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「使徒的人間-カール・バルト-」


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使徒的人間


「神の言葉の神学」と言われ、20世紀のキリスト教神学に大きな影響を

与えたとされるスイスの神学者カール・バルトについて書かれた富岡幸一郎

氏の著書『使徒的人間-カール・バルト-』を紹介し、使徒的人間とは何か、

信仰とは何か、宗教とはなにか、について思いを巡らしてみたいと思います。

 

さて、第一次大戦のさなかの1916年頃、それまでスイスのザーフェン

ヴィルという小さな村の教会の無名の牧師にすぎなったカール・バルトは、

いつものように教会に集まってきた信者に対して、ほとんど唐突に、

「人びとを満足させる牧師」は偽りの預言者であることについて語った

そうです。

 

主なる神が、神殿を出ていかれるのを見た旧約聖書の預言者エゼキエルの

言葉を引きながら、キリスト教が、「隙間だらけの、壊れやすい、傾いた壁

で、しかもその上に、宗教という、頼りにならない、柔らかな慰めの漆喰

(しっくい)を塗りつけ、自分にとっても、誰にとっても、信心の養い、

満足のために役立てようとする」ものであると語ったということです。

 

また、別の日の教説で、彼はただ一つの必要なものについて語ったという。

つまり、われわれがあらゆる人間的な可能なこと(今日の文化的・社会的

・愛国的問題)をするかわりに、「まったく最初からやりなおす」こと、

「神が神であることを承認すること」がただ一つ必要なことであると

語ったということです。

 

こうして、バルトは彼自身を牧師として養い育ててきた時代の神学・思想・

文化から急速に離れて、もう一度、しかし慎重に、新旧約聖書を読み直し

はじめ、パウロの「ローマ書」(ローマ人への手紙)に取り組むのです。

 

バルトを育ててきた19世紀後半から20世紀はじめにかけての神学は、

シュライエルマッハー以来の自由主義神学、つまり、神の実在と信仰を、

何よりも人間の宗教的感情や意識においてとらえようとする潮流であった

とされます。

 

それは人間の理性への信頼に基づいた近代主義、人間中心主義を根底とする

ものであったが、神学生であった頃のバルトは、この自由主義神学と、その

聖書注釈の方法を正当なものとして受け止め学び、そこから20世紀の

キリスト教宣教を荷って牧師として出発したようです。

 

しかし、バルト今や180度方向を変えて、彼の時代の神学と思想の流れ

の外に出て行くのです。

 

では、何が彼をして外へ追い立てたのでしょうか? 彼は何処へ向かって

出発しようとしたのでしょうか?

 

富岡幸一郎氏は、「あきらかなのは、新しい神学や思想がそこで問題に

なったのではないということだ。根本において全く新しいことではなく、

くりかえし新しく見直され、理解されてきたもの 宗教改革者たちに

とってそうであった熱烈に古きもの 使徒パウロの書簡の背後から、

カール・バルトに向かって吹きつけてきたものとは、それである」と述べ、

 

そして、「宗教改革者たちがローマ法王に代表される教会の外に、そして

かつてパウロ自身がイスラエル民族集団の外に、十字架につけられたイエス

・キリストを発見したように、それがバルト自身を突き動かし、彼をして

時代のただなかから外へと、追い立てたのである。時を越えて、彼をして

ローマ書の神秘的な言葉のまえに立たしめたのである。彼は千数百年前に、

パウロという男を「あのような活動に導い」た「現実」のなかに、まさに

そのなかに立つことになった」としています。

 

さて、ローマ書と格闘するなか、バルトにとって聖書の言葉は決定的に

不気味なものとして、はじめてその姿をあらわした、つまり、聖書の言葉

は、われわれ人間にとって異質なものとしてあらわれたということです。

 

それは聖書の古さ、遠さ、なじみのなさなどによるものではなく、もっと

根本的な理由によるものだとして、バルトは、<聖書は、教会の状況の中

に、人間の側からとは異なる別の側面から、新しい大きな(より大きな!)、

緊張に満ちた期待を持ちこんでくるので、われわれにとって不気味なので

ある。教会員が、教会のなかに、人間の生を問う大きな問いを持ちこみ、

それに対する答えを求めるとすれば、聖書は、逆に、まず答えを持ちこむ。

そして、聖書がそこで求めるもの、それは、この答を尋ねる問いを問う人間

である。この答そのものを、まさしくそれにふさわしい問いへの答えとして

理解し、求め、見出そうとする人間なのである>と述べています。

 

つまり、人間が聖書の言葉を発見するのではなく、聖書が「人間」を発見

する。われわれが「人間の側」から聖書への問いを発し、答えを求めること、

そのことが突然中止させられ、逆に、全く反対に、聖書が、われわれに

向かって絶対的な「答えを持ちこむ」。そして、この「答え」を問い尋ねる

「人間」を、聖書が求めるという逆転が起きるというのです。

 

よって、バルトに新しく読み直すことをうながした聖書は、歴史でも、

道徳でも、宗教でもない新しい世界を、すなわち、神についての人間の

正しい思想ではなく、人間についての神の正しい思想を開示し、明らか

にしたということです。

 

さて、バルトは、「ローマ書」から受けた衝撃をもとに、その註解書『ロー

マ書』を著わし、それを1919年(書き改められて大著となった第二飯

は1922年に刊行)に刊行しますが、それは第一次大戦後の神学界に

センセーショナルな事件として受けとめられたようです。

 

その『ローマ書』(第一版)の助言でバルトは次のように述べています。

 

「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれども、この

事実よりもはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国

の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、

ということである。昔と今、かしことここ、という差別はあくまで顧慮

しなければならない。けれども、それを顧慮するのは、専らかかる差別が

何ら本質的な意味をもたないという意味を認識するためでなければなら

ない。」

 

「歴史的―批判的な聖書研究法にはそれ相当の根拠がある。けだし、この

方法は聖書の理解に必要な一つの予備的工作を志すものであるが、この

工作も決して不要とは言えない。けれども、この方法と古風な霊感説との

うち、いずれかを一つ選ばなければならないとすれば、私は断然後者を

採るであろう。けだし、この説は聖書理解の工作そのものを志すもので

あり、この工作なくしてはいかなる準備も無価値と化する。」

 

「この二者択一をしなくてすむのは幸いである。けれども、私は専ら歴史

的なものの裏に聖書の精神を洞察しようと心がけた。聖書の精神は永遠の

精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の

重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と

直結している。もしわれわれがみずからを正しく理解するなら、われわれ

の問いはパウロの問いであり、もしパウロの答えがわれわれを教導する

なら、それはわれわれの答えとなるに違いない。」

 

このことから、富岡幸一郎氏は、カール・バルドの神学を旅していくとき、

われわれはいつも必ずといっていいほど、バルトの希求する「旅人ノ神学」

の不思議な感覚につかまれるとしながら、「彼(バルト)の神学が時代

から出て行き、時代から遠く離れて、地上の時間を飛びこえて行くとき、

そのことによって、彼自身が生きた時代の、われわれの世紀の、その現実

の真っただ中に、核心部分に近づき到来するということである。時代から

飛びすさることによって、その時代の中心を捉える。これこそ、使徒的

人間の語る、言葉の秘密である。」と述べています。

 

そして、富岡氏は、キリスト紀元の時代区分の持つ意味すらほとんど消え

さっているこの時代において、「使徒」的な人間の言葉に耳を傾けること

に何か特別な意味があるのだろうかという問いを発するのですが、次回は、

その意味を追ってみたいと思います。

 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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