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「宗教」、或いは「宗教的人間」批判-「使徒的人間」2—

 
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使徒的人間2 



カール・バルトが、彼自身が育った自由主義神学という潮流から180度

方向転換をしていくことに対して大きな影響を及ぼした人物として、宗教

改革の時代のルターやカルヴァン以降の人である、ブルームハルト父子と

いう存在を無視できないようです。

 

ブルームハルト父子の信仰は、近代2百年来の「神」を人間主体の理性や

感情によってとらえる方向にあった「キリスト教」を正反対の、使徒たち

の時代のように、理知よりもむしろ祈りによって、神の国を待望する終末

論的な信仰を現代において体現するものであったということです。

 

子ブルームハルトは、次のように述べています。

 

<宗教改革の時代は終わりました。私どもが必要なのは、神ご自身です。

イエス・キリストそのものです。死人のなかから蘇られ、やがて現れる

キリストです。そして、他のすべてのものは消え去るのです><すべて

のものが鋳直され、変形され、霊の中に捉え込まれなければなりません>

 

富岡幸一郎氏は、『バルトは、ブルームハルト父子において、「イエスの

出現によって単に心情の問題が提出されたのではなく、力の問題が提出

された」とのちに語ったが、この「力の問題」としてのキリスト教信仰

こそ、ながいあいだ忘れ去られてきた使徒的な人間の活動の源泉であった。

それは魂だけでなく、肉体の存在、いや被造物としての人間の全存在を

「具体的に助け給う」主イエスの力である。ブルームハルト父子は、あら

ゆるかたちの近代主義の空間を突破し、時空を走り抜け、使徒たちの時代

の空間へ、主イエスの勝利の、その「活動性」のただ中へ立ち返る。そして、

この驚くべき信仰覚醒運動の道こそ、つまり(子ブルームハルトがいる)

バード・ボルへの道こそ、若きカール・バルドにとってのダマスコの道で

あった』とバルトに対するブルームハルト父子のインパクトについて

語っています。

 

さて、ダマスコの道とは、キリスト者を迫害していたユダヤ人パウロが、

ダマスコへの途上で、突然天から光を受けて地に倒され、決定的な回心

(えしん)を体験したことを指しますが、バルトはパウロとは何者である

かについて、次のように明らかにしています。

 

<使徒となったパウロとは、自分自身の仕事を成し遂げることに熱中して

いる天才ではなく、自分が受けた委託に縛られたひとりの使者である。主人

ではなく下僕であり、王の仕官である。パウロが誰であれ、また何者でも

あろうと、彼の使命の内容は根本において彼の中にはなく、彼を超えた超克

しがたい異質者の中にあり、到達しがたい彼方にある。彼は、その召命を

自分自身の人生の展開のひとつの契機として意識することはできない。彼は

あくまで彼自身であり、人間は誰でも本質的に彼と変わるところがない。

けれどもそれと同時に彼は、自身の意に反し、また他のあらゆる人と違って、

神によって召されたのである。>

 

富岡氏幸一郎氏は、生粋のユダヤ人であり、律法主義者でキリスト教徒の

迫害者であったパウロの回心とは、ひとつの宗教から別の宗教への改宗では

なく、神の意志が律法を棄てて、キリストへの信仰に生きよ、との命令で

あること、その真理をまさに、「直接的な衝動」の体験として知ったという

ことであった。使徒たるべき召命を受けるとは、この神の力の介入によって、

その人の自己同一性から出ること、出ざるをえないことだ。使徒とはつねに、

自己を超越したこの呼び出しによって召喚され、そのような者たちとして

この世へ遣わされる。そして、パウロはサウロ(パウロのユダヤ名)に、

使徒的人間は宗教的人間と鋭く対立すると述べています。

 

では、宗教的人間とはどういう存在なのでしょうか、またそもそも宗教的

とはどういう意味なのでしょうか?

 

バルトは、「エヴァは初めて神と対向する者として現れる。神を拝みながら、

しかしまさに神を拝むことによって、前代未聞の向こう見ずな仕方で、

自分と神とを区別するのである」として、このエヴァの中に、創造された

世界における最初の宗教的人間の登場を見ているようです。

 

つまり、エヴァは自分を神から分かつ者として見るのであるが、そこに

生じた創造主との亀裂から、他ならぬ人間の可能性があらわれる。だが、

神を礼拝する姿勢は、そのとき不遜なものになる。なぜなら、自らが「神」

のようになり、善悪を認め、自分自身が裸であることを、滅び去る者で

あることを知るからだというのです。

 

よって、バルトは、人間がその可能性を最大限に発揮するとき、それは

必ず「神を拝む」姿勢となる、つまり、宗教的可能性としてあらわれる、

いいかえれば、宗教とは自ら神のごとくなろうとする人間の欲求が必然的

にもたらすものであり、そこにおいてこそ人間の不義が露呈し、人間の罪

が可視化するとしています。

 

かくして、バルトによると、「宗教はむしろ、人間の救われなさの発見で

ある。宗教は、享受したり讃美したりすべきものではなく、むしろ振り

棄てがたい苦しい軛(くびき)として担うべきものである。何人に

向かっても宗教を讃(ほ)めたてて、これをもつように望んだり薦め

たりすることはできない」ということになります。

 

ところで、このようなバルトの宗教批判は、いうまでもなく、キリスト教

の優越性を際立たせるための諸宗教批判ではありません。

 

むしろ、それは人間の敬虔や信仰心といった内面的なものに依存する近代

キリスト教批判であったが、かといって、バルトは宗教を脱して、非宗教的

にキリスト教を受けとめればよいなどと語ってわけでは全くないのです。

 

富岡幸一郎氏は、マルクス主義でさえ、ひとつの宗教あるいは宗教代替物

であったのであり、<『ローマ書』で繰り返し強調されるのは、いかなる

宗教批判も、最終的には宗教的である他ないという事実なのである。神に

むかって「拝む姿勢」をとろうが、反対に敵対する姿勢をとろうが、人間

は人間であることにおいて、あのエヴァの誘いのうちにあり、宗教的人間

たらざるをえない。><神を信仰しようが、無神論であろうが、宗教は

人間的可能性の「最後にして最高」の欲望としてあらわれ、それは最大

の可能性であるために、また最悪のものとなる。バルトはこの宗教の現実

を徹底的に暴き出す>と述べています。

 

なお、このようなバルトの『ローマ書』における宗教批判は、パウロの

「ローマ人への手紙」の第七章の解釈においてなされているということ

ですが、そこはパウロが特に律法について語っているところです。

 

律法とは、神がモーセを通してイスラエルの民に与えた掟ですが、ユダヤ
人にとってそれは絶対的なものでした。厳格な律法主義者、パリサイ派
の青年であったパウロ(サウロ)は、律法遵守を自らに課したが、彼が
直面したのは、実際の行いではそれは守りえたとしても、心の行為に
おいて、つまり霊的な次元においてこれを守りえる者は一人もいないと
いう現実であったのです。

 

もともと古代においては法と宗教とは別のものではなく、とりわけイスラ

エルの民にあっては、法は宗教のなかに含まれており、まさに律法こそは

神に言葉そのものであり、神のいましめであった。しかし、パウロは、

この律法によっては、ただ罪の自覚が生ずるほかはないこと、誰一人と

して神の前で義人たりえないという現実に逢着するなかで、律法を通して

人間の存在自体の罪、すなわち原罪を知ったのです。

 

<そしてカール・バルトもまた、このパウロの、義人は一人もいないとの

根源的な罪認識、律法によっては罪の意識しかあらわれないとの認識に立つ

のであるが、バルトが『ローマ書』でおこなったのは、この<律法>を

<宗教>と語り直すことによって、より徹底的かつ広範に、人間の存在

そのものの罪と死の姿をあぶり出すことであった>と富岡幸一郎氏は

述べています。

 

したがって、近代的世界観のなかで、宗教がなお意味を有するか否かと

いう議論は、バルトとは無縁であるということです。

 

たとえば、ミルチア・エリアーデの「聖と俗」のように、聖なるものは

古代社会における人類の宗教的な価値であったが、歴史の進展と共に衰退

して、近代の工業社会に至ってその影を没しようとしている、だからこそ

今日の「俗なる社会」に対して「宗教的人間」のあり方が想起され注目され

ねばならない、といった類いの宗教論は、バルトにとって問題にならない

のです。

 

反対に、むしろ、「宗教的なるもの」の再評価こそは、人間存在そのものが

「貪(むさぼ)り」であり、罪であり、それゆえに、その人間の可能性の

頂点たる宗教において、それが最高にして最悪のかたちであらわれるという

現実を忘却した、近代ヒューマニズムの一形態にすぎないと言うのです。

 

かくして、バルトの宗教批判とは、キリスト教、仏教、ヒンドー教と

いった諸宗教の優劣や形態を問題化したり、さまざまな宗教現象自体を

否定したりすることではなく、人間にとって、宗教が決して回避しえぬ

ものであり、それ自体いかに「聖なるもの」であったとしても、結局、

人間のその可能性が、罪人としての本性に基づくものにほかならない

ことを明白にしたのです。バルトは宗教の本源的な現実と意味を、二十

世紀のもろもろの宗教現象、また多様な疑似宗教現象の混沌のなかで、

パウロ書簡の原点からあきらかにして見せたということになります。

 
 
 
 
 
 
 
 
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