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「自由」の意義と「自然神学」批判-「使徒的人間」3-


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イエス受難 




16世紀に入ってしばらくした頃、当時の西ヨーロッパで有名な人文学者で

あったエラスムスと、マルティン・ルターとの間で、一つの論争が行なわれ

たということです。

 

それは「自由」をめぐる議論であったが、エラスムスは、人間の自由意志

ついて、<聖書は人間の自由意志を肯定するのであり、人間は神の前に

あっても、なお、それなりに理性の能力を発揮できる。神の絶えざる恩恵

のなかで、それは効力をもち、善をなしうることができるのである>と

述べたそうです。

 

これに対してルターは、人は罪のうちにあることで善に対する能力をもち

えない。人間の意志とは不自由なもの、すなわち、奴隷的意志にほかなら

ないと反駁したのです。

 

ルターは原罪を強調し、人間は神との関係において何かをなしうる能力を

全くもたないというのです。なぜなら、「私たちは、神の力と私たちの力、

神のみわざと私たちのわざ、との間に、きわめて明瞭な区別をつけておか

なければならない」からであり、「神の義が人間の頭脳によって義だと

判断されるようなものであるなら、そんなものはたしかに神の義ではなく、

人間の義と何ら異なるものではない」からだそうです。

 

むしろ、神の義は、人間の奴隷的意志としての「自由意志」を電撃的に

打ち砕くのであり、そこにおいてこそ神の恩恵が働き、人間の自由が

約束されると主張しています。

 

富岡幸一郎氏は、『もちろん、ルターは人間の自由を否定しているのでも

なければ、性悪説の立場に立っているのでもない。人間の自然的能力と

しての「自由意志」は、いかに善なる徳行をなそうとも、自己自身を

追求する罪に陥っており、「すべてに優って自己を愛することしかでき

ない」その意志のなかに、神への反逆性が生じる』としているのだと

言います。

 

よって、宗教改革とは、中世のキリスト教(カトリシズム)に抵抗して、

プロテスタントというキリスト教の別派宗教をつくったのではなく、

それはキリスト教そのものを宗教的状態から解き放つことによって改革した

のであり、それは、人が自らの力で自分の「自由」を手に入れようとする、

あらゆるかたちの宗教的営為に対するプロテストであったということです。

 

もっとも、ただ信仰によって人は義とされるという原理は、人間の具体的

な働きや営みを否定するものではなく、人間の自由意志、その可能性の

最高のものたる、それゆえに最悪のものである宗教から解き放たれる

ところで、むしろ、人は自由を見出し、そこではじめて神によって贈られ

与えられた自由を生き、行為することができるということなのです。

 

さて、バルトもまた自由というものが自然の権利でもなければ、人間の

所有物でもなく、神から与えられた「神の自由」という贈物であると

述べています。

 

<われわれは、人間を飛び越えて思弁を行うのではない。また、人間と

その自由を無視するのでもない。むしろ、われわれは、先ず人間の神で

ある方について問う場合にこそ、すなわち神自身の自由について問う

場合にこそ、具体的に、人間を 真に自由な人間を、求めまた見出す

のである。>

 

つまり、バルトは、自由について語るとき、人はまず人間からではなく、

神について語らなければならない、神自身の自由からはじめねばならない

といいます。

 

しかし、神の本質、ことに神の自由の本質を「絶対他者」とか、「超越」

とかいう概念で言いかえることもできないのです。

 

というのも、それらの概念は死んだ偶像を表すことができるからですが、

それに対して神の自由とは、「……からの自由」ではなく、「……への

自由」、「「……のための自由」というかたちをとるからだというのです。

 

<具体的には、それは、人間のための、人間との共存のための神の自由で

あり、人間の契約の主として 人間の歴史の主として、またそれに関与

する方として、自身を選び規定されたということである>とバルトは

述べています。

 

人間に関わる神は決して疎遠な「絶対他者」でもなければ、何か抽象的な

超越でもない。それはイエス・キリストというはっきりした名を持つ、

イスラエルという一つの民族と神との契約から出発し、地上的・歴史的な

現実存在のかたちをとるところの、観念ではなく、出来事であるという

ことです。

 

かくして、人間はこの出来事、歴史のなかで、自由を神によって贈られる。

それは人間の自由意志とは何のかかわりもない。人間があらかじめ所有

したり、取得したりするものではない。それはただ受領することができる

ものなのだとしています。

 

いいかえれば、神からの贈物としての「自由」は、神自身の自由によって

区切られ定められた場所の中での自由である、つまり、被造物の「自由」

であり、神によって区切られ保持された場所のうちにこそ、被造物として

の人間の自由があるというのです。

 

人間は意味もなく、この世界のうちに投げ出されたものであるから、自ら

の決断によって主体的な生き方を刻々に選択していかねばならないという、

実存主義的な自由の概念は、むしろ仮象だということになります。

 

なお、バルトは、生涯にわたってモーツァルトを愛したということですが、

モーツァルトの音楽について、<モーツァルトの音楽にあらわれる自由―

それはまさに神から贈られた被造物の自由の世界の世界である。その音楽

が奏するのは、ただの優雅でも、ましてデモーニッシュなものでもなく、

神の自由を、地の上にあって受けとめ、そのことから人間の本姓を輝かす

ことがゆるされた自由の世界である。バッハの音楽がもし宗教的人間の音楽

であるというならば、モーツァルトのそれは、あらゆる宗教から解き放たれ

た、使徒的人間の音楽といってもいいだろう>と述べています。

 

さて、バルトは、「自然神学」とは、いかなるかたちをとるものであれ、

人間の持つ「いろいろな自由」の捏(ねつ)造の可能性の延長線上に

あって「神」を捉えようとする思想であると断言しています。

 

では、そもそも、「自然神学」とはどういうものなのでしょうか?

 

自然神学とは、トマス・アクィナスの神学に典型的に示されるもので、

人間が生まれつきもっている理性によって神の存在を捉えることができる

という考え方です。理性は神の存在を確証することができる。なぜならば、

神と被造物(人間)のあいだに、その存在の類似性(アナロギア)がある

からだというのです。

 

トマス・アクィナスはアリストテレスの哲学を神学に持ち込むことで、

人間の理性では自然的に神を認識することできず、神の啓示と恩寵に

よらなければ、神を知ることができないというアウグスティヌス的な

信仰理解を越えようとしたということです。

 

これに対するバルトの『教会教義学』等における自然神学批判は、(「自然

的」という概念にはプラトン主義的な「理性的」という意味があるよう

ですが)人間理性によって捉えられる「神の知識」という教義を打ち破る

ものであり、人間から神に至る道をつくりあげようとする、あらゆる

「体系」的思考への批判なのであった、と富岡幸一郎氏は述べています。

 

ただし、それは決してプロテスタント主義の立場に固執することで、ローマ

・カトリックの神学を批判したのではなかったようです。

 

そもそもバルトの自然神学に対する拒否は、カトリック神学に対してより、

弁証法神学者と呼ばれるグループに属するとされ、かつてバルトの『ローマ

書』を高く評価したとされるエミール・ブルンナーとの論争において神学界

の注目する所となったということです。

 

ブルンナーは、宗教改革の流れを汲む神学者として、当然のことながら人間

の原罪を見つめ、人が神の前で罪人でしかないことを認めつつも、主体で

あり、理性的存在であることを主張するのです。人間存在とは、その主体

とは、神の言葉と聖霊を受けることのできるということを承認する者のこと

であるとして、「自然神学」へ立ち返ることを主張したのです。

 

なぜならば、キリスト教が現代において、「神」をどのように語るべきか

という「語り方」が問題になっている、つまり、神と人間の絶対的な差異

ということを語るだけでは、現代への宣教にはなりえないのではないか。

キリストにおける神の啓示という出来事の、その狭さのなかで、はたして

教会は宣教することができるのか。人間の、その自然性(理性)のなかに

ある神との「結合点」を認めることで、はじめて信仰の可能性があきらかに

されるのではないか、というのです。

 

これに対してバルトは、人間は神の前にあっては罪人であり、自らの力で

自分を義とすることができない。人間の行為(業)による義認を否定した

この宗教改革の思想にブルンナーも立っているならば、人間の側の、神の

啓示を受け取る可能性も全く同様にこわれていると考えるのが当然では

ないのか。どうしてそこで人間の理性のうちに「神に呼びかけられうる

能力」、すなわち「結合点」などというものが存在するのか。それは神の

啓示の出来事に並んで、「人間性」というもうひとつの「啓示能力」を

つくり出すことではないのかと批判したのです。

 

また、自然神学における、神の啓示の出来事のなかにのみ信仰の基礎と

理由づけをもつことができないという神学的態度が、啓示と民族あるいは

国家といった二元論を生むと批判するのです。

 

富岡幸一郎氏は、「バルトにしてみれば、ブルンナーのように啓示の外に、

人間の理性のうちに、「神と「人間」をつなぐ「結合点」の役割を与える

ことは、文字通りアンチクリストの思想以外の何物でもなかった。それは

あの十戒の第一戒(あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはなら

ない)を否定する思想である。「自然神学」はそのとき「悪魔学」となる」

と述べています。

 

そして、ブルンナーのいうところの、「神」をどのように、いかに「語る

べきか」という問題提起に対しても、そこには近代的世界のなかで「神」

を弁証しようとする姿勢があるのではないか。結局のところ神の弁証学と

いう抽象に陥るのではないか。「一般的に神について語る」ということが、

神学的・教会的実践として必要だという思い込みによるものではないか

と反駁するのです。

 

ともかく、「いかに」を問題にしなくてはならないのは、神学が「神は

どのような方であるか」ということではなく、「果たして神は存在するか」

という問いの方に関心があるからであるが、バルトはこのような「問い」

は神学的に倒錯したものと見なすのです。

 

「信じる」ことよりも先に、「神の存在」を弁証論の下におこうとすること

は、必然的に人を何らかの自然神学に連れ込むことになるとしています。

 
 
 
 
 
 
 
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