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宗教と霊魂学


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たましいの救い 
  (水波一郎 著 アマゾン 発売)


これまで、三回にわたってウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』

を取り上げ、彼の宗教に対する見解を紹介してきました。

 

ジェイムズによれば、宗教とは、次のような信念を含んでいると言います。

 

1.目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって、この宇宙から世界

はその主要な意義を得る。

 

2.このより高い宇宙との合一あるいは調和的関係が私たちの真の目的で

ある。

 

3.祈り、あるいは、より高い宇宙の霊―それが「神」であろうと「法則」

であろうと―との内的な交わりは、現実的に業(わざ)が行われる方法で

あり、それによって霊的エネルギーが現象の世界へ流れ込み、現象世界に

心理的あるいは物質的な効果が生み出される。

 

このように<私たちの知る唯一の絶対的実在と常に接触している宗教は、

必然的に人間の歴史のなかで永久的な役割を演ぜざるをえないということ

に同意しなければならない。>

 

<宗教は単なる時代錯誤や遺物でありえず、むしろ、知的内容をもって

いるといないとにかかわりなく、またそれをもっているなら、その内容が

真であろうと偽であろうと、永久に重要な役割を果たすものでなければなら

ないように思われる。>

 

<およそ一個の人間の宗教は、その人間の生命にもっとも深く、もっとも

叡智的なものである>ということです。

 

今回は、宗教というものを水波霊魂学はどう見ているか、そして、それが

意義や価値、また逆に、限界や問題点をはらんでいるとしたら、それは

どういうものか、を記してみたいと思います。

 

水波一郎氏の旧著、『霊魂学を知るために』においては、次のように述べ

られています。

 

「神は、ある巨大な意識体であるが、完全とも限らず、無限とも限らない。

そして、絶対とも限らない。善かもしれないし、悪かもしれなない。」

 

しかし、「私はやはり、読者に、神を知るべし、と呼び掛ける。地上の人間

よりもはるかに巨大な意識としての神霊、そして、その意見を伝える上級

霊魂が、それを真理というからである。これは一種の信仰である。つまり、

心の中で確信するものではあっても、それを証明できないからである。」

 

「人は、信仰ぬきには生きてない。神や仏でなくても、人は何かを信じて

生きている。…人は錯覚の上に立って、実は何かを、事実上信仰して生き

ている。それに気づかない人たちが、宗教者を笑うのである。」

 

「私の霊魂学も、とうてい全ての真理たりえない。神霊から見れば、それ

は子どもにサンタクロースの物語を教えているようなものに違いないから

である。」

 

「私の霊魂学は、宗教こそが最高の道である、と宣言する。宗教はアヘン

以上の麻薬である。人々の理性を神に従属させる。しかし、それが、理性

では得られない真実を知る第一歩なのである。」

 

「理性は、もとより大切である。しかし、それ以上に人間を向上させる

のは、巨大な力と愛と個性への憧れ、つまり、神または神霊に対する

信仰である。」

 

また、『霊魂に聞くⅡ』の第一章で、「高級霊魂にとっての宗教とは何で

すか?」という問いに対して、「この世の人達を真の意味で救う為の道標

です。宗教の分野しか、神霊や霊魂を示してくれるものがないからです」

と記されています。

 

ここに霊魂学における宗教というものの位置づけが端的に述べられている

と思いますが、これだけでは、抽象的で、誤解を生む可能性がありますので、

個別のテーマに沿って説明してみたいと思います。

 

そこで、まず、キリスト教をはじめ多くの宗教において重要視されている

と思われる「祈り」というものを取り上げます。

 

以下、水波氏の近著『たましいの救い』に主に依拠しながら紹介してみたい

と思います。

 

上記のウィリアム・ジェイムズの主張の中にも取り上げられているのですが、

水波霊魂学においても、真剣な「祈り」は、大切な(宗教的)行為だとされ

ます。

 

しかし、真剣に祈ればそれでよいというわけには行かないようなのです。

祈りで大切なことは、それが対象者に届くということですが、問題は、祈り

が届かない、或いは、届くべきところに届いていないということなのです。

 

人が、人生の重大な局面や、遭遇する困難や苦悩に際して、真剣な祈りを

発することはもっともなことなのですが、現代のよう霊的環境が著しく

悪化した状況では、神はおろか高級な霊魂(霊的存在)に届く祈りはほと

んどないようなのです。

 

そして、届かないだけならまだしも、逆に、高級でない霊的存在、未発達

な霊魂や邪霊と呼ばれるような霊魂に届いてしまい、一時、祈りが成就した

ように見えても、後に、様々な障害や不幸をもたらすことが起こり得るのだ

そうです。

 

つまり、祈りを発する人の想念に近い性質の幽体(死後も使用する霊的

身体)を持つ霊魂にしか届かないということです。

 

さて、このように、普通の人の祈りは高級な霊魂には届かず、祈りが良い

結果をもたらすことがほとんどないとすると、祈りという行為は、全く無

意味な行為になってしまったのでしょうか?

 

決してそうではないのです。真面目で真剣な祈りは大きな意味があると

されるのです。

 

確かに、祈りが高級な霊魂に届くことはありませんが、その霊魂に仕えて

いる補助的な霊魂には届き得るようなのです。

 

補助的な霊魂というのは、人間の幽体により近い存在で、霊的な進歩と

いう面では未熟でも、本気で神に仕えたいと思っている霊魂、あるいは

人間を助けたいという霊魂だということですが、そうした霊魂には届き

得るということです。

 

そして、何よりも価値があるのは、その行為が霊的に高級な存在に対して、

自分の意思を明確に伝えることになるということなのだそうです。

 

高級な霊魂は人間の意思を尊重するために、まず、求めるということが

大事であり、神、仏、その祈りの対象の名称がどうであれ、単なる目先

の利益ではなく、高級な霊的存在の指導を賜りたいという祈りが必要だ

ということです。

 

ただし、その祈りの場というものも無視できない状況になってきており、

邪霊が多数いるようなところではリスクが伴うようです。

 

ともかく、祈りの価値とは、高級霊魂に仕える霊的存在との接点を増大

させることであるが、祈りのときとは、肉体(と重なっている幽体)が

動いていない、つまり、自由な意思が高貴な霊魂に向かっていて、なお

かつ、動きが制止している交流しやすい瞬間であるのです。

 

なお、そうなると、瞑想も同じような意味があるように見えますが、そこ

に祈りが伴わないと成果は小さいようです。瞑想の心理的な効果は別にして、

霊的な効果だけを言うと、宗教的な祈りが伴わないものは、成果がほとんど

ないということです。

 

もっとも、祈りと瞑想が組み合わされていると、霊魂にとってはより交流

しやすくなるようですが、瞑想は祈りよりもさらに霊的な危険が高くなる

ため、その危険性を考えた指導システムのもとで行う必要があるようです。

 

ところで、祈りとは、様々な願いを発することですが、一言でいうと、

「救い」を得るためということであり、それは宗教の主要な目的であろう

かと思います。

 

そこで、次に、この「救い」というものを取り上げてみたいと思います。

 

一般的に「救い」というと、現世的な救い、つまり、貧困や病気からの救い

を思い浮かべますし、また、人生における様々な心の悩み苦しみからの救い、

癒しや安らぎを得ることなどが想起されます。

 

しかし、貧困や病気といったものは、政治的手段や医学の発達といったもの

にとって代わられ得るため、宗教固有の領域としては、「心の救い」という

ことになろうかと思われます。

 

もっとも、心の問題の解決も、心理カウンセリングや、精神医療といった

ものが、それに代替してきており、宗教教義、つまり、「教え」による

「心の救い」は、心の修養あるいは成長、癒し、安らぎといったものに

狭められつつあります。

 

(なお、キリスト教などにおける原罪、つまり、宗教的な罪からの救いの

問題は、大変重要なことですが、長くなりますので、別途、取り上げたい

と思います。)

 

とにかく、宗教の果たす役割は、「心の救い」、とりわけ「心の修養」だ

ということになりそうですが、そこに大きな問題があるようなのです。

今まで宗教の重要性を言いつつも、ここに至って宗教の持つ弱点に目を

向けなければならないことになります。

 

心の修養、成長だけでは、あまり価値がないようなのです。表面の心は、

人という巨大な魂のほんの一部に過ぎないからです。(先述のウィリアム

・ジェイムズも表層の意識のみならず、深層意識というものに着目して

いたように思います。)

 

宗教の教えによって表面の心がどれだけ立派になったとしても、癒された

としても、魂全体としての進歩ではないため、死後、上層の世界に入れる

わけではなく、長い目で見れば、真の幸福には至れないし、苦悩から救わ

れないようなのです。

 

さて、以上のことから、祈りや宗教の価値とその問題点を認識したとして、

それでは、本当の「救い」とはなんでしょうか? どうすればそれが得ら

れるのでしょうか?

 

この問いに対して霊魂学は、「たましいの救い」を主張しています。

 

人とは、魂という巨大な意識体で、肉体とその心(意識)、幽体とその心

(意識)、そして、霊体とその心(意識)があり、それら全体の進歩、

向上を図ることが、たましいの救いにつながるとされます。

 

人は、肉体の心のほか、幽体や霊体の心の影響をも受けて生きており、

また、霊魂の影響を受け、幽気という霊的な気の影響も受けているので

あり、霊的な生命体としての救いを求めないと真の幸せは得られない

ということです。

 

とりわけ、死後、行くこととなる世界との関係で、幽体の不調の改善、

強化は喫緊の課題となります。

 

どうも、死後の世界の下層は、言語を絶するほどの恐ろしい世界のよう

で、一度落ちたら容易に抜け出せないところなのだそうです。

 

よって、とにかく、死後、苦しみに満ちた下層の世界に入らないことが最

優先だということです。そのために、生前、肉体と重なっていて、死後、

使用する幽体という霊的身体の健全化と幽体の意識の成長を図っておく

ことが大切であり、それが何よりの救いとなるのだということです。

 

(なお、霊的身体の健全化、幽体等の意識の成長のためのトレーニング法

については、少し前、「神伝の法と信仰」の中で紹介したところです。)

 

最後に、『霊魂学を知るために』の一節を紹介しておきたいと思います。

 

「心の修養は、高級霊魂にいわせると、無価値である。何も変わらない

からである。人間は幽体の未熟さに気がつかない。そして、下層に落ち

てゆく。」

 

「私に言わせれば、心を修養すれば、天国とか、仏のそばとかへ行ける

と考える人は偽善者である。…それはご利益以外の何物でもない。」

 

「真理を目指し、たとえ地獄へ落ちても、仏を信じるというなら、それは

強い信仰である。それで、彼はやはり下層に落ちるかもしれない。しかし、

それが彼の信じる道であるならば、彼はやがて上層へ登ってゆく。幽体の

不健全を解消すれば、必然的に上に登るからである。そして、魂を進化

させ、いつか霊界(幽質界の最上級)の人となる。それが、真の信仰者で

あり、真の修養者である。」

 

以上のことから、我々は、宗教の持つその大きな価値と共に問題点、限界

を明確に見極めることが大切ではないかと思います。









霊魂に聞くⅡ 
 (水波一郎 著 アマゾン 発売)










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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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