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「絶対他力」と主体的・能動的決定-歎異抄と現代2-


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歎異抄


 
「私が念仏以外に何か別の極楽往生の方法を知っていて、またその方法が

説かれている秘密の経典を知っていながら、わざとそれを隠しているので、

その奥にあるものを知りたいとおっしゃってここまで訪ねてこられたと

すれば、大変な間違いであります。」

 

「私は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができる

という、あの法然聖人がおっしゃいましたお言葉を、ばか正直に信じている

以外に、別の理由は何もないのであります。」

 

「たとえ法然聖人がおっしゃったことがでたらめであり、私は法然聖人に

だまされて念仏をしたため地獄におちたとしても、ちっとも後悔はいたし

ません。私は(…)念仏の行によらなかったら、永遠に地獄にいるより

仕方がない身なのであります。」

 

「もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことを

あの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまの説法が間違っているはず

がありません。(…)もし法然聖人の教えが正しかったならば、私があなた

方に申しました念仏往生の教えもどうして間違っていましょうか。私の信心

はそれだけ、そのほかにないのであります。」

 

「だから皆さん、以上の言葉をとっくりお考えの上、念仏を信じなさるも

よろしいし、念仏を捨てなさるもよろしい。全く皆さま方の自由勝手、皆

さま方が自分でおきめになることです」(歎異抄第二条 梅原猛氏 現代語

訳)

 

さて、前回は、主に「弥陀の本願」とは何か、親鸞にとって何であったか

について、いわば、「存在論・認識論」的な観点から見てきました。

 

そこでは、親鸞の全人生の根柢に直接かかわる、「色も形もましまさぬ」

真仏の絶対無条件の決定と、この決定自体の威力による、この決定への

親鸞に目覚め=信受が主題であり、親鸞という人間主体は、徹頭徹尾

受動的でありました。

 

そうすると、今度は、親鸞自身の能動的主体的な活動が主題ということに

なりますが、その場合、通俗的な誤解に陥らないために注意しなければなら

ないことが一つあると滝沢克己氏は言います。親鸞という人間主体は徹頭

徹尾受動的だというものの、厳密に区別しなければならない二つの意味が

含まれているというのです。

 

つまり、弥陀本願の選択=決定そのものに関しては、親鸞の人間的主体性・

選択の自由は、完全にただ単純にゼロということです。そこでは、親鸞が

これを受けるも受けないもない、「受動」ということさえ全然問題になり

えない絶対的な受動、ただ端的に事実している絶対的被決定であるが、

これに反して、この絶対的な決定(親鸞に即していうと被決定)の受容、

信受ということは、受動的な「他力の信心」だといっても、「絶対的

被決定」そのものではない、それとの関わりにおいて生起する親鸞自身の

自己決定の仕方だと言わなければならないとしています。

 

では、この場合の「自己決定」というのは、どういう性格のものなので

しょうか?

 

それは、普通にいう「意識的」決定・「自由な選択」と違って、ただ弥陀

本願の廻向によって、親鸞自身にもまったく思いがけなく、突然に起こった

目覚め、いや、目覚めというよりも、生まれながら盲目だった眼が開いた、

これまでなかった眼が始めてできた、とでも言わなくてはならない出来事だ

ということです。

 

ただし、それだけで終わってしまうと、弥陀の決定と自己の決定との混同・

同一視が起こると滝沢克己氏は言います。「絶対他力」の名において、自分

の「信心」に、今度は意識的に固執するようになると言うのです。

 

この恐るべきトリックをはっきり見破るためには、私たちは、まず、さし

あたって、普通の意味での「意識的」な「はからい」とか「決意」とか

「選択」といったものではない働き、それとは全く次元の異なる作用は、

必ずしも親鸞の信心決定の瞬間のような特別な時だけ、私たちに生起する

のではないという、ごく身近な事実に注意しなければならないと言います。

私たち各自の人生の深部・生命の芯に起こること、その人の生全体に基調

にかかわることには例外なく生起すると言うのです。

 

私たちは誰も、目の前に並べられている色々なものを選ぶように、自己自身

の全人生の基調を選ぶということはできない。なぜなら、そのようには

できていない、造られていないからだと言います。そうではなく、私たち

人間の自由は、それが成り立つと同時に、この一つの根本的な問いに対して、

何か特定の一つの答えを提出するよう、みずから一つの特定の形の答えと

なるよう、有無を言わさぬ厳しさが要求されるとしています。

 

ところが、私たち生まれながら人間には、この問いに正しく答えることが

ほとんど不可能なまでに難しいと滝沢氏は言います。

 

普通はこの問題を問題として意識することさえなく、生まれ育った宗教的・

社会的習慣にしたがって生きがいや人生の目的を持ち、それを前提にして

生きていますが、普通に「計画する」とか「選ぶ」とかいうのは、それ自身

は疑いのない確かなものとして知らず知らずのうちに立てられている大前提

の上に立って行われているにすぎない、いわば、人生の根本前提にかかわる

「無意識」の自己決定を背に負うて、その表層に起こっている「意識的」な

決定にすぎないというのです。

 

よって、親鸞の「自己決定」は、現代社会における「思想・心情の自由」と

は異なります。実際に存在する人生の根本前提は、私たち人間が選択する前、

あれこれ考える前に、すでに置かれている、どう改変しようもなく決定され

ているからです。

 

「親鸞は法然の教えに導かれて、自己成立の根柢に臨在する唯一絶対のこの

決定に開眼した、そうして、法然に倣い、経釈の伝えるところにしたがって、

この決定を、「弥陀本願の選択・摂取不捨の大悲」として、はっきりと言い

表しました。かれにとって、全人生の根本前提にかんするかぎり、この

「自然」の決定に対してただ単純に然りを言い、これに感謝し、これを称

(たた)えて念仏するほか、いかなる道も、「選択に可能性」も残されて

いませんでした。かれの「自由」を奪いつくすこの決定、極度に狭いこの門

を通じて始めて、天地の何ものもこれを奪いえぬ人間本来の自由、すべての

ものに開きつくされたかれ自身の心が生まれてきたのです」と、滝沢克己氏

は述べています。

 

そして、この根源的な決定を受け容れても受け容れなくても、それは「人間

各自の自由」だと主張する「自由主義者」は、彼がいかに自信をもって己の「

文明開化」を誇り、「国家権力」の弾劾と「人民大衆」の啓蒙に挺身(てい

しん)しても、事実は彼のそうした自信とは全然逆に、実際に存在する自由

の根拠・根源に背いて、不明にも、単なる根なし草的生活を、本当に自由な

生活だと思い違えているのだ。この根本的な思い違い=「無意識」の錯覚に

彼自身それと気づかぬかぎり、それは結局のところ、生活の実際から遊離し

た「通人」の煩瑣な趣味を出ることはできない、としています。

 

親鸞は、もとよりこのような「自由主義」、「思想・信教の自由」について

一言も語っていないというのです。もっとも、それは親鸞が住んでいた社会

が自由主義経済を土台とする市民社会でなかったことと深く関係している

ことは否定できません。しかし、「思想・信教の問題」を経済・社会的な

ものに還元することはできないというのです。

 

滝沢克己氏は、「弥陀選択の本願に帰依するかぎり、かりに現代の社会の

ただなかに住んでいるとしても、かれ(親鸞)はただちに、「思想・信教

の自由」という「現代の良識」のなかに潜んでいる根本的な自己欺瞞・

無意識の偽善を看破したことでしょう。かれのばあい、弥陀選択の本願に

帰依するということ、摂取不捨の決定を信ずるということは、それじたい、

すなわち、自己そのもの=人間の自由そのものが事実上どこからどこへ

向かって成り立ってきているかを、はっきり知るということであったから

です」と述べています。

 

以上のことから、大きな回り道をしましたが、親鸞のいう「他力の信」と

いうものは、弥陀の選択本願、親鸞という人間主体の成立の根柢にすでに

来ている絶対無条件の決定に基づいて、ひとえにその「もようし」のおかげ

で彼自身に生起することではあるが、同時に他面、どこまでも親鸞自身の

責任において彼みずから行うところの、主体的・能動的な決定であること、

よって、それは現代人が想起する「思想・信教の自由」とそれに基づく選択

といったものとは全く異なったものであることをいくらか理解することが

できました。

 

とはいっても、弥陀本願の決定力(のはたらき)と親鸞の信心としての自己

決定の区別・関係・順序のありようを、どう言葉を尽くして説き明かして

みても、その説き明かしを本当に理解するということは、ただこれを聞く

人自身が弥陀の「もようし」によって直接に「信心を賜る」ということに

おいてしか起こりようがないことである、と滝沢氏は言います。

 

私たち人間の言葉・論理は、たとえどんなに正しく力あるものであっても、

それは要するに、一つの反響・映しであって、真にそれ自身で語る言

(ことば)・照らす事実の理(ことわり)ではありえないというのです。

 

しかし、それでもなお、親鸞の信心・念仏は絶対他力の決定・「もようし」

によるものだということと、それが徹頭徹尾、親鸞自身の自発的な決定・

選択だということとは、一見全く矛盾するように見えて、事実は決して

そうではないこと、むしろ、徹頭徹尾「自分の」ではない、それ自体で実在

=支配しつつある決定を、有無を言わさず受けるということがなければ、

人としての親鸞の自由・自発的決定ということは、絶対に成り立ちよう

も働きようもないこと、それだけはいくぶん明らかになったといえるの

ではないかとしています。

 

よって、このような他力の信心・念仏の行者であった親鸞にとって学問の

探究などは問題にもなりえなかったのであり、「彼の関心はただ一つ、人生

の事実そのものにありました。この人生に本当に確かな支えはあるの

かないのか、あるとすればどこに、どのように在り、どうこの自分自身に、

すべての人に関わっているのか、ただそれだけが彼の関心事でした。途中

でやめること、自分で打ち切ることを決してしない、長い、苦しい旅路の

すえ、彼はさいわいに縁あって法然聖人に遭い、その人と教えを通して、

弥陀の本願に帰した、人間共通の、本来の故郷に帰り着いた、するとそこ

には、それまで夢にも思わなかった 世の常の観念では「宗教」とも、

「哲学」とも、「論理」とも、「倫理」とも、どうにも名づけようもないと

同時に、それらすべての位相・役割がそこから始めて本当に照らし出されて

くる 一筋の道があざやかな形を成して、彼自身の躰(からだ)の芯に

吹き上げてきた」のだと滝沢氏克己は述べています。

 

 
 
 
 
 
  
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