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神秘体験・神秘主義-「宗教的経験の諸相」3-


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ウィリアムジェイムズ1 
 (ウィリアム・ジェイムズ)



ウィリアム・ジェイムズは、宗教的生活というものは、見えない秩序が

存在しているという信仰、および、私たちの最高善はこの秩序に私たちが

調和し順応することにあるという信仰から成り立つといえるとし、そして、

個人的な宗教経験というものは、意識の神秘的状態にその根をもっている

と考えられると述べています。

 

前回、紹介した回心、とりわけ、瞬間的な回心というものは、一つの神秘

体験、見神体験という側面がありました。

 

今回は、神秘体験および神秘主義に焦点を当て、ジェイムズがこのことに

ついてどのように考えているかを見てみたいと思います。

 

彼は、まず、「意識の神秘状態」という表現は何を意味するのか?私たち

は、神秘的状態をほかの状態からどう区別するのか?を問わねばならない

としています。

 

その際、「神秘主義」および「神秘的」という語は、しばしば、私たちが

はっきりしない、茫漠とした、感傷的な、事実的にも論理的にも根拠が

ない、というような考えに投げかけられる非難のための用語として使われ

たりするため、この語に制限を加える必要があるとして、神秘的状態と

いうものの四つの標識を掲げています。

 

1.言い表しようがないこと

この状態を経験した人は、すぐに、それは表現できない、その内容にふさ

わしい報告を言葉であらわすことはできないとされる。そうすると、当然、

その性質がどんなものであるかは直接経験しなければわからないことに

なる。それは他人に伝えたり感応させたりできないということになる。

この特性から見ると、神秘的状態は知的な状態よりもむしろ感情の状態に

似ている。

 

2.認識的性質

神秘的状態は、感情の状態に大変よく似ているけれども、それを経験した

人にとっては、また、知識の状態でもあるように思われる。神秘的な状態

は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態で

ある。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表され得ない

ながらも、意義と重要さに満ちている。

 

3.暫時性

神秘的状態は長い時間続くことはできない。まれな例は別として、半時間、

あるいはせいぜい一時間か二時間が限度であるらしく、それ以上になると、

その状態は薄れて、日常の状態に帰してしまう。消えてしまえば、その状態

は、たいてい不完全にしか記憶によびもどすことができない。しかし、その

状態が再び起これば、それと認められる。そして、再発また再発と、絶えず

発展してゆくことがあるが、その再発のたびごとに、内面的な豊かさと重大

さとがますます強く感じられてくる。

 

4.受動性

神秘的な状態の出現は、たとえば、意識を集中するとか、何らかの肉体的な

動作をおこなうとか、その他、神秘主義の手引きなどに定めてあるいろいろ

な方法とか、そういう自発的な準備操作によって容易にすることができるが、

この特殊な性質の意識状態が一度あらわれると、その神秘家は、まるで自分

自身の意志が働くことをやめてしまったかのように、ときにはまた、まるで

自分が、ある高い力によって掴まれ、担われているように感じる。

 

以上の四つの特徴は、特別の名称を付して慎重な研究を要求するに足るほど

特殊な一群の意識状態をなしているとして、ジェイムズは、これを神秘的な

群と呼んでいます。

 

さて、次に、ジェイムズは、偶発的、散発的に現れる神秘的意識について、

いくつかの例を掲げています。それも、神秘的経験の範囲は極めて広いため、

限られた時間内で結論を出すためには、同類のものを並べて研究する必要が

あるとして、特別に宗教的意義を要求しない現象から、極端に宗教的である

と見られる現象へと考察を進めています。

 

ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみでいっそう

深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、といった、もっとも単純な神秘的

経験の階梯、また、いつか、遠い、遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この

同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがあるというような、階

梯がもう少し進んだ段階、さらに、アルコールによる酩酊時や、麻酔時の

啓示的体験を紹介してゆきます。

 

そして、次に、宗教的生活の一要素としての宇宙的、神秘的意識が方法的に

養成される場合について論究しています。

 

ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒と、これらすべてが

方法的に養成をしているというのです。

 

もっとも、ジェイムズは、インドにおけるヒンズー教、とりわけ、ヨーガの

修練、そして、仏教の禅における修行について手短に触れたあと、あまり

なじみのないイスラム世界におけるスーフィ教派、そして、どちらかという

と内部から猜疑の目で見られているキリスト教の神秘家の告白の例示に多く

を費やしています。

 

ペルシャの哲学者で神学者であるアル・ガザリーの告白とは次のようなもの

です。

 

「スーフィ教徒たるための第一の条件は、神ならざる一切のものを心から

追放することである。観想的生活のための第二の鍵は、燃えるような魂から

発する謙虚な祈りであり、神の瞑想に心をまったく呑まれてしまうことで

ある。しかし実はこれはスーフィ教的生活の初歩に過ぎないのであって、

スーフィ教の究極は神のなかにまったく吸収されてしまうことである。」

 

「初歩からして、スーフィ教の啓示は、目醒めたままで天使たちや預言者の

魂を目の前に見るほど鮮やかな形をとってあらわれる。…それから法悦は

形や姿の知覚から、あらゆる表現を絶する程度にまで上昇し、それを説明

しようとすると、その説明の言葉が罪を含まざるをえないまでに至る。」

 

「この法悦の状態を経験したことのない者は、預言という名を知っている

だけで、預言の真の本質について何も知らない。」

 

よって、<法悦状態が伝達できないということが、すべての神秘主義の

基調である、神秘的真理は法悦の経験をもつ者に対してのみ存在し、それ

以外の者に対して存在しない>とジェイムズは述べています。

 

さて、キリスト教会に目を移と、多くは猜疑の目で見られたが、そこにも

神秘主義者は存在したということです。これらの人々の経験が先例となり、

主にカトリックにおいて、それを土台としてその上に神秘神学の体系が

集成されたようですが、この体系の基礎をなしているのは「祈り」

もしくは瞑想です。

 

聖テレサは、神秘的経験における最高のものと見なされる「合一の祈り」

について次のように述べています。

 

「合一の祈りにおいて、魂は神に関しては十分に醒めているが、この世の

事物と魂自身とに関してはまったく眠っている。合一の続く時間は短いが、

その間、魂はまるで一切の感覚を失ってしまったかのようである。そして

何か一つの事を考えようと思っても、考えることはできないだろう。…

要するに、魂はこの世の事物に対してまったく死んだも同然、ただ神の

なかでのみ生きているのである。」

 

「魂がわれに帰ったとき、自分が神の中にあり神が自分のなかにいました

ことを疑うことがまったく不可能なようなふうに、神は魂の奥深くに身を

置き給うのである。」

 

「しかし、見えないものに関してどうしてそのような確信をもつことが

できるのか、と反問されるであろう。この質問に対して私は答える資格が

ない。それは神の全能の秘密であって、私が立ち入るべき筋合いのものでは

ない。私が知っているすべては、私が真理を語っているということだけで

ある。そして、この確信をもっていない魂が真に神と合一したことがあろう

とは、私は決して信じないであろう。」

 

しかしながら、以上のような恍惚状態は、医学的な見地から見ると、迷信と

いう知的な基盤と、変質およびヒステリーという肉体的な基盤の上に立つ

暗示的、模倣的な催眠状態以外の何ものでもないとされます。

 

ジエイムズは、それが事実であるにしても、こういう状態が惹起する意識に

ついての価値に関しては、何一つ私たちには語ってくれないのであるから、

この状態について精神的な判断を下すには、表面的な医学談で満足しない

で、その状態が生活に対していかなる果実を結ぶかを検討しなければ

ならないとしています。

 

そして、<生まれつき受動的な性格で知性の弱い神秘家たちは、実際生活

からの過剰な脱俗に陥りやすいが、生まれつき精神と性格の強い人々の

場合は、それとは正反対の果実が見出される。恍惚状態の習慣をしばしば

極度にまで押し進めたスペインの偉大な神秘家たちは、その大部分が、

明らかに不屈の精神とエネルギーを示したが、それはかえって彼らが恍惚

の状態に耽ったればこそのことであった>と述べています。

 

また、神秘状態においては、個は絶対者と一つになり、同時にまた一体で

あることを意識するというが、このように、個人と絶対者との間にある一切

の障壁を克服することは、神秘主義の最大の功績であるとも述べています。

 

ともかく、神秘的な状態は、その状態の霊感が促す方向に向かって、魂を

ますます精力的にすることができるが、もし霊感が間違ったものであったら、

それに注がれるエネルギーがいっそう間違ったもの、不正なものになると

いうことです。

 

これらのことから、神秘的な意識の一般的な特徴としては、「それは全体的

に見て汎神論的で、楽観的である。あるいは悲観論の反対である。それは

反自然主義的であり、二度生まれ、あるいは、いわゆる別世界的な精神状態

ともっともよく調和する」とジェイムズは述べています。

 

さらに、神秘主義は二度生まれと超自然性と汎神論にくみするとして、何ら

か、それが真理であるという保証を提供するのかという疑問に対して、次の

ように論述しています。

 

1.神秘状態は、十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に

対しては絶対的な権威をもち、そして権威をもつ権利がある。(私たちの感覚

は事実の或る状態を私たちに確信させるが、神秘的体験をした人々にとって、

それがある事実の直接知覚であるのは、私たちにとって感覚がつねに事実の

直接知覚であったのと同じことなのである。…要するに神秘家は不死身なの

であって、私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておく

ほかない。)

 

2.神秘的状態の啓示を、その局外者に対して、無批判的に受け容れること

を義務づけるような権威は、そこからは決して出てこない。(神秘家たちに

しても、私たちが局外者であって個人的にその召命を感じないかぎり、彼ら

がその独特な経験について伝えるところを受け容れよと私たちに要求する

権利などもっていないということを付言する。)

 

3.神秘状態は、悟性と感覚とだけに立脚する非神秘的あるいは合理主義的

な意識の権威を打破する。神秘状態は、そのような意識が意識の一種類に

すぎないことを証明している。神秘的状態は、私たちのうちにそれに活発に

呼応するものがあるかぎり、私たちが安んじて信じ続けていい別の秩序の

真理が可能であることを教える。

 

ところで、ここに至って、ジェイムズは、先に紹介したような神秘的な状態

の特徴について、つまり、汎神論的、楽観論的などとしたことに対して、

真理を単純化しすぎたのではないか、と恐れると述べています。

 

というのも、説明上の理由から、神秘主義の古典的伝統に依拠したからだと

しています。そういう古典的な宗教的神秘主義は一つの「特権的な場合」に

しか過ぎず、それは一つの抜粋であって、もっとも適した標本を選び出し、

これを「学派」として保存することによって、類型に固定されたものであり、

厳密に取り上げるならば、一致と見なされているものは、大部分、そうで

なくなってしまうと述べています。

 

つまり、深く掘り下げると、ジェームズが先に論述したほどの一致を示して

いないのであり、汎神論や楽観論でひとくくりにできないということです。

 

それと、宗教的神秘主義というものは、神秘主義の半分にすぎないと言い

ます。あとの半分には、積み重ねられた伝承というものをもっていない、

妄想的な精神病状態をも含む、低い神秘主義、あるいは倒錯的、悪魔的な

神秘主義が含まれている領域というものがある。いずれも、「天使と蛇」が

併存していると言える潜在意識、超意識の広大な領域から生ずるものである

が、それには、絶対に確実な信任状はなく、そこから出て来るものも、外に

感覚世界から来るものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、

経験全体との対決をいう試練を経なければならない、と述べています。

そして、「私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的

方法によって確かめなければならないのである。それゆえ、私はもう一度

くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に

授与されていると認めるべき義務はないのである」と言明しています。

 

しかし、そう言いつつも、ジェイムズは、「かかる神秘的状態が現に存在

しているという事実は、非神秘的状態こそ私たちが信ずることができる唯一

にして究極的な指令者であるとする非神秘的状態の主張を、絶対的に打破

するものである」と繰り返し言います。

 

一般に、神秘的状態は、普通の外的な意識事実に、超感覚的な意味を付与

するにすぎないとしても、神秘的な状態は恋愛や野心の感情のように、興奮

であり、私たちの霊に与えられた賜物であって、この賜物によって、すでに

客観的な私たちの目の前にある事実が、新しい表現を与えられ、私たちの

活動的生活との新しい関係を作り出すというのです。

 

高級な神秘的状態は至上の理想を、広大さを、合一を、安全を、そして至上

の休息を教えている。その状態は私たちに仮説を与えてくれる。その仮説を

私たちが無視するのは自由であるが、思考者としての私たちにはそれを覆す

ことはできない。それが私たちに信じさせようとする超自然主義の楽観論

とは、どう解釈されるにせよ、結局、この人生の意味をもっとも真実に

洞察したものであろう、というのです。


 






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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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