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回心-「宗教的経験と諸相」2-


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宗教的経験の諸相2 




「回心」というと、パウロの回心、すなわち、それまでユダヤ教徒として

キリスト教徒を迫害していたパウロが、ダマスコ(ダマスカス)への途上に

おいて、「サウロ、サウロ(パウロのユダヤ名)、なぜ、わたしを迫害する

のか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いたその後、目が

見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロ

のために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目に見えるように

なった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった、という瞬間的、

劇的な意識の転換の出来事がよく知られています。

 

今回は、この回心ということについて、紹介して見たいと思います。

 

さて、ウイリアム・ジェイムズは、回心について、まず、ある人の次の

ような体験を例示しています。

 

「私は信仰によって、救い主が、人の姿をして、およそ一秒間、部屋の中に

あらわれ給い、両手をひろげて、来たれ、と私に言い給うのを見たと思った。

翌日、私はおののきながら喜んだ。すぐそのあとで、私は死にたいと言った

ほど、私の幸福は大きかった。私の知るかぎり、私の感情のなかのどこにも

この世の入る場所がなかった。そして毎日、毎日が私にはまるで安息日の

ように荘厳に思われた。私は全人類が私と同じように感じてくれればよいと

熱望した。私は、彼らがみな神をこの上なく愛することを望んだ。このとき

まで私は非常に利己的で独善的であったが、いまや私は全人類の福祉を願い、

私の最悪の敵をも温かい心で赦すことができた。そして、もし私が神の御手

のなかにある手段、誰かの魂の回心の手段たりうるなら、私は喜んで、いか

なる人の嘲笑や冷笑にも耐えられるし、神のためになにごとも我慢できる

ように感じた。」

 

そして、ジェイムズは、次のように述べています。

 

「回心する、(精神的に)再生する、恩恵を受ける、宗教を体験する、安心

を得る、というような言葉は、それまで分裂していて、自分は間違っていて

下等であり不幸であると意識していた自己が宗教的な実在者をしっかりと

つかまえた結果、統一されて、自分は正しく優れており幸福であると意識

するようになる、緩急さまざまな過程を、それぞれあらわすものである。」

 

「少なくともこの過程が、一般に回心と言われるものであって、そのような

精神的な変化を引き起こすのに、直接の神の働きかけが必要であると考える

か否かは別問題である。」

 

ところで、この「回心」は宗教固有の現象なのでしょうか? 回心の心理的

メカニズムというものは一般化できるのでしょうか?

 

ジェイムズは、カリフォルニア大学のスターバックという学者の、キリスト

教福音主義派の団体の中で育った若人たちに起こる「回心」が、あらゆる

階級の人間の青春期にごく普通に見られる豊かな霊的生命の成長と、その

あらわれ方がとてもよく似ているという主張を紹介しています。

 

それは、普通、14歳から17歳ぐらいまでの間に起き、自分は未完成で

あり不完全であるという感じ、思案、意気沮喪、病的な内省、罪悪感、来世

に対する不安、懐疑の悲しみなどに囚われるが、次第に自分のもついろいろ

な能力をいっそう広い視野に適応させるにいたるために自信が強められて、

幸福な安心感と客観性を得るにいたるというものです。

 

ジェイムズも、青年期におけるこのような回心は、小児が小さな世界から

成年の広い知的および精神的な生活に移行するときに付随しておこる現象

だとして、スターバックの結論に同意しています。

 

ただし、スターバックがここで念頭においているのは、主として教導や訴え

や範例によって昔から決まっている一定の模範型にはめ込まれてしまうよう

なごく平凡な人々の回心のことであり、このような模倣的な現象ではない、

できるかぎり直接の、本源的な形式の経験について考察する必要があると

しています。

 

さて、ジェイムズは、人間存在における精神的事象には二つの型があって、

それが回心という過程にも著しい差異となってあらわれると述べています。

 

回心の歴史においても、この二つの方法が実際に見いだされ、回心の二つの

型を私たちは与えられているのであるが、それを先のスターバックは、それ

ぞれ意志的な型および自己放棄による型と呼んでいます。

 

ただし、意志的な型とは、再生的な変化が、普通、漸次的であって、道徳的

および精神的習性の新しい組織が少しずつ組み立てられてくるものを指すが、

潜在意識的な影響がいっそう豊富で突発してしばしば人を驚かせる自己放棄

型のものとの差異は見かけ上のもので、根本的なものではないようです。

 

もっとも意志的、随意的におこなわれる種類の(精神的)再生のなかにさえ、

部分的な自己放棄の何節かがさしはさまれているということであり、最後の

一歩そのものは、意志以外の力にゆだねられねばならないということです。

 

では、最後の瞬間になって自己放棄がなぜそれほど不可欠なのでしょうか?

 

ジェイムズは、スターバックの説明を、興味深い、そして図式的な考えで

あるが真実に近いと思われるとして、次のように紹介しています。

 

<まず、回心しかかっている人のなかには二つのものがある。第一は、

現在の状態が不完全であり、間違っているという考え、逃れようと熱望

される「罪」の意識であり、そして第二は、到達したいとあこがれられる

積極的な理想である。>

 

<しかるに、私たち、大抵の人間にあって、私たちの現在の状態が間違って

いるという感じは、私たちが目ざすことのできるいかなる積極的な理想の

観念よりも、はるかにはっきりした意識であり、大多数の場合において、

「罪」がほとんど独占的な注意を奪ってしまう。したがって、回心とは

「義に向かって努力する過程というよりは、むしろ罪から脱出しようと

苦闘する過程」である。>

 

<よって、そのとき、人がしなければならないこととは、緊張をゆるめ

なければならない。すなわち、彼自身の存在のなかに湧き出てきつつある、

義を助成してくれる、より大いなる力に頼らなければならない。そして、

その力が始めた業(わざ)をその力に独特な方法で完遂させねばならない。

この見地からすると、身をゆだねるという行為は、人間の自己を新しい生命

に引き渡すことであり、新しい生命を新しく生まれた人格の中心にすること

であり、それまで客観的に眺めていた新しい生命の真理を内面から生きる

ことである。>

卑近な例えでいえば、いかに努力しても分からなかったことが、その努力を

放棄した瞬間に、その答えがわかってくる、といった感じでしょうか?


ジェイムズは、「「人間が窮地に陥るときこそ、神の働き給う機会(とき)で

ある」といわれるのは、自己放棄が必要であるというこの事実を神学的に

言いあらわしたものである」と述べています。

 

そして、以上のことから、なぜ自己放棄が宗教的生活の重大な転機と見なさ

れたか、つねにそう見なされなければならないかが理解できるるだろう

 

さて、ジェイムズは、このように回心の心理学的なメカニズムについて

触れたあと、やはり、注目すべきは、冒頭のパウロのような、神の恩寵と

結びついたような、著しい瞬間的な回心の場合であるとして、それを追求

しています。

 

このような回心は、しばしば、意識の恐ろしい感情的な興奮ないし混乱の

ただなかに、古い生活と新しい生活とが瞬く間に分離されてしまうもので

あり、特に、プロテスタント神学において演じた役割のゆえに、宗教的経験

の重要な様相となっており、この型の回心を良心的に研究しなければなら

ないとしています。

 

そして、ジェイムズは、瞬時に起こった劇的な回心の例をいくつか示した

あと、「以上の例だけで、突然の回心というものが、回心を体験する人に

とって、どれほど真実で、決定的で、忘れがたい出来事であるかを、十分

に諸君に示したであろう。回心の最中、回心者には自分が、上から自分の

上に行われる驚くべき変化の傍観者ないし経験者であるように思われるに

違いない。このことは、ありあまるほどの証拠があって疑う余地がない」

と述べています。

 

もっとも、回心が瞬間的なものでなければならにと主張するのは、プロテ

スタント全体ではなく、モラヴィア派に始まり、メソジスト派に引き継が

れているとされます。

 

プロテスタンティズムの普通の諸派は、カトリック教会と同じように瞬間的

な回心を重要視せず、自己絶望と自己放棄との激しい危機に続いて救いが経験

されるということがなくとも、キリストの血と典礼と個々人の普通の宗教上

の義務行為とだけで実際には救いを得るに十分だと考えられているようです。

 

さて、メソジスト派の人たちが重視する瞬間的な回心において、その経験は

自然的な過程であるよりは、しばしば声が聞こえたり、光りが見えたり、

幻をみたり、自動的な運動現象が起こったりし、また、ある高い力が外

から流れ込んできて、それにとり憑かれてしまったような感じがし、

その上、自分の本性が根本的に新しく生まれ変わったと信じさせるに足る

ほど不思議な歓びを与えるため、むしろ、一つの奇跡であるという感じを

抱くことになるようです。

 

しかし、この特定の宗派が重要視する瞬間的な回心は、特別視すべきもの

なのでしょうか? また、それほど突発的でない心の変化の場合と違って、

まさに神が現前し給う奇跡だと言えるのでしょうか?

 

ジェイムズは、その問いに客観的に答えるために、当時の心理学的な発見

について触れています。

 

この発見は、通常の中心と周辺とをもった普通の意識ばかりでなく、さらの

周辺の外に意識があり、それは一群の記憶、思想、感情の形で付加的に存在

しているというもので、特に、場を超えて存在する意識、あるいは識閾下に

存在するという意識の発見は、宗教的伝記の多くの現象の上に光を投げかけ

てくれると述べています。

 

この種の意識の超周辺的な生命が著しく発達している場合のもっとも重要な

結果は、人間の普通の意識の場が、そういう周辺からの侵略をうけやすいと

いうことであり、この侵略は、当人にとっては、説明しがたい行動衝動や、

妄想の形とか、幻視や幻聴の形さえとってあらわれ得るし、自動的に話した

り書いたりする方向をとることもあるとしています。

 

これらは「自動現象」と名づけられるものですが、自動現象のもっとも単純

な例は、いわゆる催眠術後の暗示現象だとされます。

 

そうだとすると、<そういう出来事が、個人の将来の霊的生活にどういう

価値をもっているかという問題をまったく除外して、心理学的な面だけを

とって見た場合、そこに見られる多くの特徴が回心以外のものに見いだされ

るということを私たちに思い出させ、そのために、私たちはそういう出来事

を他の自動現象と同じ部類に入れたくなり、そして、突然の回心と漸次的な

回心との間の差異をなすものは、単純な心理的特性であると考えたくなる>

とジェイムズは述べています。

 

つまり、瞬間的に恩寵を受けやすいという人というのは、ある広い領域を

所有していて、その領域で心的な働きが識閾下で行われることができ、その

領域から、第一次的意識の均衡状態を突然くつがえしてしまうような侵略的

な経験が生じてくるような人だということです。

 

これに対して、瞬間的な回心を特別視するメソジスト派の人たちから異論が

唱えられたようですが、それに対してジェイムズは次のように答えています。

 

「私たちの精神的判断、つまり、人間的な出来事あるいは状態の意義および

価値に関する私たちの意見というものは、もっぱら、経験的な根拠に基づい

て決定されなければならない。回心の状態の生活に対する果実が善いもので

あれば、たといその回心が一片の自然的心理であろうとも、私たちはそれを

理想化し尊重すべきある。また、もしそれが善き果実を結ばぬものならば、

よしそれが超自然的な存在によって与えられたものであろうとも、そんな

ものは躊躇なく片付けてしまうべきである。」

 

ここに、ジェイムズの回心というものに対する考え方がよく表れているよう

に思います。

 

彼が瞬間的な回心というものを重視するのは、それが、神が現前し給う奇跡

だからではなくて、それが宗教的生活において良き果実を結ぶのかどうかと

いう点であったということです。

 

瞬間的な回心が特別なもの、その力がただ超越的であるということだけでは、

その力が悪魔的ではなくて神的であるという推定を立証することはできない

のであり、その価値はそれが及ぼした影響によって決定されねばならない

とも述べています。

 

では、その果実として結実するものは何でしょうか?

 

果実、すなわち、達成されるものとは、「しばしば、精神的活力のまったく

新しい水準であり、比較的英雄的な水準であって、この水準に達すると、

不可能なことも可能になり、新しいエネルギーと忍耐力があらわれるので

ある。人格が変化するのである、人間が新しく生まれるのである」とジェイ

ムズは述べています。

 

そして、回心の経験の時を直接満たした特別な感情とは、まず、第一に、

高い力の支配という感じであり、そして、それは必ずしも常に現前する

とは限らないが、非常にしばしば、高い力(神)の現前であり、第二の特徴

は、今まで知らなった真理を悟ったという感じ、つまり、人生の秘儀が明ら

かになることであり、第三の特徴は、世界が客観的な変化を受けるように

見える、つまり、あらゆるものが新しく見え美化されるのだと述べています。

 

最後に、ジェイムズは、回心の締め括りとして、突然の回心の一時性、恒久

性の問題(再び堕落したり、逆もどりしたりすること)について、「生活に

する態度が変わり、たとえ感情は動揺するにしても、その態度は明らかに

不変で永続的なものとなる点にある。…言いかえれば、回心を経験して、

ひとたび宗教生活に対する一定の立場をとった人は、その宗教的感激が

どれほど衰えることがあろうとも、あくまで宗教生活を自己の生活と感ずる

傾向がある」というスターバックの結論を引用しています。

 

そして、ジェイムズ自身も、この問題の「要点は性格がこのように高い水準

へ高まってゆくその持続時間にあるよりは、むしろその高まりの本性と仕方

にあるのである。人間はどの高さからでも堕落する。」「回心の経験は、人間

にその精神的能力の高水位がどれだけであるかを示すものであって、これが

回心の経験の重要性をなすのである。― この重要な意義は、その経験の

長期の持続によって増大されはするが、後戻りして堕落したからといって

減少するものではない。事実として、すべてかなり顕著な回心の例は、たと

えば、私が引用した諸例は、みな永続的なものであった」と述べています。

 

以上のことから、瞬間的な回心というものは、一時的であれ、永続的であれ、
その人に強烈
な宗教的感激と不動の信仰心というものをもたらすことは確かな

ようです。そのため、宗教生活に大変重要な役割を果たしてきたと思います。

 

しかし、自動現象としてその心理的なメカニズムが解明されたため、逆に、
それが悪用されたとき、
その影響力の大きさゆえに、恐ろしい弊害をもた
らすことがあるということも考慮しなければなら
ないのではないかと思い
ます。







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