科学とオカルト

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科学とオカルト

一見、科学とオカルトは、全く相容れないもののように見えますが、どうも

そうではないようです。

 

池田清彦氏は、我々の科学は、いかにギリシャ自然哲学の思想的後衛のような

顔をしていようとも、実は、オカルトの嫡子なのではあるまいか。私見によれば、

科学はオカルトが大衆化した所から生じたのである。と述べています。

 

どうも、パレケルススのような錬金術師から化学や医学が発達したようであり、

コペルニクスの地動説は、占星術から生まれたようなのです。

 

 

錬金術師たちは経験や実験や事実を重視し、その中に科学の萌芽があったと

いえますが、科学との根本的な違いは、どのようなやり方をすればある特定の

理論に基づく結果が再現できるかについてきわめて曖昧であったということに

なります。

 

錬金術が、オカルト的であるのは、もっぱらその方法論にあります。錬金術の

理論は、隠された秘法であるため、今日的な意味で実証可能なようにはできて

いなかったということです。

 

16世紀から始まった科学革命は、技術は、ギルド(特権的同業者組合)に、

理論はもっぱら教会や大学にというふうに独立して存在していた理論と技術

・経験を結びつけようと試みます。

 

しかし、その内実は、未だ、我々がいかがわしいと思っている錬金術や占星術

の理論の一部であり、キリスト教的伝統に対しての異端的な宗教的言説、独自

の神学的信念というニュアンスが強かったようです。

 

さらに、産業革命とともに、大きな変化が起こってきました。錬金術の秘術は

他人のまねができないことに価値があったが、産業革命を経た技術は、これ

とは逆に他人がまねができることに価値が移ってきたのです。

 

また、研究者の業績の評価の必要性なども生じてくることになりますが、

これらの流れについて、池田氏は、第一の科学革命の頃のように、研究は

所詮オカルトだから、優劣の判断基準など知らない、ではすまなくなって

きたのである。そこで、様々なオカルト(個々の研究者の理論や実験結果)

を平準化する必要が生じた。オカルトの大衆化あるいは民主化といっても

よい。社会的に平準化されたオカルトは、公共性を獲得したのだから、

もはやオカルトとはいえない。それでは何と呼ぶかというと、「科学」と

いうことになったわけだ。』と述べています。

 

科学とオカルトの区分けは、普通、思うほど簡単ではないようですが、

簡単に区分けをするとすれば、オカルトは公共性を持たない信念体系

であり、科学は多少とも公共性を持つ理論体系であるということに

なります。

 

もう少し詳しく言うと、「科学」では、同じやり方に従って行えば、だれ

がやっても同じ結果が出ること、これを「再現可能性」と言うようですが、

この「再現可能性」が大衆化された技術やオカルトが科学になるための

公準となったということ、そして、「科学」は、理論から極力個人の特殊

性を抜くこと、主観性を排除し、客観性を重視することで公共性を確保

したということです。

 

つまり、オカルトが再現可能性と客観性を獲得した結果、科学になり、

この二つの公準により公共性を獲得して制度化されたということになり

ます。

 

しかしながら、制度化され、不動の地位を得たのも束の間、科学が進歩

すれば何でも解決できるというような期待とは裏腹に、徐々に様々な

問題点が露呈してきます。

 

客観が一番保証されるのは、数値と、不変の同一性としての実体だと

言われていますが、この二つだけによって記述ができるなら、記述は

完璧な客観性を持つことができます。しかし、それとは裏腹に、日常の

コトバから乖離していく科学のコトバは、一般人にとっては理解不能に

なっていくことになります。

 

公共性を獲得した科学は、建前としては、だれでもわかるはずのものに

なったが、客観を追求するに従って、専門家以外の人にはわけのわから

ないものになってしまったようです。

 

また、科学の高度化に伴ってあらわになってきたのは、科学の巨大化と細分

化です。科学の巨大化は、莫大な資金を必要とするようになり、最先端の

科学理論は実証不可能な理論になりつつあるということであり、また、

専門化、細分化により、一人一人の主観を越えた膨大な客観の累積の総体

は、関係者以外、誰にとってもわけのわからないものとなって、皮肉にも、

客観という公共性を追求した科学が、そのゆきつく先として、徐々に公共性

を喪失しつつあると言われています。

 

池田清彦氏は、オカルトから発した科学は、客観という公共性により、

オカルトとはっきりと別のものになった。それはそのとおりであったし、

今もそのとおりであろう。専門家にとって、彼の専門分野の科学理論は

オカルトとはまったく異なるものである。客観という公共性は、彼が属

する専門家集団の間では未だ有効性を失っていない。しかし、非専門家

の普通の人にとっては、科学の理論は、わけがわからないままにただ信じ

るべき有難い御託宣か、さもなくば社会に害毒をもたらすあやしげな

オカルトになったのである。と喝破しています。

 

これらに対して、近年、科学への盲信に対する批判あるいは反省の声が

あがっていますし、若者の理科離れが進んでいるようです。若者たちは、

科学に魅力を感じなくなったばかりでなく、科学がそんなに良いもので

はないと思いはじめたのかもしれません。客観という公共性を盾に、

巨大化し、細分化し、社会のコントロールが不十分なままに暴走し、

非人道的な技術さえ生み出した科学の危険性を若者たちは感じ始め

ているのかもしれません。

 

では、科学というものにどのような位置づけを与えればいいので

しょうか?

 

池田氏は、科学はもともと、自然の中から何らかの同一性を引き出す

術だったのである。』『我々は自然の中から、くり返して起こることを

見出して、それを法則という形式で記述したのだ。くり返さなかったり、

たった一度しか起きないことに関しては科学は無力なのである。』『世界

ではもともと、科学では説明できないことの方がむしろおおいのである。

たかが、人の脳が理解できる範囲のやり方(科学もまたそういうものの

一つである)でもって、自然を全部説明しようというのは、そもそも無理

なのである。人の脳は自然の一部である。一部で全体を説明するやり方に

無理が生ずるのは、考えてみれば当たり前ではないか。と述べています。

 

となると、科学は、自分がこの世に生まれた意味、生きる意味を教えて

くれない、そして死んだらどうなるのか、どこへ行くのかにも答えて

くれない、と嘆くのは、ないものねだりということになります。

 

池田氏によると、科学を、株式市場や八百屋や野球に置き換えてみれば

よくわかると言います。株式市場が生きる意味を教えてくれないからと

いって、株式市場に文句を言う人はいないだろうと。個々人の生きる

意味といった個別的な点に関しては科学はまったく無力であり、科学

とはそれだけのもの、そういうものだと、と明言しています。

 

かくなる上は、科学に過剰な幻想を抱くことなく、その正当な価値を

見極めるとともに、己の正体とは何か、いかに生きるべきか、そして、

死とはなにか、という個々の切実な問いについては、何物をも盲信す

ることなく、各人が真剣に思索し、また、直観をとぎすまし、思い悩み

ながら、その答えを求めていかなければならないと思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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