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ヨブの問いと神の答え-「ヨブ記」4-


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ヨブは、二回目の独白(29章)で、身の潔白を主張しながら、次の

ように神に訴えます。

 

<どうか、わたしの言うことを聞いてください。

 見よ、わたしはここに署名する。

 全能者[シャッダイ]よ、答えてください。>

 

そして、いよいよ神の弁論が始まるのですが、なぜか、その間にエリフと

いう新しい人物の弁論がはさまっています。エリフは、3人の友人の批判

を生ぬるいと考え、ヨブに対してより厳しい批判を浴びせます。

 

エリフの主張は、基本的に、他の友人と同様の賞罰応報主義であるが、

あえてその特色はというと、神からの霊感による知識、いわゆる霊的直観

を強調していて、まず、「高ぶり」、つまり、高慢への警戒を主張している

こと、そして、苦難は苦難それ自身の中に救済的意義を持つ、つまり、

苦難をもって神が人間を鍛錬し、浄化する方法であると見ていること、

さらに、神とヨブの間の仲立ちについて言及し、両者の間のとりなしを

なす者の必要が語られていること、などがあげられるようです。

 

しかし、浅野順一氏は、著書『ヨブ記』のなかで、苦難に対するこのような

見方はヨブの問題を根本的に解決する力にはならない。なぜなら、鍛錬とは

弱い者を強くすることであり、浄化とは汚れた者を清くすることであって、

人間本質の根本的な改造とは言えない。鍛錬、浄化は厳密にいって倫理問題

であっても、未だ人間の原罪が究極的に突きつめられていないがゆえに宗教

問題ではない、と述べています。

 

そして、浅野氏は、「エルフの説教はヨブ記が一応構成された後にここに

挿入されたという見方が多い。」「その文体においても他の意部分に比して

迫力が足りず、文学としてやや見劣りがするということは認めざるを

得まい。それゆえ31章の末尾からエリフの説教を飛ばして、あらしの

中からのヨブに対する神の激しい呼びかけ(38章以下)を読むことが

妥当であるかとも思われる」としています。

 

また、佐々木勝彦氏は、『理由もなく』のなかで、37章までの語り手は、

もちろんエリフ、そして38章からの語り手はヤハウェであるが、とも

すると「エリフの弁論」のイメージを引きずりながら、「主なる神の言葉」

を読んでしまう危険性がある。よって、読者としては、「エリフの弁論」

は無用のものとさえ思われる。もしかすると、後の人が、31章から

38章へのスムーズな流れを断ち切ろうとして、無理に入れ込んだの

かもしれない、と述べています。

 

それはともかくとして、第二回目のヨブの独白に対して、嵐の中から

「ヤハウェ」が突如として語り始めます。

 

<これは何者か。

 知識もないのに、言葉を重ねて

 神の経綸を暗くするとは。

 男らしく、腰に帯をせよ。

 わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。>

 

3章において「ヨブの独白」が開始されて以来、その後の3人の友人との

対話を経て、第二回目の「ヨブの独白」を通じて、あれほど求めていた

「ヤハウェ」の応答がついに起こったのです。

 

3人の友人たちとあまりかみ合わない議論を繰り返しながら、ヨブの出した

答えは、結局、「彼らはわかっていない」ということでした。何がわかって

いないかというと、ヨブが受けた苦しみの「わけ」です。なぜ、あのように

苦しまなければならないのか、その理由をヨブは教えてほしかったのです。

 

ヨブから見ると、友人たちの答えは、常識的な自業自得の論理でしかなく、

とても受け入れがたいものでした。彼には、自分が受けた苦しみの原因と

なるほどの「罪」が思い当たらなかったからです。

 

しかし、3人の友人たちから見ると、ヨブの態度は人間の限界を忘れた

不遜なものでしかなく、彼らに説明はやがてヨブに対する批判になり、

その鋭さはますますエスカレートしていくのですが、失望したヨブは

その超越的な神ご自身が語ってくださることを待ち望んでいたのです。

 

ところが、待ちに待ってようやく聞いた言葉は、上記の言葉と、それに

続き、この世が造られたとき、お前はどこにいたのか、という問いかけ

でした。しかし、それは神ならぬヨブに答えられるはずもない問いです。

それは、ヨブが提起した「苦難と正義」の問題と一体どういう関係が

あるのでしょうか?

 

その後の話も同様に、宇宙の不思議や動物界の不思議を列挙しているだけ

で、読者は、一体どう理解したらいいのかと困惑してしまいます。

 

佐々木勝彦氏は、ヨブと友人たちの議論がほとんど噛み合っていなかった

ように、ヨブの問いと神の答えも噛み合っていない。『ヨブ記』の作者は

何を期待しているのか。「視点を変えよ」と言っているのか、あるいは

「あとは自分で考えよ」と突き放しているのか、なんともはぐらかされた

ような気分になる、としながら、関根正雄氏の見解(『ヨブ記』註解)を

紹介しています。

 

関根氏は、そこには四つの意味が隠されていると言います。一つは、神の

答えの中心には、創られた世界に対する神の偉大な肯定があり、神の創造

された世界に対する神の喜びが38章以下の答えの中にあふれていて、

創造者たる神のヨブへの深い愛が看取される。ヨブは生きることを許され

たのであり、神はヨブの死を欲しない。彼が悔い改めて新たに生きること

を欲したもう、ということ。

 

二つ目は、ヨブの中心問題を問題にしない所に、かえってヨブの中心問題

への最もよい答えがある。ヨブの苦難は、自己に執着する、否、執着せざる

をえないヨブから見ればこそ問題の中心である。しかし、それは、ヨブが

あくまで自己を中心にするということと不可分離である、ということ。

 

三つ目は、神の自由なる恵みは、神の側から人の方向に向いてくださった

ということにつきる。キリストにあって最後決定的に起こったこの神の

恵みの出来事がヨブ記において、その具体的なヨブの問題の中で、38

章以下で起こっている、ということ。

 

四つ目は、この箇所は神の世界支配の正しい秩序と、それにもかかわらず

それが神の支配であるがゆえに、最後のところ、人間の理解を越えること

の指摘である。このことが間接にヨブの苦難の問題への正しい解決を含む。

われわれを囲む多くの人生の不可解な問題に対する正しい解決も、われわれ

の思いを越える神の世界支配の秩序への信仰による以外にないだろう、と

 

いうこと。

 

また、浅野順一氏は神の呼びかけについて『ヨブ記-その今日への意義-』

の中で、「創世記」3章を引きながら、内的関係が深いとして、次のよう

に述べています。

 

「人間の苦悩ということは人間の責任なのか、或いはまた神の責任なのか」

「アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべき蛇の誘惑に敗れ、そこから

彼らの不幸が生まれた。」「神は何故、蛇をして彼らを誘惑せしめたのか、

もしそうでなければ彼らは堕落せず、エデンにおいてなお幸福な生活を

続け得たであろう。それにもかかわらず、神は彼らに堕落の責任を問うて

いる。」

 

「最初の人間であるアダムとエバが神の命令としての律法を背負った人間

であり、しかもそれを負い切れなかったということに我々の注目が向け

られるべきであろう。」

 

 

「しかしこのような矛盾にこそ人間が人間であり、動物や、機械とは異なる

存在である理由があると思われる。人間が肉であると共に霊であり、否、

霊肉一体の存在であるという意味がそこにあるのではないか。人間の

偉大さはそこにある。」

 

さて、いよいよクライマックスになりますが、ヨブはこの神の言葉に

対してどう答えたのでしょうか?

 

<わたしは軽々しくものを申しました。

 どうしてあなたに反論などできましょう。

 わたしはこの口に手を置きます。>

 

と第一回目は沈黙を告げるのみですが、第二回目は、

 

<あなたは全能であり

 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、

 自分を退け、悔い改めます。>

 

この箇所について、先述の関根氏は、創造者なる神は全能の神であり、

ヨブもそのような神の全能の愛の対象であることを明らかにした。

その意味での神の全能と愛が自分にも向けられていることをヨブは知って、

神の全能を承認し、告白し、賛美したのが、<あなたは全能であり、

御旨の成就を妨げることはできないと悟りました>の意味であると

述べています。

 

それは教義として知ったのではなく、ヨブが血の出るような苦闘を通して、

ほんとうに自分のこととして知ったのであり、そのことが重要である。

ヨブは自己から解き放たれ、神の救いの中に入れられることによって

始めて真に神の全能と愛を賛美しえたのである、としています。

 

なお、「自分を退け、悔い改めます」と訳されている箇所について、

佐々木氏は、並木浩一氏の「それゆえ、わたしは退けます。また灰塵で

あることについて考え直します」という伝統的な「懺悔路線」ではない

解釈を紹介しています。

 

ヨブは灰塵の身でありながら、その自分に神が語りかけてくれたことに

より、新しい地平の開示を経験し、感謝と信頼のうちに、神の世界統治と

その中における自己の位置に関する認識が足りなかったことを反省して

いるのだそうです。

 

ここにはイメージの転換が見られます。それまでの生き方を「悔い改めて」

静かに生きるヨブというよりも、自らの被造性を意識し、神の前に立ち

つつ、自らの体験を思いのままにぶつけるヨブ、そして、新たな状況に

おいても、決して訴えることをやめないヨブと言うイメージです。

 

もっとも、佐々木氏は、このような「悔い改め」のイメージの打破は高く

評価されるべきとしながらも、読者の一人として、このような異なるヨブ

のイメージを「あれかこれか」ではなく、あえて、「あれもこれも」と

いう仕方で受け止めたいとしています。

 

わたしたちは、「静的」なヨブのイメージに感動するときもあれば、「動的

な」ヨブのイメージに魂をゆさぶられるときもあるのであり、この両者を

自らの可能性として受け止めるとき、わたしたちの生はさらに豊かになる

に違いないと言います。

 

なお、浅野順一氏は、先に紹介した著書で、ヨブの懺悔から何を学ぶのか

という問いに対し、それは、まず、ヨブが神の全知全能を新たに認めた

こと、つまり、神の創造と支配、それは人間として知り得る以上のこと

であり、不思議であり、神秘であり、奇跡であるということ、

 

次に、ヨブが懺悔している罪とは、道徳的、倫理的罪をいうのではなく、

自己の無知を知らない罪、つまり無知の無知、そこから生まれる知的傲慢

こそがそれであること、

 

さらに、これは神の言葉だ、命令だというものを間接に聞き、それをその

まま鵜呑みにしても、それは神の言、命令にならないのであり、直接に神の

命令を聞くことによって始めて神の言になるのだということ、

 

もう一つ、ヨブの懺悔が彼の自発的な意志というよりも、あらしの中から

の神の突如の呼びかけよったということ、であるとしながら、

 

この恵みともいうべき呼びかけによって神とヨブとの間に直接の対話が

始まるに至ったのであるが、そのことによって絶望のヨブに新しい世界が

開かれてきた。今日の時代は神との対話が欠如せる時代であり、それは

「神の蝕」と呼ばれている。この蝕の解消なくして現代文化の混乱は

根本的に救済されないのではないかと主張しています。

 
 
 






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