魂の不死について-パイドン-

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パイドン 


「パイドン」は、プラトンの対話編のひとつで、死刑宣告を受けたソクラテスが

刑に服し、毒をあおって死ぬ、まさにその日に行われたソクラテスと弟子たちの

魂の不死をめぐる対話、問答の有り様をプラトンの視点で描いたものです。

 

対話編の名前となったパイドンとは、ソクラテスに最後まで付き従った弟子の

名前です。その他、この対話編に登場するのは、エケクラテスというピタゴラス

派の哲学者、シミアスとケベスというピタゴラス派の影響を受けたとされる

も、のちにソクラテスの弟子となった者等ですが、このシミアスとケベスと

ソクラテスの問答が中心になります。

 

最初、ソクラテスは、死に対する態度について次のように語ります。

 

「死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。すなわち、一方では、

肉体が魂から分離されてそれ自身となり、他方では、魂が肉体から分離されて、

それ自身単独に存在していること、これが死んでいるということではないか。」

 

「哲学者は他の人とは際立って異なり、できるだけ魂を肉体との交わりから解放

する者であることは、明らかだね。」

 

「もしわれわれがそもそも何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、

魂そのものによって事柄そのものを見なければならない、ということである。

その時こそ、思うに、われわれが熱望しているもの、われわれそれの求愛者で

あると自称しているもの、すなわち知恵がわれわれのものになるだろう。」

 

「魂の解放をつねに望んでいるのは、特に、いや、ただ、正しくは哲学している

人々だけなのである。そして、哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離する

ことである。そうではないか。」「それなら、本当に、シミアス、正しく哲学して

いる人々は死ぬことの練習をしているのだ。」

 

「節制も正義も勇気も、これらすべての情念からのある種の浄化(カタルシス)

なのであり、知恵そのものはこの浄化を遂行するある種の秘儀ではなかろうか。

そして、われわれに浄めの儀式を定めてくれたかの人々も、恐らくは、つまら

ぬ人々ではないようだ。じっさい、かれら大昔から謎めいた言い方でこういって

いるらしい。秘儀も受けず浄よめられもせずにハデスの国に到る者は、泥のなか

に横たわるだろう。」と。

 

ここには、「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。」

というようなピタゴラス派的な、極端に禁欲的なソクラテス像が描かれて

いますが、ソクラテスが単なる禁欲主義者ではなかったことは、心にとめて

おかなければならないと思います。

 

さて、これに対して、魂は肉体から離れると煙のように飛散消滅するのでは

ないかというケベスが反論しますが、ここから霊魂不滅の証明が始まります。

 

そこで、ソクラテスは、霊魂不滅の証明を試みるわけですが、まず、最初に、

なにか反対のものがあるかぎりのものにおいては、その一方は反対である

他方からしか生じないという生成の循環的構造による証明法によって、生

から死へ、死から生へ循環の必然性を証明しようとします。

 

次に、ものごとを想起するには、人々のうちにあらかじめ知識や正しい説明

が内在していなかったら、それは不可能である、さらに、もしわれわれの魂が

この人間の形の中に入る前に、どこかで存在しており、すでに学んでしまって

いなかったら不可能であるという、想起説による証明を試み、最終証明として、

「イデア論」による証明で締めくくります。

 

「イデア」とは、「まさに正義であって、それ以外のなにものでもないもの」だ

ということです。美についても、善についても、等しさについても同様で、この

世界に存在する個々の具体的な正しいことや美しいことは、いずれも不正や醜さ

やの入り混じった不完全な正義や美であるのだが、これらの不完全な正義や美が

ともかくも正義や美であるのは、正義のイデアや美のイデアを分有することに

よってであるということになります。

 

ただし、プラトンは、このような仮説を立てる根拠については説明していません。

「イデア」が実在するという思想は、議論の余地のない前提としてソクラテスの

グループによって受け入れられていたようです。

 

ともかく、ソクラテス(プラトン)は、イデア論を展開するなか、ある性格(イデ

ア、形相)は、それと反対の性格を受け入れない、むしろ、反対の性格が近づいて

くると、それは滅びるか退却するという論理を導き出し、「不死なるものについて

また次のように言うのが必然ではないか。もし、不死なるものが不滅でもあるなら

ば、死が魂に近づくとき、魂が滅びることは不可能である。なぜなら、すでに

述べられたところからして、魂が死を受け入れたり死んでしまったりすることは

ないだろうからだ。」述べ、最後に、「神とか、生の形相そのものとか、その他

何か不死なものがあるとすれば、それが決して滅亡しないことは、万人の同意

するところだろう。」「では、不死なるものは不滅でもあるかあらには、魂は不死

であるならば、不滅でもあるのではないか」「すると、ケベスよ」「魂が不死で

あり不滅であることは疑問の余地がなく、われわれの魂は本当にハデス(冥界)

において存在することになるだろう」と結論づけています。

 

以上の証明の方法は、現代人にはなかなか納得しにくいところがありますが、

ソクラテスは、良い神々のもとへ赴くという良い希望をもって死んでいったの

であり、プラトンは、その希望をイデア論による霊魂不滅の証明により何とか

理論化しようとしたのではないかと思われます。(ソクラテス自身は、死後の

生について、ピタゴラス派の信仰に希望を抱いていたことが伺われますが、

理論的には、不可知論の立場をとっていたようです。)

 

しかし、イデア論はなお根拠づけを必要とする仮説として提出されているところ

から、プラトンがこの証明に絶対の確信を持っていなかったとされています。

 

シミアスも、霊魂不滅の証明のあとも、「しかし、言論がかかわってきた事柄の

大きさのために、また、人間の弱さを低く評価せざるをえないために、僕として

は語られたことについてなお不安を抱かざるをえないのだ」と疑問を投げかけて

います。

 

そこで、論証ではなく、死後の裁きとあの世の物語というミュートス(神話)で

さらに補完しようとします。ミュートスは、問答法的な議論にある論理的な強制

力はありませんが、代わりにそれは人々を心から心服させることができるから

です。

 

プラトンのミュートスは、多くの非事実と若干の真実を含むが、純然たるフィク

ションではなく、別の高次な真理に一致すべきものとして、つねに代替可能な

物語だとされています。

 

かくして、生きている間のわれわれ自身にそっくりであるが、影のような、煙の

ような、実在性の希薄な亡霊で、ものを見分ける力さえない無力な存在にすぎ

ないという従来のホメロス的な霊魂観を否定して、プラトンは、何としても、

肉体との分離後、生き延びた魂が存在を持続し、生前以上の力と知力と自己

同一性を保持し続けることを示そうとしたのだと思います。


霊魂不滅の証明は、不可能のように思われますが、霊魂不存在の証明も

不可能だと思います。プラトンは、今なお、我々にこの難問に立ち向か

うことを促しているように思います。




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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