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異端・異説批判-歎異抄と現代4-


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歎異抄の世界 




『歎異抄』の第十一条から第十八条までは、親鸞の教えに対する八つの

異端異説への批判が述べられていますが、今回は、それらを紹介して

おきたいと思います。

 

(第十一条)

「無学な人々が一生懸命に念仏していますと、おまえは阿弥陀さまの誓願

の不思議を信じて念仏をしているのか、名号の不思議を信じて念仏をして

いるのかと、びっくりするようなことをいって、二つの不思議がどういう

ものであるかをはっきり説明せず、人の心をまどわす者がいます。これは

よくよく考えて、その間違いを明確にしておかなければなりません。」

(梅原猛氏 現代語訳)

 

この箇所について、梅原氏は次のように述べています。<浄土往生の教え

の本質は、かの宗教的パラドックスであった。(…)しかし、親鸞が死んで

彼の記憶が薄れるとき、そういう不可思議なるパラドックスは忘れられ、

分別悟性が目覚めるのである。(…)(教団設立後)当然信仰の教学化が

行われ、浄土往生の思想の教義化が行われるが、こうした教学論者は

パラドックスを理解せず、それをこざかしい分別理性でおもちゃに

するのである。>

 

<誓願不思議と名号不思議を分かつのは、そうした分別理性のおもちゃの

一つであろう。しかし、この教団へ入り込んだ似非インテリは、このおも

ちゃでもって、無知で真摯な信者の心を惑わす。こういう異説に対して、

唯円はまじめに答えている。誓願の不思議と名号の不思議は分かつことが

できない。悪人成仏は誓願の不思議である。しかし、そのために唱えやすい

名号を考え出されたのである。名号の不思議は誓願の不思議の中におのず

から含まれている。>

 

また、滝沢克己氏は、これについて、まず問題は、念仏にさいしての、

「誓願不思議」と、「信心」と、名号不思議の関係如何にかかわって

いるとしています。

 

こういう問題が、「人をまどわす」ようになるのも、もとはといえば、

真に実人生の場そのものを決定・制約している弥陀の本願そのものと、

人間の言葉・文字としてのその表現形態との、絶対に不可逆的な区別を

含んだ統一を、ほんとうにわきまえないで、これらの文字を用いて怪し

まないことから来ると言います。

 

「誓願の不思議」において、人間はおのおの一個の客体的主体として、

真実自由自在な不可視の主体を表現すべく定められているから、この根源

的関係そのものに目覚める、すなわち弥陀の本願を信ずるということは、

それじたい必ずその瞬間の躰(からだ)の動き、つまり、南無阿弥陀仏と

名号を唱えることたらざるをえないとしています。

 

よって、人間の善悪賢愚・大小上下とはまったく次元の異なる、端的な

事実としての「誓願不思議」に、ただひたすらに依り頼む信に欠けている

ところには、決して本願自然のことわりにかなう念仏の湧出することがない

のであり、そのような人にとって、念仏は、その人がいかに「名号不思議

を信じて」の念仏だと言い張っても、そのじつはただ、真実の信知の欠落

した自分の、脚もとに口を開く底なしの闇を陰蔽する手だてに転化するの

だとしています。

 

しかし、それは決して「名号の不思議」が、私たちの正しい信に依存して

いるということではないと言います。私たちの信がまずあって、しかるのち

の、それに基づいて、それを一段と確実有効ならしめるために、名号が案出

・設定されたというのではなく、名号の真実の根基・根源は、人間の信心

(信知)のそれと同じ、弥陀の誓願不思議自体にあるというのです。

 

(第十二条)

「経典やその注釈を読んで勉強しない人々は往生することができるかどう

かわからないということ。これは論ずる余地のない説であります。他力

救済の真理を明らかにした多くの聖なる経文は、すべて本願を信じて念仏

をすれば仏になることを明らかにしたものであって、そのほかどういう

学問が往生のために必要でありあましょうか。…」(梅原猛氏 現代語訳)

 

これについて、梅原猛氏は、<これもまた教団に入り込んだ似非インテリ

に対する厳しい批判の言葉であるばかりか、すべてのパリサイ人に対する

容赦ない告発の言葉である。似非インテリはいう、信仰だけではだめだ、

学問をしなかったならば往生はできないと。こういう説に対して唯円は

いう、法然や親鸞は一文不通の者のため他力往生、易行念仏の道を説いた

のではないか、学問をして何になる、学問はしょせん名聞利養の道では

ないかと>。そして、<唯円は、真の念仏易行の徒としての学問の態度を

教える。信仰をいっそう強めるために学問はあるべきである。信仰を妨げ

るような学問、それは法の魔障、仏の怨敵、おのれの迷いを他に及ぼす

もの。唯円のパリサイ人に対する告発は激しい>と述べています。

 

一方、滝沢克己氏は、<うっかり読むと、問題は、往生のために、信心と

学問とどちらが大事かという点にのみ、あるかのように見えるけれども、

決定的に重大なのは、たといそれが最も正しい信心、ひたむきな念仏で

あっても、決して人間主体の働きであるかぎりの行ではなく、それは

むしろ、弥陀自然の選択本願そのもの、言いかえると、絶対無条件に

真実浄土が実在すること、しかも穢土即浄土、罪悪深重・煩悩の具足即

無量寿命・無量光明仏なる、絶対に不可分・不可同・不可逆的な根源的

関係において実在するという、驚くべき事実だけだ>と言います。

 

つまり、私たちの信心や念仏の力によって、弥陀と凡夫の、絶対に堅く

親しい縁が結ばれるのではないし、肉の耳に聞こえる名号の「媒介」に

よって始めて、浄土と穢土が関係づけられるのでさえないということです。

 

逆に、永劫の過去から未来にわたって弥陀即凡夫、浄土即穢土という独一

無比の関係が成就しているから、そののち誰かが単純素朴に「本願を信じ、

念仏して仏になる」ということが起こりえたし、今日も起こりうるのだと

言うのです。

 

よって、決定的にこのことが起こるために、何か「学問」が絶対に不可欠

だとなどということはあり得ないのだとしています。

 

しかし一方で、人によっては、長くたゆまぬ学問の努力の果てに、ようやく

その機が熟して,真実他力の信に入るということも十分あり得ることです。

 

それゆえ、この条で唯円が厳しくしりぞける異端は、決して単に中性的な

「学問」一般ではなく、ただ、事実すでに来ている凡夫の救い=真にそれ

自体で実在する人間自立の拠点を見いだし、証することはおろか、真剣に

尋ね求めることをさえせず、己の立てる学説ないし主義をもってこれに

代えようと腐心してやまない学生(がくしょう)たちの「学問」である

としています。

 

(第十三条)

「阿弥陀さまの本願が不思議きわまるものであり、どのような悪人をも

救ってくださると申しましても、悪をおそれないのは“本願ぼこり”と

いって往生することができないということ。このことは、本願を疑い、

善悪が、人間がおのれの過去に持っている暗い業によって左右されている

のを理解しない見解であります。」(梅原猛氏 現代語訳)

 

これについて、滝沢克己氏は、これも、うっかり読むと「本願ぼこり」と

してそこで非難されているものを、ただ単純に弁護しようとしているかの

ように見えるが、必ずしもそうとばかりは言えないとしています。

 

「本願ぼこり」という語が、真実他力の信心からいうと、本来は決して

そうあってはならない態度、というより、自然に消えてゆくはずの姿勢を

指しているとしか読みようがないとすると、その重心が、「本願ぼこり」

そのものにではなく、むしろまず、「阿弥陀さまの本願が不思議きわまる

ものであり、どのような悪人をも救ってくださると申しましても、悪を
おそれないのは」
といわれる、そこのところにあることが明らかだという

のです。

 

すなわち、唯円によると、親鸞は、「本願ぼこり」といわれるものをも

含めて、人間の仕出かす悪が、弥陀の本願そのものの威力よりも強いか

のごとく、ただ単純にこれを信じて念仏申すことを妨げる力あるものの

ごとく思い過ごす、そういう考えを、真実他力の念仏・至心信楽の道から

逸(そ)れるものとして諭されたということです。

 

なお、第十三条における「宿善・宿業」についての滝沢克己氏の言説は

前回すでに紹介したとおりです。

 

さて、さらに第十三条には、次のような衝撃的な言葉があります。

 

「また、あるとき聖人が、「唯円坊よ、おまえは私のいうことを信じるか」

とおっしゃいましたので、「もちろんでございます」とお答え申し上げた

ところが、「そうか、それじゃ私のこれからいうことに決してそむかない

か」重ねて仰せられたので、つつしんでご承知いたしましたところ、「じゃ、

どうか、千人殺してくれ。そうしたらおまえは必ず往生することができる」

とおっしゃったのであります。そのとき私が、「聖人の仰せですが、私の

ような人間には、千人はおろか一人だって殺すことができません」とお答え

したところ、「それではどうしてさき、親鸞のいうことには決してそむか

ないといったのか」とおっしゃいました。そして、「これでおまえもわかる

はずである。人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のため

に千人殺せといったら、おまえは直ちに千人殺すことができるはずである。

しかし、おまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺す

べき因縁が備わっていないからである。自分のこころがよくて殺さないので

はない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろ

う」とおっしゃいましたのは、われわれの心が、よいのをよいと思い、悪い

のを悪いと思って、善悪の判断にとらわれて、本願の不思議さに助けたまわ

るということを知らないことを仰せられたのであります。」

 

この言葉について、梅原猛氏は、次のように述べています。

 

「この条を読みながら私は戦慄を感じた。」「この言葉は、唯円の心を

ためすために親鸞がいった言葉と解されるかもしれない。あるいはそれ

は一つの比喩であるとも解されるかもしれない。しかし、それがためしと

いえ比喩といえ、とても聖者の語る言葉であるとは思われない。聖者では

なく、悪魔の語る言葉であるようにすら見える。」

 

「この言葉を語るとき、親鸞はどんな顔をしていたのであろうか。私は、

それはおそろしいばかりの緊張に満ちた顔ではないかと思う。信仰以外の

あらゆるものが無価値といえ、信仰のためにすべてを捧げようとする顔で

ある。私はその顔に、尊敬と同時に恐怖を感じざるを得ないが、唯円が、

私は一人も殺すことができないといったとき、すべての悪業は人間の業、

わが心によって殺さないわけではないといった親鸞には親しみを感じる

のである。」

 

「そのとき親鸞は、じっとおのれの心を自省する人であった。わが心に

ある煩悩、殺人まで犯しかねない情欲や、我欲や、憎悪の心を自省し、

悪業に満ちた人間というものを深い慈悲の心でながめる人であった。」






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