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「最後の親鸞」(3)-<信>の行方-

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親鸞
 


今回は、一つのしめくくりとして、親鸞の<信>のあり方そのものについて

考えてみたいと思います。

 

さて、「最後の親鸞」は、1976年に初版が出ていますが、「最後の親鸞」、

「和讃」、「ある親鸞」、「親鸞伝説」の四つの章から構成されていましたが、

1982年に出た増補版には、「教理上の親鸞」という章が付け加えられて

います。

 

高橋順一氏は、「吉本隆明と親鸞」の中で、その間に吉本隆明の中で親鸞の

捉え方をめぐって大きな転換が生じたというのです。

 

非僧非俗の立場であらゆる宗教上の教理、教説、それによってそれによって

支えられている宗派性が最終的に解体してゆく場を追い求めていたのが「最後

の親鸞」である。ようするに「宗教」が最終的に解体され止揚されてゆく

プロセスを、親鸞という一人の宗教者を通して浮かび上がらせようとしたい

というのが「最後の親鸞」の基本的なモチーフだったとして、高橋氏は次の

ように述べています。

 

「端的にいって、「最後の親鸞」における吉本さんの親鸞観の中では、教理上

の親鸞という視点はなかったはずだと思うんですね。(・・・)「教行信証」

における親鸞というのは親鸞の余計な部分である。そこには本当の意味で

の親鸞の思想はない。そういう視点に立って書かれたのが「最後の親鸞」で

あったと思うのです。」と。

 

ところが、増補版の中で、今度は「教行信証」に展開されている、「教義」

という側面から見られた親鸞に光を当てようとしたというのです。

 

いったいなぜなのでしょうか。

 

まず、「教行信証」とはどういう書物なのかについて、それは、過去の教典

を抜き書きして、これを整理し祖述し、そして、そこに注釈を加えるという

形で展開されているものであり、教理上の主張や理論づけを積極的に行うため

に書かれているのではないとしながら、高橋氏は、「吉本さんは、親鸞の教理

というのは具合的にどういうものだったのかということを解きほぐすという

意味で教理上の親鸞、「教行信証」の親鸞を論じたわけではないということ

です。(・・・)一番重要な点というのは、いっさいのオリジナリティである

とか、ポジティヴな主張であるとか、立場性であるとか、そうしたものを否定

しようとしたところで際立っている、また、そうでありつつ逆説的に極めて堅固

な論理によって貫かれているこの「教行信証」という本の性格というものを、

「最後の親鸞」によってつかみ取った親鸞像と付き合わせてみて、そこから何が

見えてくるかというのが、この「教理上の親鸞」という論文で吉本さんがやりた

かったことだろうというふうに思うんです。」と述べています。

 

さて、「念仏を唱えれば、あなたたちは浄土へいけますよ」、「善根を積めば功徳

が待ってますよ」というような「効用の論理」、「因果律の論理」を根本から否定

し、「何のために念仏を唱えるのか」という問い自体をも否定するとき、ありの

ままに生きている、自然過程をありのままに生きてるという事実しか残りません。

 

しかし、そうであればこそ、「まさに何が宗教なのかという問題を含めて、浄土

信仰が、称名念仏が宗教という形を取ることの意味は何か。あるいは別な言い方

をすれば、そこになお宗教といえる契機というものがあり得るとすればそれは

いったい何なのかという問題が当然出てこなければいけない。もし親鸞のなかに

教理上の問題があったとすれば、それはこの問いの中にしかなかったろうと

思います。」と高橋氏は言います。

 

さらに、高橋氏は、「なんらかの因果、目的、効用によってこの世を超出しよう

とする普通の意味での宗教性が全部解体してしまっているわけですから、凡俗の

身が自然過程の中でありのままに生きながら、なおかつありのままに生きている

なかにおいて宗教性というものが成立し得るというふうにならなければならない。

(・・・)この悪の世界のなかでありのままに生きている人間存在そのものの

内部に、自然過程をはみ出す形で出てくるような宗教性の契機というものが存在

しなければならないはずだということです。(・・・)無理やりでもなんでも、

この自然過程の内部そのものに距離をつくり出す、自然過程の内部に宗教性と

自然過程のあいだの空隙をつくり出すようなやり方が必要になるということ

です。」と続け、

 

そして、「では、距離とは何なのか。これが「教理上の親鸞」のなかで吉本さん

のいう<信>という言葉で表わされているものだと思います。この<信>は、

外部にある弥陀を「南無阿弥陀仏」と拝むことではありません。ただあるが

ままの自然過程のうちにある存在者として、ぶつぶつだか何だかしらないけど、

とにかくひたすら念仏を唱えるということです。そうした中からしか生じて

こない自然過程内部における宗教性の契機が、ここでいう<信>の本質に

なります。そうした契機だけがこの<信>に残されるのです。だとすれば

念仏はまさに個人のあるがままの自然過程の深部から漏れ出てくる<信>

への呼びかけの「声」、より端的にいえば息づかいのようなものといえる

でしょう。」と解き明かしています。

 

そしてさらに、高橋氏は、「教行信証」は、やたら難しいだけである意味

たいへん空無な本であると前置きしながら、「親鸞という、無名の非僧

非俗、愚禿であり、何だかよく訳の分からないことをいっている、自分で

坊さんと言っていないから何と呼んだらいいんだろうというふうな存在が、

自分自身の<信>をどう立てるかという問題を考えぬくために書いた本と

いうことになります。」と述べたあと、「そのことがそのまま、浄土門に

おける<信>のあり方というものがどういうものであるかへの一つの答え、

証になる。だからまさに「教行信証」なわけですよね。信の証しなわけ

です。こうして非僧非俗、愚禿の最終的な意味が浮かび上がってきます。

あるがままの自然過程にありつつ、それがそのまま<信>の現れである

ような二重化された自然存在、自らのうちに<信>というかたちで隙間を

抱え込んだ自然存在、それが非僧非俗、愚禿の最終的な意味になるわけ

です。」と述べています。

 

かくして、高橋氏は、吉本隆明が「「最後の親鸞」を書いた段階でも

<信>という言葉は使われているんだけれども、今言ったような意味で

の<信>の意味というところにまではおそらく至っていなかっただろう

と思います。(・・・)でも、「教理上の親鸞」となると、さらにそこ

(「知」と「非知」の問題)を突き抜けて一挙に、<信>の極限、極北の

場へと到達する。「知」と「非知」という普遍化された問題の枠組みさえ

も消えていく極限的な場です。極端にいえば「教行信証」という本は、

親鸞以外の誰にとっても無意味な本であるというふうにもいえるかもしれ

ない。親鸞という一人の存在の内部における<信>の実践、「教行」です

よね、まさに。「教行信証」は親鸞一人の「教行」と結びつくことにおいて

のみ、つまり親鸞という<信>の証としてのみ意味を持ち得る本なのかも

しれない。」と結論づけています。

 

ところで、吉本隆明は、みずからを一貫して「無神論者」と規定してきた

ということですが、吉本がみずからの思想形成の重要な段階においてマタイ

福音書や歎異抄のような宗教書によって大きな影響を与えられてきたという

ことを考えるとき、このような親鸞への深い愛着と執拗なこだわりとは

いったい何だったのだろうという疑問を拭い去ることができません。

 

もし、吉本隆明が現代のような悪しき唯物論の時代ではなく、イエスや

親鸞の時代の人であったら、きっと、間違いなく偉大な宗教者になって

いたのではないだろうかと考えるのは私の勝手な願望でしょうか。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
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