許さず、かえって命を与え、光を賜ったのはなぜなのでしょうか?

 

ヨブは神に対して激しい抗議をしているのですが、浅野順一氏は、神への

真正面からの抗議なくしては、ヨブは最後において真の解決が与えられ

なかったと思われる、ヨブが生きる意義をまったく失ってしまったとき

にも、なお生きよ、という神の命令に従い、生の戦いを通して最後的な

解決を与えられたということは、はなはだ注目すべきことであると述べ

ています。

 

なお、佐々木勝彦氏は、「理由もなく-ヨブ記を問う-」のなかで、創造者

なる神は「語る」神である。聖書の信仰に生きる人間にとって、この応答

関係が破れてしまうこと、対話がなり立たないこと、これ以上恐ろしいこと

はない。現実の苦しみ中でこの問題にぶつかったのがヨブである。ヨブの

苦しみは二重になっていて、一つは、サタンによって仕組まれた数々の災い

であり、そして、もう一つの苦しみは、この苦しみと痛みを訴えるべき真の

相手、つまり、彼の創造者なる神が彼の問いに答えてくれないという体験だ

と述べています。

 

また、佐々木氏は、それにしても、ここに登場するヨブと前章までのヨブ

のギャップは大きすぎるとして、読者の驚きと混乱こそが作者の狙いであり、

作者は、明らかに私たちを非日常の世界へと誘おうとしているのだと言い

ます。

 

さて、四章に入ると、ヨブの激しい苦悩を見てじっと黙っていた3人の友人

たちが年長者から語り出します。彼らはいずれも、善には善、悪には悪と

いう賞罰応報主義に立って、ヨブの現状はヨブ自身の生き方の招いた

「結果」であり、これを受け入れ、悔い改めよ、と迫ります。

 

これに対しヨブは、それは事実無根だと反論し、彼らの対話、論争は延々

27章まで続くのですが、その対話、論争は大きく三つに分かれ、3人

(三回目は2人)の友人の弁論と、それぞれに対するヨブの弁論という形

でまとめられています。

 

とにかく、ヨブの立場と友人の立場はことごとく食い違うのです。それは

あたかも病人と健康者のごとしで、健康者には病についての理論はわかって

も、病人の感情を理解することは不可能であり、ヨブは友人に対し不平を

並べ、様々な抗議を申し立てるのです。

 

なお、佐々木氏は、そこでの対話、論争のテーマとして、「避けがたい現実

の苦しみを、どう受け止めればいいのか」、「人間の行為とその結果の間に

どのような関係があるのか」、「神は驚くべき仕方で世界を統治しておら

れるというが、そのことと私の痛みの間に、どのような関係があるのか」、

また、「人は神の前では清浄ではありえないというが、そのことと私の

苦しみの間に、どのような関係があるのか」といったものを挙げることが

できるとしています。

 

さて、ヨブが友人の言葉を拒否し、それに対して辛辣な反駁を加えるため、

次第に両者は論争的になっていきます。

 

先述の浅野順一氏は、ヨブ記にはいくつかの山もしくは峯があると思われる

が、その意味で、13章は一つの大きな峯であると思われるとしています。

 

<あなたがたの知っていることはわたしも知っている。

わたしはあなた方に劣らない。

しかし、わたしは全能者にものを言おう、

わたしは神と論ずることを望む。>

 

<今わたしの論ずることを聞くがよい。

わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい。

あなたがたは神のために不義を言おうとするのか、

また彼のために偽りを述べるのか、>

 

<あなたがたがもしひそかにひいきするならば、

 彼(神)は必ずあなたがたを責められる。>

 

上記のように、この章には「論ずる」とか、「言い争う」とかという言葉

が出てくるが、これは、ヨブとその友人、ヨブと神との間に法廷論争が

戦わされていると見ることができると浅野氏はいいます。つまり、ヨブ

は神の不当な彼への処置について訴えており、友人は神を弁護している。

それゆえ、ヨブは原告、神は被告、友人は弁護者の関係になるというの

です。

 

しかし、彼の友人たちがいかに熱心に神を弁護しても、それは本当の弁護

になっているのでしょうか?

 

友人たちは善意であり、善意のかぎりを尽くして神を弁護しようとして

いるが、ヨブからすると真の弁護になっておらず、結局、彼らの言う

ところは不義であり、偽りだというのです。

 

また、「ひいきする」という言葉があるが、神においては人間からその

ようにされる必要はいささかもない。それはかえって神の神聖を汚し、

その威厳を傷つけることになるのではないかというのです。

 

以上のことは、人間が神に対し善意のかぎり、誠意のかぎりを尽くしつつ、

かえってそれが虚偽となり、偽善となる恐るべき場合のあることを示して

いるのだと浅野氏は述べています。

 

さて、浅野氏は、19章にもう一つの大きな峯があると言います。

 

<わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。

わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、

わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、

わたしのはしためはわたしを他人のように思い、

わたしは彼らの目に他国人となった。>

 

<わたしの息はわが妻にいとわれ、

わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。>

 

<わが友よ、わたしを憐れめ、わたしを憐れめ

 神のみ手がわたしを打ったからである。>

 

以上のような弱気な言葉は、13章のように友人を厳しく批判し、また

激しく罵倒している彼の言葉とは到底思われないし、矛盾しているように

も見えます。しかし、そこにヨブの人間らしさ、彼のむき出しの人間が

よく表現されているのではないかと浅野氏は述べています。

 

そしてヨブは、この19章の後半において、二つのことを願っています。

 

<どうか、わたしの言葉が書きとめられるように、

どうか、わたしの言葉が書物に記されるように、

鉄の筆と鉛とをもって、

長く岩に刻みつけられるように。>

 

もう一つは、

<わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる。

後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、

わたしは肉を離れて神を見るであろう。

しかもわたしの味方として見るであろう。

わたしの見る者はこれ以外ものではない。

わたしの心はこれを望んでこがれる。>

 

さて、この二つ目の願いにおいて述べられている「贖(あがな)う者」と

は誰なのでしょうか?

 

浅野氏は、ここにいわれているあがなう者とは、ヨブの立場に立って彼の

義、その潔白を弁護する者の意であり、「仲裁者」、「証人」、「保証者」に

通ずると言います。よって、それは神であることを暗示しているとして

います。

 

しかし、ヨブの義の保証者となるべき神はさまざまな災いをもって彼を

激しく打つ神、すなわち怒りに神ではなく、ヨブの側に立って彼のために

とりなしをなすところの和らぎの神、彼を癒す神でなければならない。

ただし、それは複数の神々を指しているわけではなく、一人の神の二面の

働きと解することが妥当であろうと述べています。

 

なお、「肉を離れて神を見るであろう」という箇所は、伝統的に、来世に

おいて神を見る、ひいてはヨブの復活の生命を約束している言葉だと

されるが、浅野氏は、そうではないだろうと言います。

 

ヨブは、要するに、あがなう者は最後において必ずこの地上に立つときが

ある。そのとき、彼の義が明らかにされ、その義しさが証されるといって

いるのである。それはヨブがその病のためどんなに痩せさらばえ、骨と皮

の状態になり、死の一歩手前ということになっても、彼は必ず、彼自身の

目をもってあがないの神を見ることができるに違いない、しかも、それは

漠然とした期待ではなしに、あがなう者は必ず来るという確信をもって彼

の心はそれを望んで焦がれるのだ、としています。

 

さて、28章に入るそれまでのとげとげしい雰囲気とは打って変わって、

静かな世界が展開され、「知恵」を歌った詩が登場します。これはヨブ記が

一応構成されたのち、あるいは、後から挿入されたものではないかと疑われ

ていますが、一方、友人との激しい討論の後に、ヨブが一歩引いて自己批判

した結果ではないかと考える人もいるようです。

 

とにかく、「知恵の行方」を論ずる28章は、ヨブの苦難の隠された意味を

「知恵」によいって探ろうとするあらゆる試みに休止符を打つ役目を果たし

ていると佐々木勝彦氏は述べています。

 

つまり、わたしたちの思いを、被造物の世界から創造者の世界へ、いや、

創造者自身へと向ける重要な転換点になっているというのです。

 

さて、このあと、ヨブの独白、そしてエリフの演説(モノローグ)ののち、

いよいよ神との直接の対話、対決が始まるのですが、長くなりますので、

次回としたいと思います。

 


 

 

 
 
 
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