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「魂のライフサイクル-ユング・ウィルバー・シュタイナー-」を読む

魂のライフサイクル



 

著者は、まず、最初に、発達研究に「死後の世界」が出てきたら、本当にル
ール
「違反(カテゴリー・ミステイク)」だろうか。<発達を問うこと>と
<死後の
発達を問うこと>は、本当は全く関連がないか。関連がないというのは、

それ自体ひとつのものの見方ではないか。ひとつのパラダイムなのではないか。

ひとつの人生観・世界観・生と死のコスモロジーに過ぎないのではないか。

という問いを発しています。

 

輪廻・転生・再生・生まれ変わり・復活などの多様なイメージが含まれる「円

環的ライフサイクルにおける発達のパラダイム」をテーマとして取り上げ、

その意味と構造を、理論モデルとして描き出してみようというわけです。

 

そこで、ユング、ウイルバー、シュタイナー三つの思想と理論を「円環的ライ

フサイクル」というただ一点に絞って、横並びにして、そのズレを際立たせる

ことによって、それぞれの理論地平の位置関係を明らかにしようとします。

 

そして、まず、ユングのから見たライフサイクルから検討を始めます。

 

長くなるので、ごく要点だけをピックアップすると、ユングにとって、人生と

は、無意識的なエネルギーが、夢見る人の夢を舞台にして、勝手に作りだす揺ら

めく影絵でありその無意識的なエネルギーが、勝手に自己を実現してゆく

ことを、人生と呼んでいるのである。』『無意識の存在するであろうその場所を、

ユングは「心(ゼーレ、もしくはプシュケー)」と呼ぶ。』『<わたし>が「心

(ゼーレ)」を持つのではない。むしろ、「心(ゼーレ)が、<わたし>に現れ

る。』『その「心(ゼーレ)が、この<わたし>を場として、自己を実現する。

それが、ユングの地平から見た人生の姿ということになる。』としています。

 

よって、個人の魂が生と死を貫いて連続するとは、まるで次元が違って、むし

ろ、ライフサイクルという出来事それ自体がゼーレの中で生じる。つまり、

「魂(ゼーレ)の自己展開」として、理解されるということになるようです。

 

次に、ケン・ウイルバー場合はどうかというと、ユングがついぞ名前をつける

ことをしなかった、その「心<ゼーレ>」の究極の統一状態を、一言「梵我

一如」と言ってのけ、古代インド思想とつないで見せたところに、ウイルバー

の理論的地平が成立するとし、人は、究極のアートマンに至ろうと、次々に

新しいプロジェクトを企て続ける。企てては失敗し、次の段階に進んでも満足

できず、繰り返し繰り返し、究極のアートマンに至るまで新しい企てを続けて

ゆく。』『そして、ウイルバーの理論モデルで言えば、求めても求めても至り

着けなかったその境地に、人は、死の直後にたどりつく。アートマン即ブラフ

マンの境地。』『にもかかわらず、せっかくたどりついたその境地に、意識は耐

えきれない。もし、そこにとどまることができたら「解脱」である。しかし、

大概は、そこから降りてしまう。再び収縮し始め、新たな肉体に宿ってゆく。

そして、誕生とともにあらためて「あの」究極のアートマンを回復すべく

「アートマン・プロジェクト」を企て続ける。それが、ウイルバーの説く

人生の姿ということになる。としています。

 

さらに、シュタイナーの場合となると、シュタイナーは、死後に「霊的

(精神的」実在を主張する。肉体や魂(心)は失われても、霊的(精神的)

次元の個体性は保たれる。物質的な肉体は死んでも、「エーテル体・アス

トラル体・自我」は、ひとまとまりに残っていて、順にエーテル体が離れ、

アストラル体が離れ、しかし、最後に「自我」だけは、その個体としての

実在性を失うことなく、一貫し、連続してゆく』と考えており、『その

「自我」が、今世の<わたし>に宿っている。この<わたし>として生き

ている。』『そして、その「自我」が、わざわざ、この<わたし>に現れた

ことには意味がある。目的がある。なぜ、この<わたし>として生きる

のか。なぜ、この<わたし>として一生を送るのか。長い長いタイム

スパンをもった「自我」の霊的(精神的)成長プロセスから見る時、

その意味が解き明かされることになる。』『「自我」を見る目こそ、シュ

タイナーという人の、人生を見る目なのである。』と述べています。

 

そして、最後に、先人の残した「魂」をめぐる解釈。それもひとつの

立場から見た解釈に過ぎない。しかし、それは、それは、その思想家が、

自分の人生をかけて紡ぎ出した「魂」の解釈である。そして、本物の

思想は、ひとつの立場から見た解釈として、理論的な整合性を持ち、

体系的な広がりを持ち、歴史的な吟味に耐え得る力を持っている。

と述べたあと、円環的ライフサイクルの問いも、まさにそのため

(永遠の問いのため)に在る。答えはない。何が正解なのか、結局

わからない。大切なのは、この答えの出ない問いとどう付き合うか。

それとどう対応するか、逆にこちらが問われている。』『そして、その

問いを引き受けない限り、実は、私たちは、常識的なライフサイクル

に囚われたままである。』『それに囚われたままの、科学的発達研究を、

私は好まない。同様に、生まれ変わりの信念の囚われたままの人生も、

私は好まない。そうではなく、その異なるパラダイム相互の隙間に

入り込んだ一瞬、問いが生まれてくる。そして、その問いの前に立つ

時のみ、事の真相に触れるチャンスがある。』と結んでいます。

 

ところで、本書をめぐって、当然、共感と反発があったようですが、

とりわけ、反発の振幅が大きかったようです。一方で、「魂」という

言葉が思考停止をもたらす、必要以上に神秘化をもたらし、知的探究

をマヒさせてしまうという意見があり、他方で、知的操作に傾きすぎ

ている、内的な体験の裏付けを持たない空虚な概念だけが空回りして

いるという意見がありというふうに。

 

しかし、この本は三つ理論を「言葉」の位相で検討した。とある

ように、それは止むを得ないことなのかもしれません。「行」のレベル

まで期待することはないものねだりではないでしょうか。

 

ただし、著者は、増補版では、「魂」の解釈から、「魂」の学びへと

進め、魂を学ぶとは、魂を捕えることではない。・・・むしろ、私

たちが魂の中にいる。私たちの方が、魂の一部である。私たちの方が、

魂という織物の一部をなしている。』とし、『「魂」をいかに理解する

か、そう問うた瞬間、「頭」で考えている。・・・そうではなく、その

「私」から離れることを願っていたのではないか。と問い、「魂の

学び」とは、もしかすると、その両方向(溶け込んでゆく方向と考え

続ける方向)に引き裂かれてゆくことなのかもしれない。あるいは、

振り子のように、その方向を何度も往復し続けること。・・・その

とき、魂の学びとは、祈りと、別の出来事ではないだろう。』という

新たな思いを付加しています。

 

死の向こう側は、誰もわからないとはいえ、切り捨ててしまうことが

できない直感のようなものが我々を苛むとしたら、どこまでも魂の

真実を追い求めてゆかなければならないのではないかと思います。

 
 
 
 
 
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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