『覚悟としての死生学』


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覚悟としての死生学 




ずっと前になりますが、「死生学」という学問について紹介したことが

あります。死生学とは、新しい学問であって、1960年代から欧米では

ホスピス運動が急速に 広がり、死に直面した患者や家族の要請に答える

ための教育、研究が進められるようになったところから始まったという

ことでした。

 

こういった学問が生まれた背景には、人が死を迎える場所は長年暮らして

いた自分の家であり、そこで家族や近隣の人々に看取られながら亡くなって

行くという伝統的な死のパターンが崩壊し、人々は、病院の中で見知らぬ

医者や看護師の人たちと延命装置に囲まれながらの死を余儀なくされる現代

特有の環境、そして、死について語ることはタブーとされ、その意味を問う

こともできないまま、孤独な死を迎えなければならないというような特異な

状況があったようです。

 

そして、それは、当初、デス・スタディーズと呼ばれ、死だけをテーマに

されていたが、日本や東アジアでは、儒教や仏教や道教の影響からか、

「死生学」とか、「生死学」というように、「死」と「生」をセットで

テーマにすべきだと考えられるようになったということでした。

 

近年においては、欧米では、今なお、死とその周辺において生起してきた

諸問題をデス・スタディーズの対象としている一方、日本では、範疇が

拡大され、死と生が表裏一体のものとしてあるような生の在り方、また、

死と隣り合わせとしての生の危機的な状況に関わる諸問題、また、

「いのちの尊厳」が問われるような諸問題をも死生学の対象とするように

なってきているようです。

 

さて、今回は、病理学者の難波絋二氏の『覚悟としての死生学』を紹介

してみたと思います。

 

難波氏は、生命倫理の具体的な問題を解くには、各自が己の死生観を確立

することが大切であるとして論を進めてゆくわけですが、死生観の確立の

前提として、いくつか大変興味深いことを述べておられますので、まず、

そのことについて触れておきたいと思います。

 

<<「死ぬ」と「殺す」は、同じ現象を、見る立場を変えて述べているに

すぎない。>>

 

<世の中は「殺す」という言葉を使うと物騒だし、いやな感じがするから

これを「死」という言葉で呼んでいるが、患者が自らの力で死ねないので

他人の補助を必要とする状態にあるとき、それを助けるのが良いか悪いか、

というのが尊厳死・安楽死問題の議論のポイントである>としています。

 

そして、<尊厳死というのは、基本的には死にゆく人自らが選ぶ死の形態

(自殺とその幇助)であり、安楽死には本人の意思がなく、慈悲の結果と

しての「殺し」といってよいだろう。つまり、本人に死にたいという希望が

あり、それを容れて苦痛のない死を与える場合は、安楽死でなく、尊厳死と

なる。本人の意思の有無が尊厳死と安楽死を分かつ重大な分岐点となるので

ある。本人の意思が明らかでない場合に行われる「安楽死」は、「慈悲殺」

という殺人の一種なのだということを理解する必要がある>と述べています。

(なお、難波氏は、後述するが、自殺及び自殺幇助は道徳的罪にならない

と考えている。)

 

もっとも、<現代における安楽死問題とは、人が事前に尊厳死について意思

表示をせず、「意識のない不治の病人」になった場合に、それにどう対処

するのが倫理的に正しいかという問題であるが、日本人には遺言を書くと

いう習慣はなかなか根づかない。しかし、徐々に日本人も自分の死に方に

ついて確固たる意見を持つことが、結局はもっとも幸せな人生を送ること

になるのだ、という考え方を持ち始めていると思われる>としています。

 

なお、<日本の倫理学者は、安楽死や尊厳死を倫理固有の問題として議論

しないで、すぐに「安楽死裁判」の判決を引きあいに出すが、欧米の倫理

学者は、倫理に反する法が存在する場合には、法を変える必要性を主張し

なければいけない、という常識を持っている。「法は最低の倫理である」

といわれているように、本来、法は倫理の枠内でなければいけない。法が

倫理を作り出すのは逆転現象なのだ>と述べています。

 

<<臓器移植と食人は類似している。>>

 

<もし食人を「人体成分を口から食事のかたちで体内に取り入れること」

と定義すれば、直接、血液を血管に入れる輸血は食人ではないのか?人体

製剤が医薬品の形で人体に投与されている例は枚挙にいとまがないが、

そうなると、我々が食人をタブーとするのは、肉食を好みながら、牛や

豚を殺すことには反感を抱くという偽善と同じものではないか>と述べ

ています。

 

よって、難波氏は、<臓器移植がカニバリズム、つまり人食いであり、

それは理想の医療ではありえない。しかし、それでも臓器移植をして

でも生き残りたいという患者の欲望を否定することができないとする

とき、やむをえず行うとしても、それほど見上げた行為をしているので

はないと考えるべきだ>としています。

 

<<なぜ、人が人を殺してはいけないのか。>>

 

難波氏は、<この問いに対する答えは簡単だ。人間はそういう社会規範を

発達させてきたからである。というよりも、そういう社会規範を発達させ

えた社会だけが生き残ってきたのだ、というほうが正確だろう>と述べて

います。だから、<歴史的には殺人を許容したり、賛美する社会もあった。

特に、それが仇討ちとか、主君のためとか、神のため、あるいは敵を倒す

ためとか共同体のため、という大義名分で美化されると、人類はいくら

でも喜んで人を殺してきた。殺したり、殺されるのを見ることに、人間は

喜びを見いだす性質があるようだ。「高貴な野蛮人」仮説(類人猿や原始人、

未開人はむやみに殺害をしないという仮説)は誤りだ>といいます。

 

<<人間には他人を殺す権利がある。>>

 

難波氏は、<恐ろしいことだが、人間には人間を殺す「権利」がそなわって

いるのだ。それどころか人間を食う権利だってある。だからメデューサ号の

筏事件とか、アンデスの聖餐事件のように、生き延びるために死んだ人を

食った場合には罰せられないし、ローマ法王も許しを与えたのだ。人間には、

他の動物と同じように自己の生存をはかる「機構」がある。それを「権利」

と呼んでよいだろう。だから、人間には他人を殺す権利(自分の意志で自由

に行なったり他人に要求したりできる資格・能力)があると認めなければ

ならない。この権利があるから自分を殺そうとする人間を殺しても、「正当

防衛」として罰せられないのである>としています。

 

また、<私の考えは、世間の人たちとは逆になっているかもしれない。世間

では人間を殺してはいけないという倫理的原則があり、その例外として

正当防衛や死刑や戦争における殺人があると考えているようだ。私は

殺人権はもともと誰にもあるもので、社会や文化や国家がそれを個人から

取り上げ、必要に応じて個人(例えば死刑執行人とか戦時の兵士とか)に

返しているのだと考える。これが正義という名目での殺人の本質だ>と

いいます。

 

なお、難波氏は、<こういう非常に残酷な、実も蓋もないことを書くのは、

われわれは自分で思っているほど高尚な存在ではなく、南京虐殺やユダヤ人

虐殺をやった人たちやポルポド派の兵士たちと、同じ人間であるということ

をいいたいためだ>とも述べています。

 

さて、そうすると彼は死刑制度存続論者かと思いきや、そうではなく、死刑

制度反対論を展開しています。

 

死刑濫用の危険性、死刑執行人(誰が死刑を行うのか)の問題、誤審の

問題、死刑と犯罪抑止力の効果などを考慮すると、死刑は廃止すべき

だというのです。

 

死刑は殺人の一種であり、それは国家が行う合法的な殺人であると結論

づけています。また、戦場における殺人はなぜ許されるのかという問いに

対して、彼は長い間この疑問を抱えていたとしながら、<「法は最低の

倫理である」といわれる。法が定めているのは、もっとも広い倫理の一部

にしかすぎず、法に違反していなくても倫理的・道徳的には許されない行為

がある、という意味で用いられている。しかし、殺人に関してはどうも違う

のではないか。法が禁止することで、二次的にそういう倫理が成立したので

あろう。もしそうだとすると、戦争における殺人は、国家が禁止することで

二次的にそういう倫理が成立したのであろう。もしそうだとすると、戦争に

おける殺人は、国家が禁止せずに奨励するのであるから、誰も倫理的痛みを

感じない理由がうまく説明できるように思われる>と述べています。

 

つまり、<人間の持つ殺人権は、歴史的に、家族内、部族内、国家内の順

で法的に禁止され、それにともない殺人を否定する倫理が生まれてきた。

しかし、国民国家は国家内殺人については、死刑を除いて禁止したが、

国家間紛争を解決する手段としての戦争を禁止しなかった。だから、国家

殺人としての戦争における殺人は禁止されていないのだ>としています。

 

<<考え抜かれた自殺は倫理的である。>>

 

先に、難波氏は、自殺および自殺幇助は道徳的罪にならないと主張して

いる旨を紹介したが、その理由について次のように述べています。

 

<明治以前の日本の歴史を見ると、自殺禁止の倫理がなく、自殺を否定

したような論述はまったくない。明治国家が自殺禁止を導入した理由は、

近代法体系の整備(特に刑法)にともないキリスト教的倫理が導入された

こと、そして勝手に死ぬことを禁止する方が国家にとって都合がよかった

からである。>

 

<西洋においても、キリスト教以前の古代社会では自殺は認められていた。

自殺を罪と考えているのは、本来、一神教の世界のみであったが、その権威

が揺らぐことにより、現代ヨーロッパでは、急速にキリスト教の法倫理から

抜け出しつつある。よって、現代における自己決定権の承認と自殺について

のパラダイム変換を真摯に受けとめる必要がある。>

 

<現行刑法を読めば、自殺自体が違法という認識で構成されていることは

疑うべくもない。しかし、論点は違法か合法かではなく、倫理的か非倫理

的かである。自己決定権という観点から、人には自殺する権利と自由がある

と認めるべきである。それは、もう一つの基本倫理、「他人に迷惑をかけ

ない」と両立するかたちで行わなければならないが、自殺それ自体に非倫理

的なところはない。>

 

<尊厳死とはつまるところ自殺の一種なのである。だから自殺を非倫理的

であるとする立場からは、これは本来まったく認めらないはずのものなの

だ。日本の優れた文学者であり、文化的指導者であった人たちが自殺して

いるが、彼らが人格破綻した精神病者であったとは誰もいうまい。だとする

と彼らは、一貫した倫理的人格を持っていたのであり、そのなかに自殺を

悪とする価値観はなかったと考えるのが妥当だろう。>

 

以上、死というものにまつわる従来からの常識、あるいは通説をくつがえす

ような病理学者難波紘二氏の刺激的な論述をいくつか紹介してきましたが、

次回は、これらを踏まえた難波氏の死生観について、また、その限界とそれ

を越える考え方について述べて見たいと思います。







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ジャンル : 心と身体

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