死生学と霊魂学


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前回は、難波絋二氏の『覚悟としての死生学』を取り上げ、そこにおける、

従来の死というものに対する常識や通説を覆すような鋭い論述をいくつか

紹介しましたが、今回は彼の死生学に対する考え方について触れるととも

に、死生学の限界を越える霊魂学について述べてみたいと思います。

 

まず、難波氏は、<近年における情報・バイオ革命の進展により価値判断

の多様化が生じ、これまでの宗教や哲学にもとづく倫理道徳に崩壊が生じ

てきている。そして、価値の多様化は、個人の死生観についても生じて

いて、これまでの不動と思われていた人間の誕生や死の基準までもが揺ら

いできている。そうなると、自分のなりの死生観をはっきり持っていない

人々は、ただ自分や他人の生物学的生を長引かすことに最大の価値を見い

だし、かえって充実した生を楽しむことから遠ざかってしまっているの

ではないか>というふうに、いわゆる生命至上主義に対する疑問を投げ

かけています。

 

また、<宇宙の誕生そして生命体の発生と進化の過程を述べたあと、宇宙

の時間の長さに比べれば、生まれる前の時間と死後の時間の方がはるかに

長いのであり、生は一瞬にすぎない>とし、さらに、DNAを根拠に「人類

」の新しい概念について、次のように述べています。

 

<最近になって遺伝子が詳しく調べられるようになると、人と他の大型霊長

類との間では、遺伝子の違いがほとんどないことが明らかになった。人と

チンパンジーのDNAの違いは1.6%で、ヒトとゴリラとの違いは2.3

%、ヒトとオランウータンの違いは3.6%であるが、DNAの違いが3%

以内である場合には、他の生物の場合には別科として扱わないのであり、

同じ基準にしたがうと、チンパンジーもゴリラもヒト科に属し、ただ種が

違うだけということになる。>

 

<このことは、キリスト教などの一神教が説くような、人間が自然界に占め

る特別な位置などなくて、少なくとも分類学上は、他の霊長類と並んで連続

的な位置を占めている。だから、未来の世界は大型霊長類を今とは違った目

でとらえるようになるだろう。こうして人間は自然の一員として位置づけら

れるようになり、その特権を放棄するようになるだろう。このような考え方

は、西洋のキリスト教的なそれよりも、古くからある東洋的な考え方に近い、

ということに注目しよう。>

 

そして、以上のようなことを踏まえて、難波氏は、<人生はその長さでは

なく、それが本人にとっていかに充実しているかが問題となるだろう。短命

で亡くなった人が必ずしも不幸だとは言えなし、長命がすべて幸福とも

言えない。単なる寿命の長短の比較ではなくて、もともと一瞬にすぎない

生を、どのように充実して生きるかということに重きを置くべきではない

だろうか。今夜の眠りが明朝目覚めるという保証は、蓋然性としてしか

存在しないのだから、一時的眠りと永遠の眠りとの差をあまり考えても

意味がない。それよりも、今日を力いっぱい充実して生きることが重要

なのだ>と彼の死生観を表明しています。

 

さて、難波氏の死生観は、それはそれで理解はできるとしても、彼が

付随して述べている霊魂や死後の世界の説明については、かなり疑問

が残ります。

 

彼は、<生きた人間にあるのは意識だけであり、霊魂は存在しない>と

して、<「霊魂の不滅」という説が生まれてきたのは、人間の意識のうち

で非常によく発達している「自分」という意識、別の言葉でいえば自我と

か自己意識にとっては、それが永遠に消滅するという認識は、非常に受け

入れがたいし、恐怖ですらあるから、霊魂が不死であってほしいという

願望を生み、さらに、それが宗教として発展したのだ>と述べています。

 

また、<現実の世の中は結果において不平等で、悪人が栄え善人が苦しむ

こともあり、一生医者知らずの健康に恵まれる人もいれば、終生を病苦に

悩む人もいる。生が一回きりしかないことはあまりにも不公平であり、

この世で苦しんだ代わりにあの世があって、敗者復活戦ができるとよいと

誰でも思う。この願望が生んだ妄想が「死後の世界」や「死後の審判」で

ある>と断言しているのです。

 

これは、前回、紹介したような難波氏の、生の側から見た死というものに

ついての鋭い指摘に比べて、とおりいっぺんの論述という印象を免れません

し、物足りないというか、肩透かしをくったような感じがします。

 

以上が、『覚悟としての死生学』の紹介ですが、これは多岐にわたる「死生

学」という学問的な試みの一つにすぎません。そのほかにも、様々な試みが

なされていて、なかには、死の壁を越えて生と死を包括にとらえようとし、

輪廻転生論のような伝統的な死生観を再検討しようとするものもあります。

しかし、生と死を遮断する壁は依然として崩されていないように思います。

 

さて、このように、現在の死生学は、期待を担って前進を続けながらも、

全体として死のこちら側のみに目を向ける形に止まっているようで、生を

全うすることによって人生を終え、納得した上で死を受容するということ

で完結しているように見えますが、そもそも、死とは、死の特異性とは何

なのでしょうか?また、死というものの向こう側を、また、生と死を俯瞰

的に見ることはできないのでしょうか?

 

評論家の芹沢俊介氏は、 「死に関して重要な事実がある。それは私が

実際に自分の死を経験することができないということだ。」「この経験

不能な主観的領域であるということが、自分の死について不安や恐怖、

嫌悪といった様々な感情を呼び込んだり、死後への想像力をかきたて

てくる理由と考えられる」と述べています。

 

また、思想家の吉本隆明氏は、『共同幻想論』のなかで、「人間にとって

<死>が特異さをもっているとすれば、生理的にはつねに個体の<死>と

してしかあらわれないのに、心的にはつねに関係についての幻想の死と

してしかあらわれない点にもとめられる。もちろんじぶんの<死>に

ついての怖れや不安といえども、じぶんのじぶんにたいする関係の幻想と

してあらわれるのだ。」

 

「人間は自己の<死>についても他者の<死>についてもとうてい、じぶん

のことのように切実に心的には構成することができないのだ。そして、おそ

らくこの不可能性の根源的な原因をたずねれば、<死に>おいて人間の自己

幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から<浸食>されるからだ

という点に求められる。」「人間の自己幻想(または対幻想)が極限の

かたちで共同幻想に<浸食>された状態を<死>と呼ぶ」としています。

 

つまり、死というものが自分で実際に経験することができないものであり、

死というものにまつわるあらゆる観念が共同幻想でしかないのだという

ことになり、「死」というものの真実、全体像を見極めることが現在の

地上の学問ではできないということになります。

 

さて、死という厚い壁を前に、どうしたらいいのかと途方に暮れてしまい

ますが、唯一の方法があるとすれば、この世の人間ではない存在、つまり、

死を経験した霊的存在、それも死後の世界とこの世を俯瞰的に見渡すこと

ができる高貴な存在に聞くこと以外にはないように思われます。

 

そこで、それが可能だとする学問、すなわち、人間の幻想ではない、頭脳

の産物ではない、実在の高貴な霊的存在よりもたらされたという「霊魂学」

という学問について紹介しておきたいと思います。

 

水波一郎氏は、今は絶版になった旧著『霊魂学を知るために』において、

霊魂学とは、まず、<それは、巨大な意識体による霊魂通信の体系である>

と述べられています。つまり、高貴な存在からの情報であり、人間の脳を

経由はするが、脳自体が考え出したものではないということです。

 

ただし、霊魂学は科学でないとされます。なぜなら、霊魂学は、霊魂から

の通信と、地上の霊媒の霊的知覚により成り立っていて、科学的に証明が

困難な、霊的存在との交流を前提とした理論であるため、宗教の範疇に

入るのだそうです。

 

いかなる学問も自説を強調し、それを相手に強要するとき、それは宗教的

独断といえる。科学においても、新しい説が出るたびに塗り変えられてゆく

が、それが進歩というものである。にもかかわらず、霊魂を頭から否定する

のはおかしい。<科学的にどちらも証明できないという立場が科学者として

正しい>としています。

 

なお、「霊魂学」の「霊魂」と何かというと、「霊魂」の定義は非常に複雑

で難しいため詳しい説明は割愛しますが、それは、本来、世間でいう死後の

世界の人間のことではない、死後の世界の人間は霊魂と呼ばす、「幽界の

人間」と呼ぶべきであるとされます。(ただし、霊魂という言葉を通俗的

な意味で使用される場合もあります。)

 

また、<霊魂学は人間と霊魂と神を結ぶ学である>とも述べられています。

つまり、人間の正体が霊魂であり、霊魂の究極の創始者が神である以上、

霊魂学はすべてを対象にするということです。

 

一方、<神学とは、誰もとらえられないものを学問とするゆえ、空想の学

である>とされます。<神など簡単に知りうるはずがないために、未熟な

幽体(死後使用する霊的な身体)をもった学者たちは、難しい理論をこね

回し、神を哲学の世界へ追いやってしまう>のだそうです。

 

また、<世の中には、高貴な世界を神界、天界、仏界、超越界などという

用語を用いる人がいるが、どの名称も、その世界を一度も見たことも聞いた

こともない人たちが好き勝手につけた名称であり、他の説と一致するわけ

もない。一部の霊学書を勝手に経典に祭り上げ、科学を名乗っている>に

すぎないとしています。よって、<神霊界通信など笑い話にもならない。

ましてや、神界通信など絶対にない。なぜなら、神霊もしくは神からの

メッセージは、抽象的な形でのみ可能であり、具体的な言葉にはならないし、

地上の言葉に神霊の想念はあてはまらず表現しようがない>からだそうです。

 

しかし、地上時代、神は人を創られたという教義を信じ、あるいは、様々な

神や教えを信じて死んでいった人々は、死後、自分の信仰が間違いであった

ことに気づくようです。なぜなら、死後の世界は、宗教教義の言うように

なっていなかったからです。それでも、指導霊が真実を示すとき、目覚める

人が出てくるようです。指導霊は、「あなたは神の前に霊魂を知るべきで

ある。しかし、そのうち、再び、神を求めるようにならねばならない」と

告げるのだそうです。人は神より、段階として、まず、高級な霊魂の言葉を

聞かねばならないということです。

 

また、水波氏の著書『神体』では、霊魂学について、次のように記されて

います。

 

<霊魂の学は、霊魂という「実質」を探究するものであり、本来、科学と

して登場しても不思議ではないのであるが、物質学の範囲でないために、

宗教的な分野でしか発見できていないのである。物質学では証明できなく

ても、有るものは有り、無いものはない。事実は一つなのである。もし、

多くの人が霊魂の学を体験を通じて学ぶならば、高級な霊魂達はより深く

人間に関わり、人々を真の幸福へと導けるであろう。>

 

<人間の心というものは非常に奥が深い。それは霊魂としての長い歴史を

刻んで行くからであり、肉体を捨てて、物質の脳を捨てても、生き残って

行くほど複雑だからである。霊魂の神秘は地上の人間には難しい。しかし、

それを無視しては、本当の自分は見えて来ない。いかに頭で考えても、霊魂

を無視した理論は人間を正しく把握しない。つまり、人間は自分の正体と

しての霊魂を探究すべきなのである。>

 

<死後、肉体を捨てれば、霊的世界で使用する身体を持つことになる。

人は、その身体を地上時代にあらかじめ持っている。つまり、人間の

肉体や心も、実は、霊的身体によって影響を受けているのである。霊魂

を無視して宗教はなく、霊魂を無視して学問は意味を持てない。よって、

霊魂の学は至上の学である。>

 

 

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