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予定論・ユダ・和解論-「使徒的人間」4-


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カールバルト1 



予定論とは、古来、キリスト教会の歴史を貫く重要な思想であり、それは、

一言でいえば、人間の救いが全く神の選びのなかにあるという教えです。

 

つまり、人間の意志や能力によるのではなく、神によってあらかじめ定め

られた人間の救いと滅びの区別といえるものです。

 

このような神的な選びと棄却としての予定論(「二重の予定論」と呼ばれ

る)は、西方神学の確立者アウグスティヌス、中世のトマス・アクィナス、

ルター、カルヴァンなどの神学までひきつがれて教義とされます。

 

しかし、このような選ばれたものと捨てられたものという決定論は、とき

に教会の聖職者のおごりを生み、人間の意志と自由を完全に圧殺するもの

として受けとめざるをえない側面があったがゆえに、近代の人間中心主義

の考え方が、このような教会の宣教と対立することになるは必然ですが、

バルトの批判は、そのような近代的な人間観にしたがってなされたもの

ではないようです。

 

彼は、『教会教義学』の「神論」において、古典的な予定論を正面から

批判検討し、その聖書的な意味に立ち戻ることで、この教説を一度解体

して組み直すということを行ったのです。

 

では、バルトはどのように予定論を刷新したのでしょうか?

 

バルトは、まず、アウグスティヌスのところで、すでに神の選びと棄却と

いう概念の宿命的な分割が語られており、それは聖書の証言からの逸脱で

あると指摘するのです。さらに、トマス・アクィナスにおいて神の断罪と

棄却の暗い面が強調され、宗教改革者たちもまたこれに与したために、

予定説は、喜びと驚愕、救いと災厄の、その両方が成立するかのような

「中立的」な真理となったというのです。

 

しかし、バルトは、聖書が語る福音は、決してそのような「然り」であり、

「否」であるような二重性でないことを明らかにするのです。

 

聖書の証する神とこの世界の間の歴史は、神とひとりの人間(イエス)

及びイスラエルの民との間で起こる原歴史のゆえに起こる。そこに生ずる

のは、あくまでも「然り」であって、「否」ではない。イエス・キリスト

あっての神の決断は、絶対的な恵みであり、あくまでも光であって闇では

ないということです。

 

この原歴史の場所、イエス・キリストとその民の間で起こった出来事に

ついて、富岡幸一郎氏は、次のように述べています。

 

『使徒的人間』のなかで、「バルトは、そこでたしかに「選び」と「棄却」

ということが起こったという。神の永遠の予定はたしかに「選び」と

「棄却」ということがおこったという。神の永遠の予定はたしかに「二重

の予定」であった。しかし、それは伝統的な予定論のいう神による「選ばれ

た人間」と「捨てられた人間」という区別、分割ではない。「然り」と「否」

が人間の頭の上で分けられるのではない。イエス・キリストにおいて起こっ

たことは、神がその自由な意志によって人間に向かい、自ら肉を取り、人間

の姿になり、罪人の一人となったということだ。」

 

「つまり、イエス・キリストにおいては、神は自らを死に引き渡したので

あり、自身において「棄却」を選んだのである。神は全き自由によって、

人間のための神たるべくこの棄却の道を下り、進んだ。そして、そのこと

によって罪人であり、死に引き渡されている人間を恵みの「選び」の道へ

と引き上げた。イエス・キリストにおいて起こったのは、神が失い、人間

が獲得するという、そのような「棄却」と「選び」の驚くべき「交換」で

ある。」

 

かくして、バルトはあらためて聖書に聞き従うなかで、使徒たちの眼差し

へと立ち返ろうとし、そのことで伝統的な予定論の枠組みを突き破った

ということです。

 

さて、「イスカリオテのユダ」とは、従来、イエス・キリストを売った

裏切り者、さらには悪魔の化身であるとさえ言われ、ユダヤ人全体の

代表者のごとくにされている存在です。

 

しかるに、バルトの神学にとってユダとはいかなる存在なのでしょうか?

 

バルトは、まず、新約聖書が、ユダについて報告している際の平静さに

注目し、「このユダがイエスを裏切ったのである」(マルコ)、「イエス

を裏切ったイスカリオテのユダである」(マタイ)、「後に裏切り者と

なったのはイスカリオテのユダである」(ルカ)というふうにこれ

まで「裏切る」と訳されてきた言葉は、もともと強調の少ない言葉

で、「引き渡す」というほどの意味であることを指摘するのです。

 

バルトは、次のように述べています。

 

「ユダは、イエスをまさに、「ただ」引き渡しただけである。彼はヨハネ

18・3以下によれば、イエスが捕らえられる際には、ただ、傍観者の

役割しか演じていなかった。また、彼がイエスを捕吏どもに、共観福音書

の報告によれば、有名な接吻でもって、知らせた時、そのことの中で、

イエスに最も近づいた使徒となった。そこからして彼がこの「引き渡し」の

決定的な歩みをなした。このこと、このことだけが、ここでの本質である。」

 

イスカリオテのユダは、自らを呼び出し召喚したイエスと共に、自分自身の

考えと計画によって行動しようと企てたが、このことがまさに彼の罪であり、

汚れであり、自分自身を使徒として不可能にした。しかし、ユダは、彼も

また「選ばれた者」、「使徒」であったことには変わりはなく、バルトは、

「引き渡し」という言葉が、同時に、使徒的な奉仕の特徴を表している

ことに注目するのです。

 

この「引き渡し」という概念が、ユダにおいては完全に否定的な意味を

もっているが、他方にあっては、全く積極的な使徒的人間の活動の本質を

物語るものだということです。

 

<まさにユダ、この無類の罪人こそが、― その比較を絶した罪にもかか

わらずというのではなく、むしろ、そのような罪の中で、― 神の意志が

決定的なところで出来事となって起こることに対して、手をかしたのでは

なかったか。そこには、何も聖列に加えられるべきものはないし、また、

軽蔑すべきものもない。そこではただ神の認識と崇拝、神に栄光を帰す

ことしかできない。そのような神の認識、崇拝、栄光を帰すことに相対

して、人間ユダは、彼がなしたことをもって、明らかにあのような捨て

られた姿で立っている><ユダ、彼こそが明らかに捨てられた姿の中で、

パウロもペテロもそうでなかった仕方で、神の奉仕者となる><そのこと

は彼の人格に関して結果として何が生じてこようと、妥当し成り立つので

ある>とバルトは述べています。

 

もっとも、このように、バルトが『教会教義学』の「神論」において、

ユダを論じたのは、決して「ユダの弁護人」になるためではなく、そこ

で明らかにされたのは、「使徒」とは本来何かということだったのです。

 

富岡幸一郎氏は「使徒的な伝えるということは、新しい何か、特別な何か

ではない。また、決して独立した実在でもない。使徒的な伝えることとは、

神が、神的な仕方で与えられたことを人間的に手渡すことでしかない。」

「キリスト教の二千年の歴史のなかで、なお闇であり、神によって捨てら

れた者として忌避されてきた呪いの息子ユダ。彼にたいするその血の憎悪

がユダヤ人の血という全体へと波及することで生まれた宗教的反ユダヤ

主義の歴史。バルトは二十世紀のユダヤ人の現実に対して、その宗教的

倒錯を解体し、聖書に立ち戻り、イスカリオテのユダの根源的な使徒性を

あきらかにしてみせた」と述べています。

 

さて、もう一つ、バルトが『教会教義学』において最後に行った論述である

「和解論」について触れておきたいと思います。

 

バルトは、「和解論」の冒頭で次にように述べています。

 

<「神われらと共に」ということは、神われらの上にとか、神われらの傍に

とか、我らの前にとか、われらの後にとかいうことよりも以上のことである。

それは、神が人間として、しかも神的主権をもって、われわれの事柄を引き

受けるために、人間となったということである。>

 

<われわれが神を侮り、怒らせ、その前に失望し、自分の価値を踏みにじり、

清浄性を失い、救済を失い、そのために自分の被造物的存在を致命的に損

なうことによって、無力化し虚脱してしまったとき、まさにそのときこそ、

神はこのような人間として現れた。われわれすべての者の居る場所は、

そこが明るくなるためには、神自身が入り来たって座を占めねばならぬ

ほど暗い。したがって、キリスト教の「神われらと共に」という言葉の

認識においては、神の恵みの主観に対する深い驚愕、われわれ自身の悲惨

に対する深い恐怖が、なければならない。>

 

つまり、「和解論」が主題とするのは、「神われらと共に」という聖書の

言葉が語るところの、すなわち、絶対他者としての神が、人間と共に、

すべての被造物と共にあるという、その出会いと共同の歴史そのもので

あり、「神われらと共に」ということが、何らかの状態を示すのではなく、

ひとつの出来事であることをバルトは強調するのです。

 

さて、では、このような主張の背景には、どのような事情があったので

しょうか?

 

それは、レッシングという哲学者によって立てられた、「自分で事実として

見とどけなかったことを、証できないことを、われわれはどうして真実と

考えることができるだろうか?」という根本的な疑問、つまり、イエス・

キリストという二千年前の「偶然的な歴史的現実」が、どうして今日の

人間に関りがあるのか、現代人にどのような普遍性をもって妥当するのか、

という深い溝の指摘、そして、この「レッシングの溝」を越えようとして、

近代において歴史的イエスが語られ、また、聖書の非神話化と実存論的解釈

がなされるという状況に答える必要があったようです。

 

<その困難さは、端的に言って、われわれ人間の場所の中で起こったこの

出来事そのものの奇異性と非親近性にあるのではないだろうか。その歴史的

な古さと一回性のためではなく、それ自身の本性のために、あの出来事は謎

となり、われわれの領域、時間、空間の中での「迷い子石」のようなものと

なるのではないであろうか>とバルトは述べています。

 

つまり、レッシング的な問い、それは「かつて」と「今」の時間的へだたり、

歴史的なへだたりを問題化するが、バルトは、この「問い」自体があるレト

リックを含んでいると指摘します。たしかにそこで問われているのは「距離」

の問題であるが、そのとき時間的距離の大きさは、本質的に重要でない。

なぜなら、この距離、へだたりは、二千年という時間のなかにあるのでは

なく、キリストの出来事の中に、和解の出来事そのもののうちに、その基礎

をもっているからだというのです。

 

富岡幸一郎氏は、「人間の場所に現れ、人間の場所でわれわれのために行動

し、語るところの神の存在。それは、しかし人間が自分の所有物としたり、

内在化したりすることのできない「他者」としてある。この神と人間の両者

の間における他者性としての「遠さ」こそがレッシング的問題の真の姿なの

である。」

 

「つまり、「レッシング問題」とは、たんに近代的な歴史観や人間中心主義

の意識の産物ではなく、神の越境という出来事それ自体がもたらす「おそれ

とおのの」(キルケゴール)から逃れようとする、人間の普遍的な不安の

産物である」としています。

 

かくして、バルトによると、<「和解」とは、その言葉通りの元々の意味

では「交換」ということである。神と人間の間の契約の恢復と革新とは、

神の卑下を人間の高挙と換えるというこの交換のことである。神は異郷に

赴き、人間は帰郷する。この二つのことが、ただ一人のイエス・キリスト

において起こったのである。したがって、そこで起こったことは、互いに

続いて起こる二つのちがった活動ではなくて、ただ一つの活動である」

ということになります。

 

以上、カール・バルトという人の思想を、とりわけ、「宗教的人間」では

ない、「使徒的人間」とは何かという視点からそれを見てきましたが、

もう一度、「使徒」とは何か、「使徒的人間」とは何かを、振り返って

おきますと、「使徒というものはプラスの人間ではなく、マイナスの人間

であり、そのような空洞を露呈する人間である。この空洞でもって彼は

ほかの人々を益する」(バルト)ということになるようです。

 

バルトが呈示したのは、ルネッサンス、啓蒙主義以来長らく続いた、神の

領域を凌駕しようとするかのような独創性を求める「天才」の時代、繰り

返し新たな思想を探究する時代の終焉だということです。そして、そこに

登場するのは、自分のうちにあるものを語る、新しい何かを語ろうとする

「天才」ではなく、自らは空洞であり、そのことによって神から手渡され

た真理の言葉を「引き渡し」ていく、イスカリオテのユダを最初とする

「使徒」的な人間の姿であり活動だということです。

 

 
 
 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
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