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「バガヴァッド・ギーター」1-聖典の誕生-

バガヴァッド・ギーター1


「バガヴァッド・ギーター」は、岩波文庫で118ページの書物としては小さい

ものです。しかし、この小さい作品は、ヒンドー教の聖典としてインド社会の

人々に広く受け入れられているだけでなく、世界中で読まれている書物でも

あります。

 

現在話されている30以上の現代インド語や、40近い世界の主要な言語に翻訳

されており、ラテン語やヘブライ語、エスペラント語の翻訳まであるそうです。

 

では、なぜ、これだけ世界中で広く翻訳がなされてきたのでしょうか?

 

赤松明彦氏の「書物誕生 新しい古典入門バガヴァッド・ギーター』」により

ながら、その魅力を探ってみたいと思います。

 

さて、「ギーター」には、文字で記された書物というかたちをとる以前に、口頭

伝承の時代があったようです。口頭伝承とは、それが声と記憶で、作品として

語り継がれ、歌い継がれてきたということです。

 

著者は、その伝承が、文字によらず口伝えによる時代があったといわれると、

その時代には、まだ作品としての内容も言葉づかいも定まっておらず、語り手

や歌い手によって様々に、いわば即興的に表現されていたのではないかと思

われるかもしれないが、その予想はなかば正しいし、なかば間違っていると

言います。

 

つまり、確かに「ギーター」の中には、様々な異なった考え方が含まれており、

ときに矛盾したことが述べられていたり、同じ語であるのに明らかに次元の

異なる意味で用いられたりしていることから考えると、おそらく長い年月を

経て出来上ってきたもので、その間に種々の思想を取り込みながら作り上げ

られてきたのではないかと思われる側面がある。しかし、一方で、インドの

文化伝統(インドには、ヴェーダをはじめとする聖典のテキスト(文字では

ない)を代々に伝承してきた家系があって、その家系に属する学者はパンデ

ットと呼ばれている)によって、文字が使用される時代になっても、口伝が

極度に重要視され、制度化されるなかで、音声レコーダーに比すべきほどの

正確さで伝承がなされてきたとしています。

 

ところで、著者は、インドにおける口頭伝承されるテキストの類型を表す

用語として、古来、「シュルティ」と「スムリティ」という二つの語が

あったと述べています。

 

「シュルティ」は「天啓聖典」あるいは「天啓文学」、「スムリティ」は

「伝承聖典」あるいは「聖伝文学」というふうに訳されることが多い

という。

 

この語の意味を「聖典化」という観点から考えてみると、まず、「シュル

ィ」と呼ばれうるのは、「リグ・ヴェーダ」と、「アイタレーヤ・ブラー

フマナ」、「アイタレーヤ・アーランヤカ」、そして このアーランヤカに

含まれて伝承されている「ウパニシャッド」の四つだけであるということ

です。そして、これで「ヴェーダ」(知識を意味する)と呼ばれるひと

まとまりの文献群になっているようです。

 

このヴェーダ文献の歴史的発展の姿は、多様で複雑で画一的な範疇におさめ

うるものではないとすると、では、それがすべて「シュルティ」と呼ばれる

理由は何かということになります。

 

著者は、その理由について次のように述べています。

 

「その理由は、ヴェーダが、太古の聖仙(リシ)が直接見に「見た」神聖な

言葉を伝える聖典類であるからである。「見た」とは、つまり聖仙がそれを

作ったのではないということである。」「ヴェーダは、聖仙(リシ)、つまり

神的な眼をもった詩人-人でもなく神でもない-がまさにありありとその

眼前に見たものなのである。ヴェーダはこのようなものと信じられている

のである。そのことを示すためのものが「シュルティ」という観念に他

ならない。つまり、シュルティとは、ヴェーダの言葉に聖典としての価値を

賦与するレッテルとして生み出された観念にほかならないのである。」と。

 

そして、このような観念を作りだす必要性については、別の新しいテキスト

が生み出されて、それらが新しい価値を持ち始めたからであるというのです。

新しい実用的で便利なテキストに対して、従来のヴェーダ文献を、権威ある

聖典として護持する必要があったからだというのです。

 

もう一つの語「スムリティ」とは、「思い出されるもの」という意味だそう

です。シュルティが聞くことによって直接師匠から弟子への伝承がなされる

ことを意味するのに対し、スムリティにはそのような直接的な伝承の連続性が

ないということです。つまり、スムリティは、シュルティと違って、あるとき

誰かある人によって作り出されたものであるというニュアンスがあるようです。

 

しかし、著者は、スムリティと呼ばれる文献群には、実用性という一つの共通性

を見ることができるが、このように、スムリティが実用性をもつ知識として登場

してきたことは、インド的な知のあり方に新たな局面をもたらすことになったと

しています。

 

つまり、実用的であるとは、その知識が人々によって共有され、実際の生活に

役に立つということであり、シュルティと呼ばれたヴェーダの知識のように

秘密の知として師資相承されるのではなく、公共性をもった知識として広く

共有されることになったのだというのです。

 

そして、もう一つ重要なこととして「ダルマ・スートラ」という、共同体に

生きる人々が、社会的に守るべき規範を定めた規則集の類がテキストとして

出現し、それが、前2世紀頃になるとダルマ・シャーストラ(法典)へ発展

していったということがあるそうです。

 

その中でも、「マヌ法典」が今日でも有名ですが、「マヌ法典」は、その冒頭で、

偉大な聖仙(リシ)たちが人類の祖マヌから聞いたものであると述べています。

 

「リシが聞いた」とは、本来シュルティのもつ特徴であったはずであるが、

マヌ法典は、ヴェーダにも等しい神聖性をみずから主張していることになり、

ここにおいては、スムリティが、シュルティと並ぶ聖典としての価値を表す

概念となったということができ、スムリティもまた聖典化したのであると

著者は言っています。

 

以上のような古代インドのテキストの聖典化の過程を踏まえて「バガヴァッド・

ギーター」を見るとき、どうして「ギーター」がヒンドー教の聖典としての

位置を占めるようになったのかが明らかになってくるのだそうです。

 

本来的には、決して「聖典」といえるほどのものではなかったように思えると

しながら、著者は、今日においては汎ヒンドー的な聖典としての位置を与え

られたのは、「ギーター」がシュルティの勢力圏から逸脱した、あるいはシュル

ィを超越したからである。ヴェーダに代わるものとして自らを受け入れさせる

ことに成功したからといってもよいかもしれない、と述べています。

 

そして、「ギーター」は、御者であり神であるクリシュナが、戦士アルジュナに

語る教説を内容としているが、今この教えを説いている私=クリシュナは、永遠

の過去において最初にこの教えを説いたクリシュナと同じだと言うとき、ここ

において、「バガヴァッド・ギーター」は、時間性を超越したものとなり、聖典

としての独自の永遠性をもつことをそれ自体で宣言しているとしています。

 

さらに、もう一つ重要な点は、クリシュナが教えを説くということにある。神

自らが姿を顕し、一人称で教えを開示する。ここには、明らかにシュルティとは

異なるまったく新しい聖典の誕生した姿をみることができるだろう。「バガヴァ

ッド・ギーター」こそは、ヒンドー教における信仰のあり方の転換点に違い

ないのであると主張しています。

 

次回は、「バガヴァッド・ギーター」の内容へと入っていきたいと思います。

 







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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

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