FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「神伝の法」と信仰


にほんブログ村
神伝禊法2 神伝鎮魂法 


 
 少し前に、水波一郎氏の『神伝禊法』の紹介をしましたが、そこでは、

神伝の法(神伝禊法)とは、「神霊のご意思を受け、高貴な霊魂方が降ろ

された神秘なる秘術」だとされ、それはまずは、死後の世界に上の世界に

入るためのパスポートという面があり、次には、霊的生命体としての進歩

を促進するという面があると述べられていました。

 

そして、さらに、二つの大きな霊的力、つまり、過去世の意識に変化を

もたらすということの結果、この世を生きる上での不幸をより小さく

できるという力と、もう一つ、普通は接点が持てない高貴な霊的存在との

交流ができるという力を培うことができると述べられていました。

 

今回は、少し角度を変えて、なぜ、今、神伝の法が世に出なければなら

なかったのか、なぜ、従来の伝統的な修行法では十分ではないのか、

あるいは、信仰心と祈りだけでは不十分なのかを、私の個人的な考えを

交えて記してみたいと思います。

 

さて、人類の知性の発達、特に近代以降の自然科学の発展は、社会や国家

や文明の著しい発展をもたらす一方で、それと反比例するかのように、

宗教というものの衰退、神仏等の高貴な存在への信仰心の喪失をもたらし

ました。そして、その結果、近現代においては、無神論や唯物的な科学が

大きな影響力を持つに至りました。

 

しかし、その前には、長い間、宗教が社会や国家において重要な役割を担い、

神や仏への信仰が当たり前の時代があったのです。

 

そのような時代は、迷信がはびこったり、宗教が原因で大きな争いがあった

としても、我々の先入観念とは異なり、霊的な環境は今ほど悪くはなかった

ようなのです。

 

しかし、近年、人々は信仰心を失い、神は否定され、宗教は廃れ、あるいは

形骸化するなかで、また、資本主義社会における各人の欲望の増大、自我の

肥大化に伴う想念と想念の激しいぶつかり合いによって幽体(死後使用する

霊的身体)は傷つき、邪悪な霊的存在(霊魂)の干渉と影響力が増大する

なかで、霊的な環境は著しく悪化した、と水波霊魂学では言われております。

 

そして、霊的環境の悪化は、信仰そのものが本来持っていた高い価値を

も壊してしまったようです。その祈りや思いは、神仏に、いや、それを

媒介する高級霊魂にさえ届かなくなったようであり、逆に、邪悪な霊魂

につながることになったようなのです。

 

同様に、霊的環境の悪化は、伝統的な霊的修行法に対しても、その価値を

著しく下げてしまったということです。霊的修行が、霊的な覚醒や成長を

もたらすのではなく、邪悪な霊魂の干渉や、霊的障害の原因になるという

事態にまで至っているようなのです。

 

さて、先にも触れたように、このような信仰の危機、霊的修行法の危機の

時代に対して、神霊のご意思の元にもたらされた技法が「神伝の法」だと

いうことです。

 

つまり、多くの人たちが神仏や霊的な世界の存在を認めないのみならず、

たとえ、神仏の存在を認め、霊的な世界に関心を寄せる人であっても、

本当の信仰心、つまり、単なる現世利益ではない、魂の救いを求める人が

非常に少ないという危機的状況が到来したがゆえに登場したのが神伝の法

であるということになります。

 

しかし、信仰心というものは、魂の奥底から自然に湧き上がってくるもの

であり、強制すべきものではありません。思考を遮断されたような状態で、

一方的に注入されたとしたら、それはマインドコントロールの一種にすぎ

ないのです。よって、神伝の法では、現代人の精神構造というものを深く

考慮されていると思われます。

 

では、神伝の法(神伝禊法、神伝鎮魂法)では神仏への信仰、あるいは

信仰心というものがどのように位置づけられているのでしょうか?

 

水波一郎氏は、『神伝鎮魂法』において、神伝の法は神霊の存在が前提に

なっているため、神霊や霊魂の存在を否定してしまうとそのトレーニング

は成り立たないとされますが、一方で、「信仰心は必要でありながらも、

戒律がない神伝の法は、最善ではないかと思う」「水波霊魂学の立場から

すれば、実際に存在している高級霊魂の力をお借りする。その際、礼儀を

忘れない。それだけの事なので、人間として当たり前の事でしかないので

あった」「信仰というよりも、霊的な現実を正確に受け入れる、ただそれ

だけであり、それを信仰と呼ぶ事すら違和感があるくらいである」と

述べておられます。

 

つまり、信仰心といっても、一般的な宗教の場合ように戒律がなく、他者

(高貴な存在)の助力を得る場合、感謝と礼儀を忘れないという人間と

して当たり前のことが要求されるだけだということです。

 

これであれば、現代人であっても無理なく受け容れることができるのでは

ないかと思われます。

 

さて、そうすると、信仰心というものが、もう、重要視されないかのように

受け取れます。しかし、決してそういうことではないのです。

 

私の個人的な考えですが、高貴な存在への深い敬愛と帰依、つまり、篤い

信仰心とは非常に重要なもので、どこまでも深めてゆかなければならない

ものではないかと思います。しかし、信仰心そのものが欠如した、或いは

希薄な現代人に、最初からそれを求めるのは無理であり、上記のような

段階から始め、霊的なトレーニングに励むなかで、徐々に信仰心を培って

いくという方法がとられているのではないかと思います。

 

そして、水波一郎氏監修のHP『霊をさぐる』の「霊魂と交信する技術」

にもあるように、死後も霊魂として成長してゆき、高級霊魂となったとき、

自己犠牲、つまり、自己の霊としての消滅を厭わない、それが無上の喜びで

あるというような、究極的な信仰心のようなものが形成されてゆくことが

目標とされているのではないでしょうか?

 

最初は、まず、人として当たり前の礼儀をわきまえ、当たり前の感謝をし、

霊的トレーニングに励むなかで、徐々に、霊的成長を成し遂げ、徐々に深い

信仰心を培ってゆくことが目指されてるいのではないかと思います。

 

そもそも、信仰とは何だったのか、救いとはなにかということです。

 

一般的に、神や仏を信じることを意味するとされますが、宗教によって、

その意味も異なります。現世利益のための信仰から、キリスト教になどに

おいて原罪と呼ばれるような人が自力では解決が不可能な根本的な問題

からの救済を得るための信仰まで、大きな違いがあります。

 

現世の利益の対象となる貧困や病気はというものは、福祉や医療の発達に

よって代替されるにしても、魂の救いという、人間の持つ根本的な課題を

解決する方法として、そして、霊的な進歩、向上というものを成し遂げる

大切な手立てとして、信仰というものは未だその価値を失っていないので

あり、どこまでも深めていかなければならないものではないとか思われます。

 

以上、神伝の法の価値は、神霊のご意思の元にもたらされたということに

とどまらず、今まで大きな価値を持っていた深い信仰心による祈りや、伝統

的な霊的、宗教的修行法が霊的環境に悪化に伴い危機に瀕したときにもたら

されたというところにあるではないかと思います。

 

よって、神伝の法は、決してかつての信仰の祈りや、伝統的な霊的修行法

を誹謗するためのもの、貶めるためのものではないのです。本来、持って

いたその価値を甦らせ、さらにそれを発展させるために登場したものだと

言えるでしょう。

 

「神の恩寵」という言葉がありますが、神伝の法こそが現代における「神

(神霊)の恩寵」そのものではないかと思います。真の救いとは、恩寵と

して神霊が指し示してくださった方法(神伝の法)を、我々が主体的に受け

入れ、それを実践し、霊的な成長を成し遂げ、霊的な桎梏とその苦悩から

解放されることであったのではないでしょうか?

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スポンサーサイト

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。