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原罪-「罪とカルマ」1-


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神体 


 
 罪というとき、法律用語における罪の概念や、歴史的な用語としての罪
ありますが、ここでは、宗教的な意味における罪というものを考えて

みたいと思います。

 

さて、宗教における罪といっても、仏教における罪とキリスト教などで用い

られる罪の観念は異なりますし、神道における罪も、また、異なります。

 

仏教における罪とは、戒律に反する行為や道理に反して禁断を犯したため

に苦の報いを招く悪行を指すようですが、その罪の根源には、身・口・意

の三業があるゆえ「罪業(ざいごう)」とも言われています。

 

つまり、仏教の罪の根柢には、業(カルマ)、すなわち、善または悪の業を

作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報いが生じるとされる

考え方があり、仏教の場合は、まず、このカルマとは何か、から始めなけ

ればなりません。よって、今回はそれに触れず、次の機会としたいと思い

ます。

 

今回は、キリスト教における罪、とりわけ、キリスト教の教理の一つとして

有名な原罪について紹介しながら、それに対する水波一郎氏の霊魂学の見解

を対置してみたいと思います。

 

さて、キリスト教は、ユダヤ教の影響のもとに、人類の始祖アダムの堕落

物語(創世記3章)を典拠として、すべての人間はアダムの罪を負い、

生まれながらにして罪のなかにあり、それから脱出する自由を自分では

持たないと説きます。

 

これがいわゆる原罪と言われるものですが、この原罪の観念はパウロや

アウグスチヌスなどによって強調され、そこからの救いは神の恩恵にのみ

によるとされたのです。

 

創世記には、次のように記されています。

 

<主なる神はその人(アダムのこと)に命じて言われた、「あなたは園の

どの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木から

は取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

>(創世記2章16-17)

 

<さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。

へびは女(のちにエバと名づけられる)に言った、「園にあるどの木からも

取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、

「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央

にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んで

はいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは

決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、

神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。>

(創世記3章1-5)

 

<女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには

好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えた

ので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることが

わかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。>(創世記

3章6-7)

 

<神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べる

なと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、

「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、

わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、

なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだました

のです。それでわたしは食べました」。>(創世記3章11-13)>

 

<つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。

あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなた

を治めるであろう」。更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べ

るなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろ

われ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、

いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に

汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。

あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。>(創世記3章16-19)

 

このような神話、すなわち、神は楽園に人を住まわせ、そこにあるあらゆる

ものを食べてもよいとされたが、善悪を知る知識の木の実だけは食べては

いけないと言われた。しかし、蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の

実を食べ、女に勧められたアダムもその実を食べたため、神は怒り、アダム

とエバを楽園から追放した。その後、女は産みの苦しみを、男は労働の苦し

みを受けることになった、といった物語が、キリスト教における原罪の源泉

とされるのですが、我々は、この神話のストーリーをそのまま事実として

受け取ってよいのでしょうか?もし、そうでないとしたら、そこには、どの

ような寓意が込められているのでしょうか?

 

水波霊魂学を提唱される水波一郎氏は、神話とは、多くの物語と、一部の
霊感に
よる真実が混ざり合い、変形されて成立したものとされますが、
ここで、水波氏の著書
『神体』に依拠しながら、この神話が何を意味する
のかを考えてみたいと思います。

 

さて、『神体』によると、人類は、この地球が、いや、この物質世界が、

本当の故郷ではないということであり、本来は物質の肉体をまとった存在

ではなかったということです。

 

「至上の神は、先に人間を造られたのではなく、神々(神霊)を誕生させ

られた、そして、神々は上級の霊魂を誕生させられた。上級の霊魂は自分達

の生活する場所を与えられた。それが上級霊魂の住む世界である」とある

ように、最初に神々とその世界が生まれ、その次に上級の霊魂と上級霊魂の

世界が誕生したのであり、この頃は、人類はまだ影も形もなかったようなの

です。

 

「そして、(上級の)霊魂達は成長した。成長した霊魂達は、様々な組み

合わせが、それぞれの合意により誕生し、次々に新しい霊魂となって増えて

いった。やがて、霊魂としての成長は、まったく新しい生命体としての霊魂

を生むことを欲した。」「上級の霊魂達は新しい生命を誕生させたのである。」

 

「上級霊魂達が神霊に願うことによって、新しい世界が創造された。それが

新しい霊魂達が主として生活する世界となった幽質世界である。そして、

この世界こそは、今の人間が死後生活している、広範囲な霊魂の世界なの

である。」

 

ここでやっと、我々人間の真の故郷である「幽質世界」が誕生しますが、

この世界の生活は実に気ままであり、地上と異なり、食べる必要がない

ゆえ、働く必要もない、何もしなくても生きられる世界だったのです。

 

しかし、人間とは身勝手なもので、この新しい世界は自由すぎたために

飽きてしまったようなのです。

 

「この時、幽質という世界の霊魂達は、もっと新しい世界を求めた。彼ら

は物質を求めたのである。幽質界の霊魂達にとって物質は憧れであった。

物質は差別を生む。物質は一定の容姿を作り、生命を維持するための努力

が必要となる。彼らは物資を支配してみたいと考えたのである。」

 

つまり、人類の祖先である幽質の世界の霊魂達は、物質界に降りて、物質

の身体をまとうことを望んだのです。

 

しかし、上級の霊魂達はその考えを支持しなかったようです。上級霊魂達は

個性が大きかったため、彼ら(幽質界の霊魂達)の欲求が不幸を生むことを

察知していたのからです。

 

これに対して、幽質界の霊魂達は、至上の神の名において自由を主張する

権利があるとして、執拗に抗議したようです。

 

「ついに上級霊魂達に戦いを挑んだのである。これは霊魂の世界における

最初の戦いであり、自由のための戦いであった。」

 

もっとも、この戦いは地上の戦いとは異なり、それぞれの霊魂達が特に

組織を組むこともなく、自由に議論するといったものであったようです。

 

「両者はどこまでも並行線のままであった。しかし、霊魂の自由はいつも

強かった。そこで、神々は物質の世界を造られた。それまでの物質はただ

の物質といったものであり、とても霊魂の住みうる場所ではなかった。神々

の力により、物質界はついに生命の住みうる環境へと動き出したのである。」

 

要するに、幽質界の生活に飽きて、物資を支配したいと思った幽質界の霊魂

は至上の神が与えた「自由」という権限を楯に上級の霊魂達に議論による

戦いを挑んだのだが、その自由意思を無視できないために、神々は物質の

世界に、霊魂の住みうる環境を発生させられたということです。

 

なお、物質の世界には時間というものがあるが、最初の幽質の世界には物質

の世界でいうような時間というものはなかったようなのです。そのため、

幽質の世界では、多数の霊魂がまだ議論している程度の間に、物質の世界

では計るのが大変なほど長い時間が経過していたのであり、天体の誕生

から人類の誕生までは、地上の感覚では単位に困るほど長い時間であって

も、霊魂の世界は全く別の次元で働いていたということです。

 

かくして、「人間が物質を支配したいと欲し、物質の世界に降下した時、

人間は時間に縛られる存在となった。時間は物質界において力を持っていた

からである。地上に下りた人間は物質の身体をまとい、物質の食物を食べ、

労働し、睡眠する存在となった」ということです。

 

また、「実は、数万年、あるいは、それ以上前から存在したと言われる人類

と、今の人間とは、霊魂という次元において別の生命体である。過去に

おいて古い人類と呼ばれた生命体は、人類と呼ぶのかもしれないが、今の

魂の先祖ではない」とも述べられています。

 

こうして、人間はついに不自由という言葉を知ったのですが、最初は神々

を讃美したものの、しばらくすると不自由が嫌になり、再び自由を欲し、

もとの世界への移転を神々に真剣に祈ったということです。

 

しかし、神々は答えなかった、というより、物質の肉体を持った人間は、

もはや、もとの霊魂でなくなっていたのであり、その願いが神々には、

いや上級霊魂にすら届かなかったのです。

 

以上のことから、人類の始祖アダムとエバは、蛇にだまされて神から禁じ

られていた木の実を食べて楽園を追放された、そして苦しみを背負うよう

になった、という神話の意味するところは、蛇にだまされてではなく、

上級の霊魂の忠告を聞かず、自らの意思で幽質の世界という、食べなく

ても、働かなくてもよい楽園から出て、地上に降りた、つまり、物質の

世界に入り、肉の身体をまとったため、他の生命体の命を奪って食べなく

ては生きられない世界で生きることになり、労働の苦しみ、出産の苦しみを

背負うことになった、そして、追放されたのでなく、自ら神霊から離れて

しまうことになったということです。

 

なお、『神体』では、「人類は本当の意味で自由になれない。魂の奥の傷と、

大きな罪が消えていないからである。人間は罪人である。それは生まれた

時から決まっている。だからこそ、『罪を悔い改めよ』という宗教が誕生

するのである。禁断の木の実を食べて、楽園から出た魂の再生の結果が、

今、地上に生きる人達だからである」と述べられている箇所がありますが、

ここで言われている「罪」は、キリスト教でいう、いわゆる「原罪」とは

異なっているように思われます。

 

つまり、「罪」といっても、キリスト教などのように、「罰」や「裁き」

による苦しみといったものが想定されているのではなくて、「カルマ」、

「再生」といったものと関わっていて、自らの自由意思による過ちが招い

た苦悩という関係になっていると思われます。よって、「罪」というより

も「根源的な過ち」といった印象であり、単に悔い改めるのみならず、神々

の助力を願い、自らがその霊的カルマを克服し、霊的な進歩向上への道を

歩まなければならないということを意味しているように思われます。

 




 
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